過去のつぶやき

2024年(1月〜6月)


人間が把握できていることなど、’’全体’’ から見れば実はほんの小さな、ごく浅い、狭い範囲のものでしかないのだろう。

 

考えてみれば我々は、自分自身のことでさえ、いったいどれくらい把握できていると言えるだろうか。

 

ましてや地球に起きること、宇宙におきることのメカニズムを含むあらゆることについて、理解できていることとそうでないことの差は、おそらく想像を絶するレヴェルだ。

 

それでも我が身知らずなニンゲンは、遥かに大きいものを手中に収め、操ろうとする、いつまでも、何度でも懲りずに。

 

龍はそれをどう見ているのだろうか。

 

彼の眼に映ったそれを、もう一度自分自身に投影してみることで何か少しでも気づきを得られるようなら、あるいはそこに希望を見出せるかもしれない。

 

そこに、指針となる種を見つけられるかもしれない。

 

ならば前を向いてゆこう。

あらゆることが、然るべき形で与えられていると信じて。

 

le 4 Janvier 2024


「一旦決めたからには、何があってもとことん貫く」、そういう価値観が社会の主軸を担っていた時代は既に過去となった。

 

考えてみればわかる。

たとえば航海の途中、予期せぬ嵐に遭遇もするだろう。

そもそもが、先々の天候など決して把握しきれるものではない。

都度、潮を読み、風を読み、舵をとりながら進むしかないのだ。

 

人生という名の航海において、航海図は自分の感覚であり、それをとことん信じきることがベースだ。

だからこそ、舵取りの判断に良きヒントを与えてくれる ’’違和感’’ をこそ、決して蔑ろにしてはいけない。

 

出航前に立てた計画どおり何がなんでも遂行することが大切なのではなく、状況に合わせて判断し、決断を積み重ねていくことこそが航海の醍醐味、航海の本質なのだ。

 

そう捉えれば、よりダイナミックに、航海そのものを楽しんでいける気がしてこないか。

 

その過程で得るものは限りなく大きく、目に映る風景は掛替えのないもの、その航海は感動に満ち溢れたものになるに違いない。

 

方向転換を恐れず、むしろ楽しんでいこう!

幾つになっても、そして、どんなことでも。

 

le 8 Janvier 2024


直線と曲線、どちらもそれぞれの美しさがある。

 

けれど、曲線で美しさを表現しようとすると、絶妙な加減が必要とされる分、直線より手間暇がかかる。

センスも要るし、バランス感覚も要る。

 

言葉遣いにも同じようなことが言える気がする。

 

同じひとつの事柄を人に伝えるにしても、内容を事務的に伝えるだけでは素敵なコミュニケーションとは言い難く、本来、その表現は無限に在る。

 

近年、息もつかせぬ勢いで「便利(だと一般的には認識されるよう)なコミュニケーションツール」が開発され続けているが、それに便乗するかのように、表現の単純化、短縮化の勢いまでが増しているように感じられ、なんだか残念でならない。

 

ツールが簡単便利になったからといって、その内容までも簡単にしてしまうのでは、人間という生き物の「単細胞化」がどんどん進む一方だと危惧してしまうのは私だけだろうか。

 

日本語は数ある言語の中でもとても豊かな表現力をもつ言葉だ。

 

’’言葉の綾’’ を楽しめる、微妙なニュアンスを汲み取れる民族の、その能力を退化させないようにしよう。

 

曲線の美、それに通ずる魅力を、味わいながら生きていこう。

 

le 15 Janvier 2024


日本ではこの時期、〔恵方巻き 予約受け付け!〕などというものが巷を賑わわせるが、季節を分けるという意味での「節分」は、春が始まる(=新しい年が始まる)「立春」という日の前日の、冬と春とを分ける大きな節目の日であることを意識したい。

 

その「立春」を間近に控え、春の到来に期待は膨らむものの、それは暦の上でのこと、実際には連日の寒さに身も凍る日々だ。

 

古くから日本人は、’’二十四節気’’ の各一気(約15日間)を更に三つに分け、季節の移ろいを細やかに感じながら生きてきた。

’’二十四節気七十二候’’ といい、一年を七十二に分ける暦である。

 

「大寒」にあたる今を三つに分けると、1月20日から24日頃、25日から29日頃、30日から2月3日頃となり、順に、フキノトウの蕾が出始め、沢の氷が厚く張り、いよいよ「立春」を迎える前には、ニワトリが卵を産み始める、という時期にあたるらしい。

 

確かに ’’沢の氷が厚く張る’’ 情景を簡単にイメージできるほど連日の寒さが堪えるが、白い息を吐きながらこの季節ならではのピリリとした空気の中に身を置くことも、それはそれでいいものだ。

 

冷たい風に身が引き締まるとともに、氣も引き締まる... ような気がする。

 

分厚く張った沢の氷のその下に、生命を湛えた絶えることのない流れがあることを、そこに熱き命の息吹が在ることを、自分もその一部だということを確かに感じられる... ような気がする。

 

le 27 Janvier 2024


把握しきれないほどの星々が宇宙空間に息づいているように、私たちひとりひとりも、それぞれの魂の役割を持ってこの地球という星に生まれてくるのだろう。

 

誰にもその真意を確証することはできないが、(仮にあるとして)転生というものを繰り返す中で、時代を、国を、あらゆる環境を選び、その人生での役割に必要な能力を携えて毎回生まれてくる・・・ おそらくそういう仕組みになっている気がする。

 

だとするなら、能力の種類、質、量も違えば、人間としてのキャパも個々人でとてつもなく異なることは言うまでもない。

 

自己表現に重きを置き、それだけに執着する人生もあるだろう。

けれど、そんな域を、そんな次元をはるかに越えた ’’大宇宙並みのサイズ感’’ で人生を送る人も、かなり少数だが存在する。

大きな大きな役割を担ってその時代に生を受けた人たちだ。

 

彼らは大いなるものからのメッセージを受け取り、能力を最大限に駆使しながら全身全霊で大切なものを発し続けてくれている。

その愛に溢れた勇姿はどこまでも尊く、その生き様からも多くのことを受け取らせてもらえることに、私はいつも感動するのだ。

 

きっと大宇宙への敬意と感謝で溢れている彼らの意識と、大宇宙が深く呼応しあう、そういうことが起きているからに違いない。

 

le 7 Février 2024


いつも自由でいよう。

自由でいられる状況を、可能な限り選択しよう。

 

思い立った時すぐ行動にうつし、行きたい所に行け、見たい風景を見られるように。

 

会いたい人に、会いたい時に会いにゆけるように。

 

そのためには、出来る限り身軽でいた方がいい。

色んな「枷(かせ)」を取っぱらえる自分でいた方がいい。

 

そのためには、自分の心の声を、ちゃんと聞き取れる状況に自分を置くことだ。

 

そのうえで、いつ、どんな時も、真の情報をキャッチし、的確な判断を下せる自分自身でいられるよう、そういう自分をしっかり育んでいこう。

 

どこから始めてもいい。

どんなふうに始めてもいい。

 

さぁ!

閃きを原動力に、自転車に跨って走り出そうじゃないか!

 

自分の力で漕いでいく、この自由な乗り物に乗って!

 

le 14 Février 2024


少しずつ、少しずつ。

 

明るさが増してくる。

 

風が柔らかくなってくる。

 

底の見えなかった哀しみの湖に、太陽の反射が広がりつつある。

 

少しずつ、少しずつ、時は移る。

 

地球の息吹に身を任せ、自然界の巡りに共振しながら、日々をにこやかに紡いでゆこう。

 

理不尽に感じてしまうことも、受け入れがたい出来事も、きっとその先には喜びあふれる事柄が用意されているのだから。

 

それに物事は、様々に織りなす層でできていると捉えられれば、恐れからくる衝動的な判断は、むしろ己を暗闇に向かわせてしまう愚かさだと気づける。

 

少しずつ、少しずつでいいから。

 

また巡ってくれた、春の兆しに喜び感じる季節。

 

自分の生命力にエールを贈ろう!

 

le 18 Février 2024


間違いなく、誰よりも一番長いつきあいでありながら、案外自分こそが、自分自身のことを分かっていなかったりするものだ。

 

育ってきた月日の中で、家庭や学校、社会の見えないナニカに絡みとられ、飲み込まれ、ねじ伏せられ、いつの間にか生まれもった本質部分をどこかに埋もれさせてしまっているかもしれない。

 

外からの期待に応えようとして、無意識ながらも不本意な自分を作ってきてしまった、そんなことだって大いに考えられる。

 

もちろん、どんな自分もすべて自分。

そこに良し悪しはなく、根本的には何も心配することなどない。

 

けれどもし、日々の生活の中で、どうやってもうまくいかなかったり、何度も何度も似たような苦(にが)い体験をしてしまう時は、それじたいが何かのサインだと捉えてみるのもひとつだ。

 

そして時には、思いっきり視点を変えてみよう。

 

自分のことを何ひとつ知らない人の目を通して、思いがけない自分を垣間見れた時、何かがパチンと外(はず)れ、背中の翼が広がるのを感じるだろう。

ずっと折りたたまれていた、愛しい自分の翼を。

 

le 20 Février 2024


何の心の準備もしておらず、全く想像もしていない時に、いきなり齎(もたら)されるものがある。

 

その代表的なもののひとつが『御縁」というものだと私は思う。

 

望んだからといって得られるものではなく、どこかに探しに行ったとて必ずしも見つかるものではないし、億万長者がどれほどお金を積んだとしても手に入れられるものでもない。

 

いやむしろ、人為的 / 作為的なものの全く関与しない時にこそ得られるもののような気がする。

 

’’降ってきたかのように’’ という表現があるが、それは比喩などではなく、まさに、遥か彼方から降ってくるがごとく授かるものではないかとすら思う。

 

そしてまた、気づかなければ、ただ静かに通り過ぎ、遠ざかっていってしまうものでもある。

 

日常のそこここに、見過ごしてしまうような小さなサインが鏤(ちりば)められていて、そのひとつひとつに気づき、丁寧に拾い上げていった先に、思いもよらぬ形で繋がるのが『御縁』だ。

 

振り返ってみて、すべてはその一点に向けて起きていたのだと分かる時、この世のしくみの不思議を思い、人智を超えたものによって生かされていることを改めて思い知らされる。

 

le 25 Février 2024


花々は、無言で佇みながらも、確かなるエールを贈ってくれているもののひとつだ。

 

寂しさや憂鬱に苛まれそうな時、黙って寄り添い温めてくれ、また心踊る時には喜びを共有し、より華やぎを与えてくれる。

 

見渡せば、花々に限らず日常生活はそういうもので溢れている。

 

丹精込めて作られた無農薬のお野菜、然るべき工程を経て作られた調味料、それらを使って丁寧に作られたお料理。

盛りつける素敵な器も、草木染めのテーブルクロスも。

例えば食卓だけ見渡しても、そういうひとつひとつが存在する。

 

受け取り手の喜ぶ顔を想像しながら選ばれた贈り物には、送り手の想いが宿るものだ。

 

緻密な準備期間を経た末の、舞台で繰り広げられるパフォーマンスにだって、熱き応援が込められている。

 

各々が、己の能力をフル稼働させることでエールを贈り合う、その連鎖が広がっていけば、互いに励まし合えることになる。

 

花々がまずその仕組みを示してくれているのではないだろうか。

 

三寒四温、花屋の店先で出会った黄水仙に、思わず微笑み返した閏日(うるうび)の午後。

 

le 29 Février 2024


 「桃色」のことを、私たちはあまり深く考えずに「ピンク」と呼び習わしているが、調べてみると、桃色がモモの花の色からきているのに対し、ピンクはナデシコからきているようだ。

 

万葉集の頃には既に「桃花褐(つきぞめ)」という記述があり、当時の桃色はモモの花で染めた色のことを指していたことを知ると、なんとなくピンク色との違いがイメージできる。

 

花に花言葉があるように、色にも色言葉というものがある。

 

「桃色」の色言葉には ’’優しさ’’、’’愛情’’、’’愛らしさ’’ など、一般的な認識での(あくまで一般的な、だ) ’’女性性’’ や ''母性’’ というものに近い位置づけの言葉が並ぶ。

 

昨今、ジェンダーへの考え方 / 捉え方が大きく変わってきていることで、私の幼少期に当たり前としてあった「男の子はブルー、女の子はピンク」なる慣習は今では過去のものになりつつあるが、私は長年、その不文律、暗黙の定義づけのようなものが大嫌いで、かなり最近までピンクや桃色を遠ざけてきた。

 

けれど歳を重ねた今、上記のような時代の変遷のお蔭もあるが、毛嫌いしてきたピンクや桃色のもつ上品さ、優しさ、温かさに、素敵な色だなぁと感じるシーンが多くなってきた。

 

『桃の節句』の今日、その色の持つ雰囲気に改めて思いを馳せてみると、心持ちも、なんだか柔らかくなってくる気がする。

 

le 3 Mars 2024


カレンダーをめくったその音を聞きつけたかのように、木々たちの芽吹きが加速してきた。

こっそりと、けれど確実に。

 

ここ数ヶ月、微動だにしなかった窓辺の観葉植物さえ、ふと見ると、いつの間にか黄緑色の小さな柔らかい葉っぱをつけている。

 

一月から二月への移行と、二月から三月への移行では、色んなことがだいぶ違うような気がする。

 

とはいえ、晴れた日ならまだしも、この時期はまだまだ真冬並みの冷え込みも珍しくはなく、うっかり気を許して薄い上着で出かけようものなら、帰宅時には凍えるほどの寒さを味わうことになる。

 

冬の続きなのか、春の始まりなのか・・・

 

どちらでもなく、どちらとも思えるこの時期。

気が逸り、なんとはなしに落ち着きを失いがちになるのも毎年のこと。

 

公園で遊ぶ子供たちも、分厚い冬装束の下にたくさんの好奇心を抱えているに違いない。

 

大人も子供も、目には見えない芽吹きの気配を、その小さな黄緑色の新芽を、自分の中に感じる季節がやってきた。

 

le 5 Mars 2024


たまに行くスーパーマーケットに、所作の丁寧なレジ担当の女性がおられ、私はできるだけその人のレジに並ぶことにしている。

ある時彼女は、瓶商品の値段を読み取ってカゴに移しながら、「緩衝材をお入れしておきましょうか?」と問うてこられた。

瞬間、やはりこの人は品のある人だなぁと改めて思った。

 

我々は、言葉というものをついぞんざいに扱ってしまいがちだ。

荒っぽい口調、下品な言葉、投げやりな言い方... 言葉は常に変化するものだが、特に口語はある意味で無法地帯だったりする。

上の例でいえば、殆どの人が「プチプチは要りますか?」だ。

 

私の個人的な感覚だろうが、どうにも居心地が悪く感じる単語に「レンチン」というものもある。

TV で誰もが使い、料理のレシピでも表記されていて、もはや公に認知された言葉なのだろうが、なんとも薄っぺらい。

 

東日本大震災が起きた時、朝から晩までその道の専門家たちの発言が TV やインターネットで流れたが、内容もさることながら、唯ひとり、小出裕章氏は一貫して、省略形でなく「福島第一原子力発電所」「柏崎刈羽原子力発電所」と言っておられたのが私には非常に印象的だった、良い悪いということではなく。

 

日本があの大きな痛手を負った日から13年。

あらゆることに対し、表面的な情報でわかった気にならず、物事の核心、裏側にこそ目を向けていけたらと改めて思う。

同様に、’’言葉’’ に内在するエネルギーを、我々は無意識下で受け取りながら生きていることも、常々意識していたいと思う。

 

le 11 Mars 2024


誰にとっても、一寸先のことはわからない。

己の命の炎がいつ尽きるのか、誰にもそれがわからないように。

 

ならば、今の、この瞬間から先を、どんな心持ちで過ごしていくことを「幸せ」と呼ぶのだろうか。

 

行く末を案じ、不安ばかりの ’’もしも’’ を想定しながら、それが実際に起きた時の準備ばかりに明け暮れてビクビク生きるのか。

所有物を失うことに怯えるあまり、周囲を疑い心を閉ざし、死守することのみ重んじてケチケチと時をつないでゆくのか。

 

それとも。

素敵な出会いに感謝し、惜しみなく愛を差し出しながら、ワクワクをベースに新しい展開のためにエネルギーを注いでゆくのか。

 

時は、誰の上にも同じように刻まれてゆく。

 

心の持ちようひとつで、実は自分の身に起きる現実が全く違ってくるのだが、生きていく上でこんなにも大切なことを、残念ながら私たちは教わらないで大きくなってきた。

 

限りある人生という時間を、’’不安’’、つまり ’’恐れ’’ をベースに生きることほど不幸なことはない。

 

’’愛’’ をこそ、行動のベースにしていこうではないか、せっかくこんなにも豊かな、素晴らしい星に生まれてきたのだから!

 

le 14 Mars 2024


「よぉし! 今日はしこたま買ってくるぞー!」、そんなふうに本屋さんに出かける時、私はお財布の中身を普段より少し豊かにして出かけるようにしている。

 

実感している人がどれ位いるかわからないが、店舗規模の大小にかかわらず、たとえ同系列だとしても、街ごとに、店ごとに、驚くほど品揃えの異なるのが「書店」の特徴だ。

 

だから、一冊でも多くの素敵な本に出会いたい! と鼻息荒く本屋さんを目指す時は、どうしても気合いが入る。

 

どんな物でも、余程でない限り直接自分の手にとり、自分の目で見て納得してから購入する私だが、「本」も最たるもので、膨大な数の中から目に留まった一冊を抜き取り、裏表紙の紹介文を読んでググッと惹かれた本の1ページ目を開く瞬間がたまらない。

ごく稀に、活字のフォント、行間や余白の取り方によっては静かに棚に戻すこともあるが、冒頭の一文で瞬時にしてその世界に誘(いざな)われたなら、購入を即決する場合がほとんどだ。

 

初めて知る著者名でも、導かれるようにしてふと手にした本が、人生の大きな指針となってくれたことは今までに何度もある。

かと思うと、以前は熱心に読んだ作家でも ’’今’’ の自分にフィットするとは限らず、そんな自分の変化を発見することも面白い。

 

ともかく、’’書店は想像以上のワンダーランド’’、これは間違いない。

未知の世界へと続く扉が、珈琲一杯ほどの値段をベースに無限に並んでいるだなんて、こんな凄いことがあるだろうか!

 

(写真はパリの国立図書館。言うまでもなく、’’図書館’’ もワンダーランドだ)

 

le 17 Mars 2024


本当は、’’自分のもの’’ など何ひとつないのだ。

 

全てのものは、今現在、束の間、いっとき、使わせてもらっているだけ。

 

時計の針を進めてみればわかる。

百年後に、自分はもう ’’ここ’’ には居ない。

 

形あるもの、動産にせよ不動産にせよ、銀行に預けてあるものにせよ、そう、私が使っている楽器たちだって ’’自分のもの’’ などと言い切れるはずがなく、地位や役職にいたっても同様だ。

 

この肉体すら、自分のものではなく借り物なのだ。

’’魂の乗り物’’ として、一定期間借りているに過ぎないのだから。

 

それが腑に落ちれば、くだらない執着とは無縁になれる。

 

奪いあったり、羨ましがったり、誰にも盗られまいと意固地になって守ろうとすることが、いかに馬鹿馬鹿しいかがわかる。

 

生き物としての三つの煩悩(食欲、睡眠欲、性欲)の他に、人間にだけ当てはまる『五欲』と呼ばれるものには財欲と名誉欲が含まれるが、果たして幸せに生きる為に必要なものなのだろうか。

 

自然界を見渡せば、’’本当に大切なこと’’ を思い出せる気がする。

我々はみな自然界の一部であり、’’何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでゆく’’、その基本の基本を。

 

le 19 Mars 2024


眼を凝らすとたくさんの光の粒がキラキラと眩しく、耳をすませば気泡のようなものたちの歓びの声がプツプツと響いてくる。

まだはっきりと形を成す前の期待に満ちた時間・・・

 

朝靄の中に見え隠れするような静かな序章からの始まり...

 

あるいは、雷に打たれたような衝撃的な序章からの始まり...

 

一度きりの今生で、私たちはたくさんの「物語」を味わう。

 

あらゆる種類の、様々な出来事に遭遇し、ひとつとして同じもののない物語を「経験」として積み重ねてゆく。

 

それらは何にも代え難い宝物で、自分にしか持ち得ない財産だ。

 

近視眼的には、時には楽しいこと嬉しいことばかりでないかもしれない。

けれど後々になって、マイナス事だと思い込んでいたものが実はプラス事だったんだ! と目から鱗が落ちるように気づけることも少なくはなく、だから人生は奥深い。

 

全ての経験、全てのご縁に感謝できれば、その瞬間から血となり肉となり、己を助くる一番の糧となってくれる。

 

その回路が健全に動いてさえいれば、光の粒はより輝きを増し、この身を包んで更なる高みへと誘(いざな)ってくれるだろう。

 

le 21 Mars 2024


夕方のひととき。

気取らないカフェやブラッスリーの多くは、夜の混雑前に「Happy Hours」を設定している。

英単語を、フランス語の発音(なので「H」を発音しない)で呼ぶこの時間帯は、アルコール類を少し安く提供してくれる。

 

フランスではディナーの開始はたいてい20時頃、早めの人で19時頃、というふうだから、その前のアペリティフタイム。

あるいは、お勤め帰りの人々の、仲間との軽い一杯も当て込んでいるのだろう。

 

気軽な値段だと「ちょっと一杯どう?」と誘いやすくもある。

 

気のおけない会話は、それ自体が楽しいものだ。

なんということのない雑談の中、ひょんな流れから思いがけない展開になる経験は誰にでもあるのではないだろうか。

 

気負わずにいることが、何か楽しいアイディアが閃く時の柔軟な空気感と相俟(あいま)って、「〜ねばならない」という余計な縛りからふっと離れられた時ほど心踊る発想が降ってくる。

 

ならば Happy Hours に限らずとも、日常的に自分自身をそんな状態に置くことを意識していこうじゃないか。

ひとりひとりがそうなっていけば、この世はもっともっと優しさが、渡しあえる愛が増えていくに違いない。

 

多くの ’’喜び’’ を共有しあえる、それこそが Happy Hours だ。

 

le 24 Mars 2024


ふと目に飛び込んできたそれが、あれよあれよと、驚くべき速さで私をある場所へと連れてゆく。

 

顕在意識にのぼってこない部分で、あぁ、この私は潜在意識でそれを強く望んでいたのだと知る頃には、その後の展開から逆算してみるまでもなく、その日その時その場所で、私はそれに目を留め、手にする運命だったのだと確信するに至る。

 

強い磁石に引き寄せられるようにしてそれを手にした瞬間から、まるで祝福してくれるかのように私の全身を薄い膜のようなものが覆い、私は自分の全てをその温かなエネルギー体のようなものに委ねるだけでよいこともどこかで知っている。

 

ただ導かれるままに、誘(いざな)われるままに・・・

 

ゆく道々で、全く関係もない(としか思えない)ことや、取るに足らないほどとはいえ小さなアクシデントに遭遇するが、何ら動じず、ただ客観視している自分に気づいては驚く。

 

時に人生は、自分の「意思」を一旦手放す方がよい場合もあるようだと知るのはそんな時だ。

希望や情熱から始まったものでも、いつの間にか自分を縛る「執着」に近くなったものは、結局は力みとなって良い結果を連れてこないからだ。

 

’’大いなるもののお取り計らいがものすごい勢いで動いている’’

人生には、時々そういうことが起こる。

 

le 25 Mars 2024


己の人生を生きるにあたり、’’他人の目’’ など気にしなくてよい。

人にどう思われようが、批判されようが、所詮それはその人の個人的な感想にすぎず、親切そうな口ぶりであってもそこには妬み嫉みがベースになっている場合さえある。

 

そもそも、人に責任をとってもらえるものではない以上、自分以外の誰の目も気にする必要などない、人生とはそういうものだ。

 

そういうこととは別に、我々は、少しでも他人に自分の良いところを見せたいと、本能的に思ってしまう生き物でもある。

 

レンズの向こう側にいる人に、自分はどう映っているのだろう。

いざカメラを向けられた時に頭をよぎるのは、理想の自分と現実の自分との距離であり、大抵の場合、その理想にとうてい達していないのでは、という不安が、力みを誘発し増長させてしまう。

 

シャッターを切られる瞬間になって反省するのだ、あぁ、日頃からもっと自分を磨いておくのだった、と。

外側をいくら着飾ったとて、カメラのレンズはそんなところにフォーカスしないものだからだ。

 

カメラというものには、内面を引きずり出す力がある。

被写体に取り繕う暇など与えず、容赦なく本質に迫ってくる。

 

自分をさらけ出すしかないのだとしたら、堂々とさらけ出せる自分を、常日頃から生きるしかないのだと知る。

その為にも、他人の目を気にしていてはそうなれないと知る。

 

le 27 Mars 2024


日本とフランスの違いは数え切れないほどあるが、そのひとつに、’’大人の、子供への距離感’’ がある。

 

大人社会のフランスでは、どんな事であれ ’’大人が子供に合わせる’’ ことなど日本に比べて圧倒的に少なく、四六時中、親が子供の世話を焼き、コントロール下に置くこともしない。

新生児の時から親の寝室とは別の部屋で寝かせることがフランスでの一般的なスタイルだ、と聞いた時には驚いたものだ。

 

もちろん我が子に関心がないのではなく、一人前の人格として扱うことで、ごく幼少期から精神的な自立を促す環境に置き、自分のことは自分で解決していく力をつけさせるのだ。

 

10区の住宅地の、ある公園でのひとこま。

年齢もバラバラで、きょうだいに見えなくもないが、そうでないかもしれぬ子供たちの間に、ちょっとした緊張感が漂っていた。

一番年下の女の子が、年嵩の女の子のキックボードを羨ましがっているのか、「ちょっとだけ貸してよ」とアピールしている。

けれど相手は気前よく貸してくれそうな気配ではなく、どうすればこの状況をより良く解決できるだろうかと各々が各々の表情を読み、考えを巡らせている様子がまるで大人のようでもある。

 

人間関係の機微を、小さい頃から実体験で学べる環境は貴重だ。

人生とは、究極のところ、自分で体験し、乗り越えていくしかないことばかりなのだから。

 

le 29 Mars 2024


いつ、どんなタイミングで、何に、そして誰に出逢うのか。

 

人生という旅路に、自分の想像をはるかに越えたものが用意されているだなんて、若い頃には知りようもなかったことだ。

 

衝撃的な出逢いを得た時、そこに至る経緯や状況を観察してみてしみじみ思う、すべての『御縁』は自分では一切コントロールなどできず、前触れさえない時がほとんどだということを。

 

それを私たちは、「宇宙の計らい」や「天からの贈り物」などと表現する。

もしくは、「ご先祖様のお力添え」だったり「守護霊さまのお導き」という言い方もできるだろう。

そうとしか言いようがなく、いやむしろ、実際に ’’そう’’ なのだと確信せざるを得ない。

 

然るべきタイミングで与えられるそれらは、振り返ってみれば、潜在意識で強く望んでいたものだということにも驚かされる。

 

だからこそ、顕在意識にのぼってきたものにしっかりピントを合わせて生きてゆけ、そう促す声を聞き逃さぬようにしたい。

 

魂の記憶がその御縁に快哉を叫ぶ時、それは間違いなく、己の今生でのお役目を再認識させられる時でもあるのだから。

 

ならば御縁に従い、見つけた道を嬉々として進んでいくだけだ。

意想外に展開する物語、そこに感覚のすべてを委ねて。

 

le 31 Mars 2024


美しいモザイク模様、その、ひとつひとつの小片を組み合わせていく作業には、コンマ以下の神経と、その真逆ともいえる鳥瞰的な視点が同時に必要だ。

 

一音一音に細心の注意を払いながら複数の音をなめらかにつなぎ、ひとつのフレーズを、愛あふれる言葉のごとく奏する・・・

ただ音符を並べただけのぶっきらぼうな造作ではとうてい相手の心に届かず、そもそも、音それ自体に魂がこもっていなければ耳を傾けてももらえない  ---  私の業界でいうとそうなるだろうか。

 

だとすれば、目の前 5cm にピントを合わせつつも、全体図、その核心部分を明確につかめている方がいい。

具体的なイメージを、自分の胸の一番温かなところに、しっかり持てている方がいい。

 

行程のすべての側面に真摯に向き合うことで、したたる汗がひとつひとつの小片をより輝かせようし、その集合体は必ずや、よりまばゆい光を放つ唯一無二のものとなるに違いないのだから。

 

おや、どうやら、人生にも同じようなことが言えそうだ。

 

’’一滴でも多くの汗を流せると思える分野’’ に身を投じ、嬉々として学び続けながら、自分だけのモザイク模様を編んでいく。

 

そこにプラスのエネルギーが湧いてこないはずがない。

 

そんな、夢溢れる豊かな世界を、幾つになっても大切にしたい。

 

le 4 Avril 2024


パリの地下鉄に乗っていると、楽器を演奏して小銭稼ぎをしている人たちに遭遇することがそう珍しくない。

アコーディオンやギターの弾き語りで、正直、そんなに長く聞いていられない人たちがほとんどなのだが、ごくごくたまに、東欧の空気感をまとった老ヴァイオリン弾きが、見るからに安物の楽器でものすごい腕前を披露していることがあったりする。

そんな時は、演奏後に小さな缶を持って乗客の間を回るタイミングを待つために、時間が許せばひと駅多めに乗ってしまう私だ。

 

このサクソフォーン吹きも、チュイルリーのカルーゼル凱旋門やルーヴルの一角を縄張りとし、暑い季節も寒い季節も律儀に出勤(!)しては、伴奏の音源をかけながらジャズを吹いている。

  

彼らは、ざっくりとだが二種類に分けられるように思う。

「どうせ誰もロクにゼニなんてくれやしねぇ」と投げやりな人。

そんな彼らは誰が財布を取り出しそうかチラチラ気にしている。

片や、人が聞いていようが聞いていまいが頓着せず、黙々と自分に向き合うように奏でている人。

 

身なりも関係なく、そして実は演奏技術の優劣も関係なく、彼らの心の持ちようがそのまま音に現れる気がする。

 

僅かにさえ分かりようのない彼らひとりひとりの背景に思いを馳せながら、束の間、彼らの音に耳を傾けてみる・・・

これも、パリに流れる時間のひとつだ。

 

le 6 Avril 2024


オーボエやフルートのように複数のパーツに分解でき、小さなケースに収納して運べる楽器とは違い、チェロやヴィオラ・ダ・ガンバなど、図体が大きい楽器の持ち運びはけっこう大変だ。

 

こういう楽器の奏者が飛行機を利用する時、自分の席とは別にもうひと席分の支払いも必要なのだが、この見えないご苦労は我々の業界以外の人にはあまり知られていないかもしれない。

 

車を使わず、ひとりで運べる一番大きな楽器はというとコントラバスだろう。

少数派だが、私のフランスでの演奏仲間の中には、演奏旅行でも必ず自分で自分の楽器を運ぶ人がいる。

ソフトケースに入れ、直径20cmぐらいの車輪をひとつ付けて、指板部分を肩にかけながら前方に押し出すようにして運ぶのだ。

けれど飛行機での移動となると、客席エリアに持ち込めるのはチェロの大きさまでなので、問答無用でものすごく頑丈なハードケースに入れて機体の底に預けるしかないのだが。

 

そのコントラバスから比べると、チェロはまだ、日常的にこんなふうに背中に背負えるだけ気軽なのかもしれない。

 

あ、そう言えば!

アンリ・カルティエ=ブレッソン Henri Cartier-Bresson の、コントラバスをむき出しで背負いながら砂利道を自転車で走る、セルビアで撮影された写真を思い出す。

 実際にそんな光景を見たことは未だかつてなく、この先もありそうに思えないだけに、初めて見た瞬間から印象に残る一枚を。

 

le 7 Avril 2024


ポンデザール Pont des Arts をそぞろ歩く人たちが、澄んだ歌声に足を止める。

 

東からは、ポンヌフ Pont Neuf をくぐって小型ボートがセーヌを走り、西からは、春先の午後のお日様が、慈愛あふれる暖かい光で彼女に声援を送っている。

 

ギターを爪弾きながらのメロディーは、遠い祖国の歌なのだろうか。

朗々と歌い上げるでもなく、マイクに向けてささやくように、語るように。

時には訴えかけるように紡いでゆく歌を、人々がそれぞれの受け取り方で聞き入りながら、温かいものを共有するひととき。

 

平和とは、幸せとは、豊かさとは。

日常のそこここに、その気になりさえすればいくらでも見つけられるということを、つい私たちは忘れてしまいがちだ。

 

受け取ることばかりにかまけて、差し出すことを忘れがちだ。

 

当たり前のことなど何ひとつなく、全ては ’’循環’’ の上に成り立っているというのに。

全ては、これ以上ない絶妙なバランスの上に在るというのに。

 

そんなことを思い出させてもらえるある日の散歩道。

流れる川、そよぐ風、そして歌声によって。

 

le 8 Avril 2024


地下鉄「ポンヌフ駅」を老舗デパート「サマリテーヌ」側から地上に出ると、すぐそこは橋のたもとだ。

 

1607年竣工当時につけられた名称「Pont Neuf」(Pont は ’’橋’’、Neuf は ’’新しい’’ の意味)のまま、セーヌにかかる最古の橋としての威厳を保ちつつ、今も美しい姿を見せてくれている。

 

観光客で賑わうその橋の中ほどに、ひとりの老アコーディオン弾きが忍びやかに佇んでいた。

遠目に観察していると、行き交う人々は誰ひとりとしてこの老人を気にもとめず、老人の方も目線を下げたまま単調なメロディーを奏でている。

 

私は大抵、撮らせてもらう前に投げ銭箱に小銭を入れ、カメラを示しつつジェスチャーで承諾を得ることにしているが、この老人からパッと花が咲いたような笑顔が帰ってきたことに驚いた。

 

そうなのだ、人は誰でも人と繋がりたいもの。

世知辛い世の中、中にはそんなことはお断りという人もいるようだが、彼らはもしかしたら、過去に受けた屈辱や攻撃が、棘として心に深く刺さってしまっている状態なのかもしれない。

 

本来私たち人間は、良きものを差し出し合い、励まし合うことで、互いの魂を輝かせ合える生き物なんだと思う。

 

互いの存在そのものを讃えられれば、たとえ一瞬の接触でもそこに光が立ち上がる、そんな素敵なことに気づかせてもらえた。

 

le 10 Avril 2024


「友人のライヴがペニッシュであるんだけど一緒にどう?」。

聞くと、ボサノバなどのラテンの曲をやるという。

内容にも惹かれたし、セーヌに浮かぶ船の中での夕方からのライヴに、尚のこと興味がつのった。

 

普段、いわゆるコンサートホールや劇場で演奏することが圧倒的に多い私は、聴衆として足を運ぶのもそういう会場が多く、そうではない空間で聞ける機会は新鮮でいい。

 

夏時間に切り替わって日没が徐々に遅くなり、日中の春の陽気がしたり顔で夜に忍び込もうとする時間帯。

船底から微かに伝わってくる揺れは、ゆりかごに揺られているような心地よさだ。

そして、パーカッションとピアノのリズムの揺れがクラシックにはない微妙な気だるさを煽り、その上に踊るヴァレリーの声。

 

「音楽」とひとくちに言っても、ありとあらゆる種類の音楽が並行して存在する都会の夜。

劇場ではオペラが、シャンソニエやジャズバーなどではほろ酔い客を前に、それぞれの素敵な時間が流れていることだろう。

 

普段呼吸している世界とは別の世界が、すぐ手の届くところに無限に広がっていることを、こんな機会に思い出させてもらえる。

 

そう、世界は果てしなく豊かで、自分の知っていることなどほんのひと握りでしかないのだということも。

 

le 11 Avril 2024


面白いもので、と言っていいのかどうかわからないけれど、それぞれの楽器、奏者のタイプは驚くほど全世界共通だ。

何十年と様々な国籍 / 人種の演奏家たちと仕事をしていると、データをまとめて発表したくなるほど、楽器ごとにはっきりと傾向がわかる。

 

自分の楽器だからか、オーボエ吹きなど最たるもので、数多くのフランス人、他にも西欧の各国、新大陸や南半球の人たちとも共演しているが、笑ってしまうほど似たところがあるのを感じる。

 

並んで吹いていると、ほんの些細なことへの反応などで、「うわっ! 同んなじやん!」と驚くことの何と多いことか!

そして密かにホッとするのだ、「あぁ、私だけがヘンなわけやなかったんや...!」と(世間一般的には ’’ヘン’’ でも、だ)。

 

ヴァイオリン弾きという人種も、これまた面白いほど全世界、どんな人種でも、’’いかにもヴァイオリン弾き’’ なのである。

その具体的な点はまたの機会に譲るが、明らかにチェロの人とは違うし、ヴィオラ奏者とだって星が違うほど性格が異なる。

 

何故だろう?

もともと似たような性格の人がその楽器を選ぶのかもしれず、その楽器に精通していくことで自ずと似通ってくるのかもしれず。

おそらくその両方だろうが、それにしても、生まれた国も人種も違い、世代も違うのに、というのがなんとも不思議で面白い。

 

 le 12 Avril 2024


そのものの在りのままの姿を、実態を、私たちはいったいどれくらい正確に見ることができているのだろう。

 

そもそも、「自分の眼」じたいが既にひとつの媒体、フィルターだということを、私たちはつい忘れがちだ。

また、「視力」だけで見ていると勘違いもしがちだ。

 

中には、何かに映ることで、何かを通して見ることで、むしろ本質に近づくことができる場合もある。

 

いずれにしても、一見したぐらいでは、’’垣間見た’’ という程度にしかすぎないことを、いつも意識していたいと思う。

 

見たつもり、分かったつもりになることで、それが徒(あだ)となり、核心に迫るには道半ばにもかかわらず、まるで完登したと思い込んでしまうことほど残念なことはない。

 

見ようとし、知ろうとし、あらゆる手立てを「これでもか!」と駆使する過程にこそ、ヒントとしての導きがいくつも現れる。

 

どんなに便利でお手軽な時代になったとしても、本質に至るべく費やす時間や労力は、決して減らせるものではないはずだ。

 

むしろ、どこまでも費やすことを惜しまずにいよう!

その行為こそが、実態、真実、本質、核心に一歩でも近づける、代替のきかないもののはずだから。

 

le 14 Avril 2024


若いバレリーナたちの、稽古場や舞台袖での姿を捉えた作品で名を馳せたエドガー・ドゥガ Edger Degas(1834 - 1917)。

 

当時、ブルジョワが踊り子のパトロンになる風習もあって、裕福な家の出であるドゥガもそういう位置にいたのだろう。

だからこそ、一般人の出入りできない舞台裏での彼女たちをモデルにすることができたのだと思う。

 

「絵画」の他に「彫刻」でも踊り子をモチーフにした優れた作品を残しているが、彼は「写真」でも自身の才能を開花させた。

そのことを、回顧展で会遇するまで実は私は知らなかったのだが、それぞれの表現手段での作品群はどれも甲乙つけがたい素晴らしさで、彼の豊かな才能のほとばしりに改めて驚かされた。

 

私たちは生まれてくる時に、沢山のものを携えて生まれてくる。

どんな能力を持ってこの世に生を受けるのかは、’’トリセツ’’ があるわけじゃなし、もちろん親にだってわからない。

 

’’生まれる時に持ってきたもの’’ は自分自身で ’’わかる’’ しかないのだが、いつ気づけるか、それも人それぞれだろう。

 

様々なタイミングに、ひとつでも多く気づいていけたら幸せだ。

 

そのためにも、他人と比べるのではなく、周囲の声や出来事に振り回されることなく、自分自身に真っ正面から向き合おう。

’’持ってきたもの’’ に気づき、磨き、どこまでも輝かせていこう。

思うにそれが、魂が歓ぶ最高の生き方なんだと思う。

 

le 16 Avril 2024


その対象物への「尊敬」、「畏敬」、「憧憬」 etc...  たくさんの想いがとめどなく溢れた時、どうしても触れたくなるのだ。

 

確かめたくなるのだと思う、その存在の重みを。

衝動というより、魂の芯から強く湧き起こってくるものとして、より近づき、知りたくなるのだと思う。

 

時にその対象物は、物質的なものばかりとは限らない。

 

... いや、その表現は少し違う。

視覚が捉えているのは物質の一番外側でしかなく、物質であることを越えたところにあるそのものの ’’存在じたい’’ に心が打ち震える時、’’触れたい’’ という願望につながるのだろうから。

 

とすれば、触れるための「手」は手段の一例にすぎず、こちら側の全身全霊で対象に触れられた時、自分の中に起きる変化は想像を超えた、時には次元を超えたものになるかもしれない。

 

なにせこの星は神秘に満ちたところだ。

ニンゲンが理屈で理解できていることなどほんの数パーセントでしかないのなら、絶対的信頼で感覚に舵をとらせる方がいい。

 

触れたくなる対象物、そういうものとの歓ばしき出逢いは、感覚こそが導いてくれるのだから。

 

le 17 Avril 2024


いったい何体の彫刻があるのだろうか、広い庭内はまるで美術館のごとく、四季折々の樹々や花々、季節ごとの空や雲とともに、それらに囲まれて過ごす時間はいつ足を運んでも心が解放される心地よい場所のひとつだ。

 

チュイルリー公園 Jardin des Tuileries。

東西に長いその公園の、一番ルーヴル寄りの門のそばに、ルイ=オーギュスト・レヴェック Louis -Auguste Lévêque(1814 - 1875)作の美しい女神像二体が設置されている。

 

そのうちの一体、セーヌ川を背に、北を向いて立っているのが『狩りの女神ディアーヌ Diane chasseresse』。

猟犬の頭を撫でる優しげな表情は、その肢体から滲み出る品格とともに、いつもうっとりと見上げずにはいられない美しさだ。

 

品格 / 気品というものは、もちろんその造作じたいも関係なくはないが、究極的には内側から滲み出てくるもののように思う。

 

この人工物である彫像も、作り手の、祈りにも似た想いが製作過程に宿るからこそ、見る側に特別なものが伝わってくるのだ。

 

芸術作品に限らず、日常のどんなもの、どんな事柄、言動ひとつにも、品格 / 気品があるのとないのとでは大きな違いがある。

 

そしてそれは、一朝一夕でどうこうできるものではない。

だからこそ滲み出てくるのだ、深いところから。

 

le 19 Avril 2024


その一瞬は、どんな時に、どんな形でもたらされるのだろうか。

 

たまたまその時、そこに居ることでそれを受け取ることができるが、 そこに居たとしても俯(うつむ)いていたり、別方向を向いていたりしたら、残念ながらもはやそれまで。

知らずにいると知らぬまま、去っていってしまうものなのだ。

 

人生には、数え切れないほど取りこぼしてしまうものがあるのだろう、きっと。

 

全てを手にすることは出来ないとしても、もし沢山のチャンスとして ’’与えてもらっている’’ のだとしたら、ひとつでも多くを受け取ることができたらいいなぁと思う。

 

但し、目を血走らせ、躍起になっても受け取れるものじゃない。

 

むしろ自分を大切に、つまり自分に正直に、ニュートラルな状態で過ごしていることが大切なようだ。

 

アンテナだけはしっかり立てておき、あとは何ものにも捉われず、損得勘定なんかに振り回されず、他を羨まず、日々を感謝だらけで過ごしているのがいいようだ。

 

『思いもよらぬところから、思いもよらぬタイミングに、思いもよらぬものがもたらされる』

漠然とでいい、その理(ことわり)を知っているだけで。

 

le 21 Avril 2024


柵のあちら側とこちら側。

一見、分断されているように見えるけれど、本当にそう?

 

だって、風も音も、光も、何も障害なく通り抜けてるよ。

 

意識がそれをどう捉えるかで物事はまったく別の見え方になることを、私たちはあまり教わらず大きくなってきちゃったよね。

 

柵のこちらにいる自分と、柵の向こうにいる他者。

人間は、つい自分本位で考えがちだから(もちろん基本の基本はそれでいいんだよ)、自分が満たされていないと、柵の向こうにいる他者を柵のこちらの自分に無理やり共鳴させようとする。

 

もしかしたら、「柵の向こうは自分には持てていない素敵なもので溢れているのだろうから、そこで楽しそうにしているなんてゆるせない!」、そんな心理が働いちゃうのかな。

 

世の中には一定数、いつも他者をやっかみ、自分のいる場所にまで引き摺り下ろそうとする人がいるのが残念だよね...。

 

目に見えるものばかりに支配されていると大切なことを見誤る。

自分のいる柵のこちら側にだって、あちら側とは違う素敵なもので溢れているのに。

 

否、そもそもあちらもこちらもない。

全てはワンネスだとわかっていれば、心は騒つきなどせず、どんなことにも感謝が溢れ、身も心も満たされてゆくんだよ。

 

le 25 Avril 2024


歩き始めたこの道は、いったいどこへ向かっているのだろう。

どんな場所に続く道なのだろう。

ゆく先に、はたして何があるのだろう。

 

... いや、それらは、別に重要なことではないのかもしれない。

 

すべてが決められているのではなく、歩みを進める時間の積み重ねが、先々を創り上げていくのかもしれないのだから。

 

その一歩がどんな一歩かによって、どんな光の中をゆくことになるのかが違ってくるのかもしれないのだから。

 

ほら、差し込む光も、刻一刻と変化を遂げているじゃないか。

 

その光さす時間の中を、何を己の軸として進んでゆくのか。

 

それこそが、この世に生まれてきた醍醐味であり、だとしたら、経過をこそ存分に味わうべきなのかもしれない。

 

怖がらなくていいのだ、きっと。

 

光が常に守ってくれ、導いてくれている、その動かしようのない事実を、いついかなる時も忘れずにいさえすれば。

 

信じるに値いする自分自身を、見失うことなくいさえすれば。

 

le 29 Avril 2024


’’メッセージ’’ は不意にやってくる。

とても静かに降ってくる。

 

速達郵便や宅急便のように玄関の呼び鈴が鳴らされるわけでもなく、郵便受けに不在票を入れておいてもらえるものでもない。

当然、再配達のシステムもない。

 

ふとした時に、胸のどこかが何かをキャッチすることでメッセージが来たことを知るしかなく、そのためにはいつもしっかり感覚を開き、心の耳を澄ましているしかない。

 

世の中、テクノロジーに頼る仕組みに拍車がかかればかかるほどメッセージには気づき難くなることを、どこかで知っておく方がよさそうだ。

 

便利な機能というものは、その性能が高ければ高いほど我々の感覚を衰退させてしまう側面もあるからだ。

 

顔を上げ、頭上を見渡す時間を持とう。

その時にこそ深呼吸ができ、心の扉が開くから。

 

手元の電子機器から離れる時間を持とう。

視野がグンと広がり、あらゆる感覚が連動し始めるから。

 

メッセージがどんなところに隠されていて、いつ、どこから、どんなふうに降ってくるのか、事前予告など一切ない。

’’その瞬間’’ に自分自身でキャッチする、手段は唯一それのみだ。

 

le 30 Avril 2024


切り撮られた一瞬。

そこには、その時空間に存在したすべてが閉じ込められていて、こちらからその中に入っていけば、たちまちその世界にワープできるのだろう。

 

鮮度高く凍結されたその一瞬。

空気も、音も、匂いも、言葉も、息遣いや心情まで、あらゆるものがそこに在り、その奥にある希望や信頼、愛までもが永遠に刻まれる。

 

否、永遠として信じたいという想いこそが刻まれるのだろうか。

 

それが、実は叶わぬ夢だとどこかでわかっているからこその、儚い夢だと知っているからこその、せめてもの祈りにも似た願いなのだろうか。

 

窓の外の空だけが実態だと誰が言うのだろう。

 

映し出された影は、ならばどのような意味を持つのだろう。

 

ここに、この中のどの部分に、’’わたし’’ は居ることができるのだろうか。

 

あぁ、せめて私の声の形作る、たったひとつの単語だけでも届いてほしい、今はもう虚構と化した時間だとしても。

 

le 4 Mai 2024


ここに来る時に持ってきた道具(能力という呼び方をされる場合もある)、配られたカード、それらをどう使い、どう役立てながら使命を果たしていくのか。

 

与えられた仮初(かりそめ)の期間を終える時、どんな心持ちになっていたいのか。

 

静かに、穏やかに、温かい気持ちで思い浮かべてみればいい。

 

できれば心の底からの歓びにあふれ、「あぁ、全力でやりきった。思いっ切り挑戦した。全身全霊で愛し抜いた。」と、これ以上はないくらい思いたい。

そうあれる自分になっていたい。

 

決して結果ありきではなく、その時までのすべての瞬間を、自分自身を誤魔化すことなく積み重ねていきたい。

 

どんなに取り繕(つくろ)っても、全世界をうまく騙しおおせたとしても、自分自身はお見通しなのだから。

 

だったら、「すごいよ私!」と全宇宙に向けて堂々と誇れるよう、それをイメージして日々を積み重ねていきたい。

 

晴れやかに、どんな時も顔をあげて。

 

誰に対してではなく、この私、自分自身にこそ。

 

le 9 Mai 2024


生まれた時から身の回りにある物には、’’ある’’ ということが当たり前すぎて、改めてその存在意義を考えたりはしないものだ。

 

今の時代でいえば、携帯電話やパソコン、インターネットなどがそれにあたるだろうか。

私が生まれた頃は、電話は一家に一台こそあれど、通話料も安くはなく、基本的に急用の時に要件を伝える為に使うものだった。

 

そんな時代、直に会うこと以外は手書きの、切手を貼ってポストに投函する郵便物、それが一番身近で一般的な連絡手段だった。

 

現代の若者たちには想像もつかないことだろう。

 

それでもコミュニケーションは問題なくとれていたし、不自由を感じたこともなく、むしろ一回一回の約束を丁寧に、人と繋がることの意味を、その機会を、大切にしていた気さえする。

 

昔はよかったなどと言い出すと歳をとった証拠だが、コミュニケーションツールが溢れるほどの(呆れるほどの!)今の時代、豊富さや気軽さ故に、かえって本当の意味でのコミュニケーションがとれなくなってはいまいか、時々そんなふうに思ってしまう。

 

手段のお手軽便利な ’’ノリ’’ につられ、誰彼とでも表面的な接触を持ちたがるくせに、真摯な交流を疎かにするとは本末転倒だ。

 

どんな時代になろうとも、意思の疎通を図る、その根底に流れる大切なものは、太古の昔から変わるものではないのに。

 

le 11 Mai 2024


扉を前にした時。

 

扉によって遮断されたこちら側に意識を向けるのか。

あるいは、扉の向こう側に思いを馳せてみるのか。

 

自分の意識とは別のところ、おそらく ’’潜在意識’’ と呼ばれる部分が、一瞬にしてそれを選択するのだろう。

 

その上で展開してゆく自分の思考は、その時の体調や心の状態、自分を形成するエネルギーの種類とも絡み合って、幾通りものパターンが存在し得る。

 

慣れ親しんだこちら側の世界を選ぶのも、未知の世界へと自分に冒険させてみるのも、どちらも自分次第。

 

人生とは、究極的にはどんな道を選んでも「正解」なのだ。

 

但し、’’どんな選択をしてどんな結果になろうとも、全責任は自分にある’’。

 

そこさえ認識できていたら、あんまり怖がらなくていい。

 

だから、どうせなら、ワクワクしながら扉を開けてみないか。

 

一度きりの今生、ひとつでも多くの経験を通して様々な感情を味わって生きるのも、彩(いろどり)豊かで楽しそうじゃないか。

 

le 16 Mai 2024


とかく子供の頃は、’’計画性を持つように’’ と教育される。

 

もちろん、経験値の少ない子供にとって、ただ闇雲に進んでいくだけでは生きていくためのスキルが身についていき難く、’’計画性’’ を意識することで、物事のバランスや優先順位を考えたりもできるようになっていくのだと思う、おそらく。

 

けれど、すっかり大人になった者たちは、予め立てた計画がその通りに進むとは限らない経験もたくさんしていて、あまりに先々のことなど、決めすぎても意味がないことに気づいている。

 

どれだけ綿密な計画を立てていたとしても、予期せぬ時の、想定外の出来事が、否が応でも関係してくる、それが人生だ。

 

仮に無人島にたった独りで住んでいたとして、天候によって獲れる食物が違ってくれば、その日の行動だって違ってくる。

 

むしろ、計画が ’’仇’’ となる場合も往往にしてあるものだ。

 

だったら、都度、状況を敏感に察知でき、的確な判断、最善の選択のできる能力をこそ身につけていく方がいい。

 

実はこの世は、自分でコントロールできないものの方が圧倒的に多いのだ。

それを知っていさえすれば、自ずと生き方は見えてくる。

 

le 18 Mai 2024


季節を問わず、パリ市内では、日常的に撮影現場に遭遇する。

映画やドラマの撮影では一帯を閉鎖しての大規模なものが多いが、スチールの場合、ヘアメイクや撮影助手の姿はなく、モデルひとりにカメラマンひとり、最小限の人数で行われている。

 

日本から来た当初、あらゆる場面での日本とフランスの違いにことごとく驚いていたが、そのひとつに、日本だったらいわゆる ’’付き人’’ のいるような職種の人たちでも、こちらでは一般人と同じように自分の荷物は自分で持ち、タクシーも自分で拾ったり、むしろ地下鉄に乗っていたり。

 

他にも、例えば町の開業医なら、診察以外にも、予約の電話の対応から、会計から、なんなら入口の扉の開閉まですべてドクターご自身がなさる。日本ではこれは考えられないことだ。

 

どちらが良い悪いではなく、所変わればなんとやら、という話。

 

ただ、往往にして付き人やアシスタントが付くと、周囲から何かと持ち上げられ、世間からもそういう扱いを受けているうちに、さも自分は偉いのだと勘違いしてしまう人をたまに見かける。

’’裸の王様’’ 状態の人は、実力の方も推して知るべしだ。

 

パッケージに惑わされず、颯爽と生きている人はカッコいい。

フットワーク軽く、惜しげもなく自ら率先して動ける人。

そういう人は肩の力が抜けていて、苦言を呈してくれる人を大切に、常に風通しのよい環境に自身をおくことを心がけておられるような気がする、たとえ巨匠と呼ばれるような方であっても。

 

le 25 Mai 2024


地球上の人口は、今や81億人を越えたそうだ。

 

ある統計では、人が一生のうちに出会える何らかの接点を持つ人の数は、3万人ほどだと言われている。

 

このふたつの数字から考えると、人と人とのご縁、ましてや濃いご縁となると、とてつもなく小さな確率ということがわかる。

 

出会いのきっかけはほんのちょっとしたことかもしれない。

 

けれど、’’たまたま’’ のような形をとって繋がるご縁は、実は ’’たまたま’’ なんかじゃないのだ、おそらく。

 

とりわけ、特別な深いご縁からは、私たちはお互いを通してたくさんのものを学び、得るが、それ以上に、お互いにより多くのものを差し出し合うために出会うのではないだろうか。

 

その大切な学びのために、当人の思惑とは別次元の力が働いて、お互いにとって一番よい関係性が与えられるような気がする。

 

だからこそ、それをキャッチできる状態でありたい。

 

どんな時も、大いなるものによって、すべては佳き方向へと導かれているのだから。

 

le 28 Mai 2024


ウェディングドレスは、ヨーロッパでキリスト教が普及し始めた時代に起源があり、当初は赤や青など濃い色が主流だったそう。

 

現代では暗黙の了解のように「ウェディングドレスといえば純白」とされている向きがあるが、その歴史はさほど古くはない。

 

16世紀後半のエリザベス朝と並んで、19世紀後半のヴィクトリア朝もイギリスが大きな繁栄を遂げた時代として有名だが、18歳で即位したヴィクトリア女王(1819-1901  在位 : 1837-1901)が、1840年に21歳で挙げた結婚式で純白のドレスをまとったことがきっかけのようである。

 

日本はといえば、早々と平安時代には婚礼の装束として白色が使われていたようで、幕府によって正式に婚礼衣裳が白無垢となったのは室町時代なのだそうだ。

 

かと思うと、黒無垢、赤無垢という婚礼の衣裳もあり、確かに時代劇映画などでも目にしたことがある人は少なくないはず。

 

我々は常日頃、多くの人が ’’そうしている’’ ことを不変的なものだと思い込んでしまう節があるが、こうして花嫁衣裳ひとつとっても、時代や様々な背景などによって、必ずしも一種類だけではないことを改めて認識する。

 

どんな物事にも言えることだろう。

古往今来、未来永劫変わらない、ということなど実は何ひとつなく、むしろ ’’変わっていく’’ ことこそが普遍なのだと。

 

le 31 Mai 2024


六月に入ったというのに、曇り空に冷たい風、小雨もパラつく20℃に届かぬ肌寒さ... まるで冬に向かうような錯覚に陥る。

 

洋の東西を問わず、近年は「暦」で季節を推し量ることがどんどん出来難くなってきている気がするのだが、それは、地球自らが大きく変わろうとしているのか、あるいは愚かな人間の傲慢な行動が、有無を言わさず変化に向かわせているのか...?

 

気候だけではない。

人間社会においての、長い年月の中で積み上げられてきた暗黙の了解的なあれこれが、今や通じなくなりつつある事実にも驚く。

 

もちろん、いつの世も世代格差は当然あるもの。

だが昨今のそれは、テクノロジーと呼ばれる現代社会のバックボーンが、もはや ’’バック’’ ではなく ’’フロント’’ に躍り出てきて采配を振るっている状況に近いと感じるのは私だけだろうか。

 

日常の殆どがインターネットありき、スマフォありきの世界。

意図的に、生身の人間同士の接触が加速度を増して減らされていくシステムの中、一体私たちはどこへ向かおうとしているのか。

 

自然界との在り方の「次元」にどんどん開きが出てきているのよう思えてならず、果たしてそれは、私たちが心身ともに健全に生きていける環境なのかと訝ってしまう。

 

気候の不機嫌さは、人間の覚醒を促しているのかもしれない...。

 

le 2 Juin 2024


「あぁ、今年もこの季節になったんだなぁ」と、その時期にしか出会えない食材に向き合いながら台所に立つのは楽しい。

 

今の時期、まだ暫くは味わえそうなのがホワイト・アスパラだ。

 

正直、それほど安いとは言えない食材なのだが、’’旬の食材を味わうことで身体は喜ぶ(=健康でいられる)’’ と思う私は、他のものを少々我慢してでもその恵みをいただくようにしている。

 

いや、そんなに大げさなことではない。

外出時にカフェに入らなくていいようにマイボトルを持って出たり、多少の距離なら交通機関を利用せずに徒歩で移動したり。

 

そもそも、自炊の方がよっぽど身体にもお財布にも優しいことが身に沁みてくると、外食にはあまり興味が向かなくなってくる。

 

しかもこちらの野菜は味が濃く、食材そのものの旨みを天然塩だけで味わうのは、むしろ究極の食道楽ではないかとさえ思う。

 

いやいや、これも大げさなことではない。

土地のものを、季節のものを、シンプルな味付けでいただく。

おそらく、ほんの数十年前まではそれがベースだったはずだ。

 

我々がこうして地球に生かされている以上、一番理に適っている食生活のような気がする、ただそれだけの話だ。

 

le 6 Juin 2024


自分が何の疑いもなく「正しい!」と思い込んでいるルールは、果たして本当に、どんなシチュエーションでも、どんな人にでも、同じように当てはまるものなのだろうか。

 

言うまでもなく答えは「否」なのに、どういうわけか私たちはそれを忘れがちだ。

 

自分の中でそのルールを大切にするぶんには一向に構わない。

それが「価値観」と呼ばれるものだから。

 

けれど、自分と自分以外の人とでは、既にこの世に存在している状態からしてことごとく ’’違う’’ ことだらけなのだから、あらゆることが異なっていて当然なのだ。

 

たとえ親子、きょうだいでも。

たとえ夫婦でも、親しい友であっても。

 

そこをベースに、自分にも、自分以外の人にも、己のルールに縛られずできる限りの優しい眼差しで接してみよう。

 

心落ち着け穏やかに、温かく寄り添う姿勢は、その先の豊かなる調和へとつながっていく・・・そのイメージを持ちながら。

 

頑なにルール / 価値観を押し付け合うのではなく、しなやかに受け入れ合い、愛をもって歩みよる中で、全く別の ''バランスのとれる手段'' を見つけていけたら、思わず微笑みを交わし合う幸せな瞬間を手にすることができるはずなのだから。

 

le 10 Juin 2024


21世紀の今でこそ、パリのアイコンとして全世界の共通認識的なポジションを獲得しているが、フランス革命100周年を記念してパリで万国博覧会が開催された1889年に誕生したエッフェル塔は、’’パリ’’ という街の歴史から比べれば、つい最近の新しい建造物のひとつでしかない。

 

それはさておき、どうも人間には、’’より高きもの’’ を競い合って作ろうとする習性があるようだ。

 

高さ300mのエッフェル塔の開業から70年後、日本でも333mの東京タワーが開業し、更に約50年後の2012年には、それを大きく上回る634mの東京スカイツリーがギネス世界記録に認定された。

 

もっと高くもっと高く... その欲望はとどまるところを知らず、現時点ではドバイにある828mの塔が世界一高いもののようだ。

 

16世紀半ばにブリューゲルが描いた『バベルの塔 La Tour de Babel』はあまりにも有名な絵だが、雲を衝かんばかりにそびえ立つ塔の迫力は、見る者に強烈な印象を植え付ける。

旧約聖書の「創世記」に登場するこの塔は、空想説もあれば古代バビロニア王国に実在したという説もあるらしい。

 

いずれにせよ、旧約聖書の書かれたとされる紀元前4〜5世紀に(たとえ空想であれ)存在したとして、『神の怒りを買った人間の驕(おご)りの象徴』という故事からもわかるように、その愚かさは、実は我々人間が遠い昔から ’’性(さが)’’ として背負っているものかもしれない... と深く考えさせられる。

 

le 12 Juin 2024


大都会にひっそりと生きる寡黙な主人公の日常のルーティン、その何気ないワンシーンに、ほんの一瞬だけ映った文庫本の表紙。

 

図らずも、その映画を見る直前に立ち寄った書店で見かけ、手にとっていた本だった。

 

だから、「あっ!」...っと声をあげそうになった。

 

静かな感動を胸に、映画館を出た後すぐさまその本を買いに行ったのは言うまでもない。

 

まさに、その映画の醸し出す雰囲気に、深いところで共鳴している内容だった。

 

見逃してしまうような日々の様々を、ひとつでも多く拾い上げられたら、それは間違いなく喜ばしい発見につながる。

 

たとえ誰と共有できなくとも、自分自身の胸がほんのり、けれど確実に温かくなれば、きっとそれは明日への活力になる。

 

そしてそれは「明日」だけにとどまらず、ずっと先まで続く。

 

あぁ、なんて素敵なことなのだろう。

 

そもそも、こんな粋な出逢いが用意されていることからして!

 

le 15 Juin 2024


誰も彼もが片手に現代機器を握りしめ、首を直角に落とし画面に釘付けになりながら過ごす... という奇妙な時代になった。

 

電車に乗っている時も、道を歩いている時も、カフェに座っている時でさえその姿勢がキープされ、店舗の陳列棚の前でも選ぶ商品の情報を得ようと躍起になっている人の姿は珍しくない。

 

まるで腕の延長、もはや肉体と合体しているかのような具合だ。

 

幸か不幸か機能を使いこなせていない私は、鞄を少しでも軽くしたいが為にも外出時に持って出ないことはしょっちゅうなのだが、自分の目と耳、そして頭 / 感覚が普通に機能してくれていれば、大抵のことはなんとかなるし、場合によっては口を使って人様に訊ねることもできる。

 

そもそも街にはインフォメーションが溢れていて、手元の小さな二次元の画面で探すより、実はよっぽど分りやすかったりする。

 

顔を上げていることで思いがけないものに出会え、予定を遥かに越えたステキな展開が自分の身に起きることもある。

 

本当の意味で当てにした方がいいのは、現代機器の中の情報ではなく、自分の五感のような気がするのは私だけだろうか。

 

思っている以上に素晴らしい働きをしてくれるものを、私たちは最初から ’’携帯’’ している、そのことを忘れないようにしたい。

 

le 19 Juin 2024


あらゆる情報が溢れかえり、錯綜する時代に生きている私たち。

 

ともするとそれらに翻弄され、方向を見失いかけたりもしてしまう。

 

どこからともなく押し寄せてくる焦燥感に、つい怖気づいたり、本意でない次の一歩を選んでしまいそうにもなる。

 

そんな時はまず大きく深呼吸。

何も考えず、手ぶらで散歩に出てしまうのが一番いい。

 

なに迷うことなく健全な循環を行なっている自然界から、耳をすませば必要な指針が聞こえてくるはずだ。

 

大丈夫、何も心配いらない。

 

’’自分にとっての前’’ を向き、心込め、悦びをもって行えることを、ただ選択していけばいいだけなのだ。

 

それでも分からなければ訊ねてみればいい、問うてみればいい、大いなる自然界に。

 

太古の昔から、自然界に抱かれ、生かされている私たちに、陽極まっての夏至が、その翌日には六月のストロベリームーンが、とっておきのヒントを用意してくれているに違いないのだから。

 

le 21 Juin 2024


「今頃どうしているだろう?」

ふと、長らく音信不通の誰かのことが思い浮かぶのは、考えてみると、顕在意識のコントロールの外で起きていることだ。

 

きっかけになる物が直接目に入ったり、人との会話に出てきたからではなく、’’ふと’’ 思う、それじたい不思議な現象だ。

 

けれど本当に、全く何もないところから不意に浮上してくるものなのだろうか。

 

... それはちょっと違う気がする。

 

おそらく、心の中の奥まったところ、普段は滅多に手を触れない場所に、その誰かとの思い出が今もあるからだろう。

 

楽しかった思い出ばかりでなく、行き違ってしまったこと、落胆してしまったこと、それらくすんだ色の思い出も残っている。

 

けれど、月日の経過と共に、そのくすんだ色合いもいつの間にか変化していることがあり得るとすれば...。

 

もしかしたら、明るく眩しい色合いの思い出にこそ、フォーカスしなおしてみるタイミングなのかもしれない。

 

それが、’’ふと’’ 思い浮かべることと繋がっている・・・

そんな捉え方も悪くはなさそうだ。

 

le 26 Juin 2024


【鑿窓啓牖 さくそうけいゆう】

’’窓を鑿(うが)ち、牖(まど)を啓(ひら)く’’

 

「鑿」は「のみ」とも読み、木材や金属などに穴を開けたり溝を刻んだりする道具のことだが、この漢字は、穴を開けるということから、’’深く探る’’、’’つきとめる’’ という意味も含んでいる。

 

「牖」は「窓」を意味する漢字、「啓」は「啓発」や「啓蒙」に使われるように、’’あけ広げる’’ という意味をもつ漢字だ。

 

総じてこの四文字熟語は、’’自分の殻(から)に篭らず、窓を開き多くの考え方を学んで見識を広める’’ という意味で、もっとくだけて言うと、’’外の世界に通づる「窓」を開け、風と共に様々なものを取り入れようよ!’’ というイメージになるだろうか。

 

風水でも、’’朝に窓を開けて悪い氣を追い出し良い氣を呼び込むことで運気を上げる’’ といわれるように、閉じたままでは良きものを得ることは出来ないのだ、ということを説く考え方は多い。

 

窓を開くとは、自分の心を開くことにもつながる気がする。

 

もちろん、やたらと誰にでも開く必要などない。

けれど、常に閉じっぱなしだと物事は始まらなさそうだ。

守りの態勢でいることで、手を伸ばせばすぐそこにあるかもしれない御縁やチャンスをつかみ損ねてしまうのは勿体ない。

 

le 28 Juin 2024


’’視覚’’ が捉えているものだけが全てではない。

音楽のように ’’聴覚’’ で捉える最たるものもあれば、’’嗅覚’’ でしか捉えられないものもあり、これらに ’’味覚’’ と ’’触覚’’ を加えた『五感』で私たちは外界を認識している。

目、耳、鼻、舌、皮膚、この五つの感覚器官を使っているのだ。

 

では、それらで捉えたものが全てなのだろうか。

当然ながら、答えは ’’否’’。

 

そのもの(人、物、事象)が持つ雰囲気、最近では ’’空気感’’ という言い方もするが、人は誰でも無意識に、五感以外のものも使って様々なものを感じ取りながら瞬間瞬間を生きている。

 

ただ、それらは五官がキャッチしたものではないがために、とかく見落としがちなことも事実なのだ。

故に、気づかぬうちに、少しずつ、少しずつ、蝕(むしば)まれていってしまう、何が? 自分自身が、だ。

 

例えば、心地よく寛げる空間、掃除の行き届いた生活空間 etc. そんな所に身を置くことで、穏やかな幸福感が得られる。

満足感や充実感という言葉に置き換えてもいい。

そのことのお蔭で、自分自身がポジティヴな心境に移行できることを、私たちは経験として知っている。

更にいえば、その先で遭遇できるもっと大きな幸福感を、五感以外のところが察知しているからこそのその心境だということを。

 

’’良き氣の巡る場所’’ こそが、実はとても重要だということを。

 

le 30 Juin 2024