つぶやき

《  写真 & 文:植野真知子  》

私が拠点としているパリという街から

気の向くままに更新中☆


〔過去のつぶやき〕


 柵のあちら側とこちら側。

一見、分断されているように見えるけれど、本当にそう?

 

だって、風も音も、光も、何も障害なく通り抜けてるよ。

 

意識がそれをどう捉えるかで物事はまったく別の見え方になることを、私たちはあまり教わらず大きくなってきちゃったよね。

 

柵のこちらにいる自分と、柵の向こうにいる他者。

人間は、つい自分本位で考えがちだから(もちろん基本の基本はそれでいいんだよ)、自分が満たされていないと、柵の向こうにいる他者を柵のこちらの自分に無理やり共鳴させようとする。

 

もしかしたら、「柵の向こうは自分には持てていない素敵なもので溢れているのだろうから、そこで楽しそうにしているなんてゆるせない!」、そんな心理が働いちゃうのかな。

 

世の中には一定数、いつも他者をやっかみ、自分のいる場所にまで引き摺り下ろそうとする人がいるのが残念だよね...。

 

目に見えるものばかりに支配されていると大切なことを見誤る。

自分のいる柵のこちら側にだって、あちら側とは違う素敵なもので溢れているのに。

 

否、そもそもあちらもこちらもない。

全てはワンネスだとわかっていれば、心は騒つきなどせず、どんなことにも感謝が溢れ、身も心も満たされてゆくんだよ。

 

le 25 Avril 2024


その一瞬は、どんな時に、どんな形でもたらされるのだろうか。

 

たまたまその時、そこに居ることでそれを受け取ることができるが、 そこに居たとしても俯(うつむ)いていたり、別方向を向いていたりしたら、残念ながらもはやそれまで。

知らずにいると知らぬまま、去っていってしまうものなのだ。

 

人生には、数え切れないほど取りこぼしてしまうものがあるのだろう、きっと。

 

全てを手にすることは出来ないとしても、もし沢山のチャンスとして ’’与えてもらっている’’ のだとしたら、ひとつでも多くを受け取ることができたらいいなぁと思う。

 

但し、目を血走らせ、躍起になっても受け取れるものじゃない。

 

むしろ自分を大切に、つまり自分に正直に、ニュートラルな状態で過ごしていることが大切なようだ。

 

アンテナだけはしっかり立てておき、あとは何ものにも捉われず、損得勘定なんかに振り回されず、他を羨まず、日々を感謝だらけで過ごしているのがいいようだ。

 

『思いもよらぬところから、思いもよらぬタイミングに、思いもよらぬものがもたらされる』

漠然とでいい、その理(ことわり)を知っているだけで。

 

le 21 Avril 2024


いったい何体の彫刻があるのだろうか、広い庭内はまるで美術館のごとく、四季折々の樹々や花々、季節ごとの空や雲とともに、それらに囲まれて過ごす時間はいつ足を運んでも心が解放される心地よい場所のひとつだ。

 

チュイルリー公園 Jardin des Tuileries。

東西に長いその公園の、一番ルーヴル寄りの門のそばに、ルイ=オーギュスト・レヴェック Louis -Auguste Lévêque(1814 - 1875)作の美しい女神像二体が設置されている。

 

そのうちの一体、セーヌ川を背に、北を向いて立っているのが『狩りの女神ディアーヌ Diane chasseresse』。

猟犬の頭を撫でる優しげな表情は、その肢体から滲み出る品格とともに、いつもうっとりと見上げずにはいられない美しさだ。

 

品格 / 気品というものは、もちろんその造作じたいも関係なくはないが、究極的には内側から滲み出てくるもののように思う。

 

この人工物である彫像も、作り手の、祈りにも似た想いが製作過程に宿るからこそ、見る側に特別なものが伝わってくるのだ。

 

芸術作品に限らず、日常のどんなもの、どんな事柄、言動ひとつにも、品格 / 気品があるのとないのとでは大きな違いがある。

 

そしてそれは、一朝一夕でどうこうできるものではない。

だからこそ滲み出てくるのだ、深いところから。

 

le 19 Avril 2024


その対象物への「尊敬」、「畏敬」、「憧憬」 etc...  たくさんの想いがとめどなく溢れた時、どうしても触れたくなるのだ。

 

確かめたくなるのだと思う、その存在の重みを。

衝動というより、魂の芯から強く湧き起こってくるものとして、より近づき、知りたくなるのだと思う。

 

時にその対象物は、物質的なものばかりとは限らない。

 

... いや、その表現は少し違う。

視覚が捉えているのは物質の一番外側でしかなく、物質であることを越えたところにあるそのものの ’’存在じたい’’ に心が打ち震える時、’’触れたい’’ という願望につながるのだろうから。

 

とすれば、触れるための「手」は手段の一例にすぎず、こちら側の全身全霊で対象に触れられた時、自分の中に起きる変化は想像を超えた、時には次元を超えたものになるかもしれない。

 

なにせこの星は神秘に満ちたところだ。

ニンゲンが理屈で理解できていることなどほんの数パーセントでしかないのなら、絶対的信頼で感覚に舵をとらせる方がいい。

 

触れたくなる対象物、そういうものとの歓ばしき出逢いは、感覚こそが導いてくれるのだから。

 

le 17 Avril 2024


若いバレリーナたちの、稽古場や舞台袖での姿を捉えた作品で名を馳せたエドガー・ドゥガ Edger Degas(1834 - 1917)。

 

当時、ブルジョワが踊り子のパトロンになる風習もあって、裕福な家の出であるドゥガもそういう位置にいたのだろう。

だからこそ、一般人の出入りできない舞台裏での彼女たちをモデルにすることができたのだと思う。

 

「絵画」の他に「彫刻」でも踊り子をモチーフにした優れた作品を残しているが、彼は「写真」でも自身の才能を開花させた。

そのことを、回顧展で会遇するまで実は私は知らなかったのだが、それぞれの表現手段での作品群はどれも甲乙つけがたい素晴らしさで、彼の豊かな才能のほとばしりに改めて驚かされた。

 

私たちは生まれてくる時に、沢山のものを携えて生まれてくる。

どんな能力を持ってこの世に生を受けるのかは、’’トリセツ’’ があるわけじゃなし、もちろん親にだってわからない。

 

’’生まれる時に持ってきたもの’’ は自分自身で ’’わかる’’ しかないのだが、いつ気づけるか、それも人それぞれだろう。

 

様々なタイミングに、ひとつでも多く気づいていけたら幸せだ。

 

そのためにも、他人と比べるのではなく、周囲の声や出来事に振り回されることなく、自分自身に真っ正面から向き合おう。

’’持ってきたもの’’ に気づき、磨き、どこまでも輝かせていこう。

思うにそれが、魂が歓ぶ最高の生き方なんだと思う。

 

le 16 Avril 2024


そのものの在りのままの姿を、実態を、私たちはいったいどれくらい正確に見ることができているのだろう。

 

そもそも、「自分の眼」じたいが既にひとつの媒体、フィルターだということを、私たちはつい忘れがちだ。

また、「視力」だけで見ていると勘違いもしがちだ。

 

中には、何かに映ることで、何かを通して見ることで、むしろ本質に近づくことができる場合もある。

 

いずれにしても、一見したぐらいでは、’’垣間見た’’ という程度にしかすぎないことを、いつも意識していたいと思う。

 

見たつもり、分かったつもりになることで、それが徒(あだ)となり、核心に迫るには道半ばにもかかわらず、まるで完登したと思い込んでしまうことほど残念なことはない。

 

見ようとし、知ろうとし、あらゆる手立てを「これでもか!」と駆使する過程にこそ、ヒントとしての導きがいくつも現れる。

 

どんなに便利でお手軽な時代になったとしても、本質に至るべく費やす時間や労力は、決して減らせるものではないはずだ。

 

むしろ、どこまでも費やすことを惜しまずにいよう!

その行為こそが、実態、真実、本質、核心に一歩でも近づける、代替のきかないもののはずだから。

 

le 14 Avril 2024


面白いもので、と言っていいのかどうかわからないけれど、それぞれの楽器、奏者のタイプは驚くほど全世界共通だ。

何十年と様々な国籍 / 人種の演奏家たちと仕事をしていると、データをまとめて発表したくなるほど、楽器ごとにはっきりと傾向がわかる。

 

自分の楽器だからか、オーボエ吹きなど最たるもので、数多くのフランス人、他にも西欧の各国、新大陸や南半球の人たちとも共演しているが、笑ってしまうほど似たところがあるのを感じる。

 

並んで吹いていると、ほんの些細なことへの反応などで、「うわっ! 同んなじやん!」と驚くことの何と多いことか!

そして密かにホッとするのだ、「あぁ、私だけがヘンなわけやなかったんや...!」と(世間一般的には ’’ヘン’’ でも、だ)。

 

ヴァイオリン弾きという人種も、これまた面白いほど全世界、どんな人種でも、’’いかにもヴァイオリン弾き’’ なのである。

その具体的な点はまたの機会に譲るが、明らかにチェロの人とは違うし、ヴィオラ奏者とだって星が違うほど性格が異なる。

 

何故だろう?

もともと似たような性格の人がその楽器を選ぶのかもしれず、その楽器に精通していくことで自ずと似通ってくるのかもしれず。

おそらくその両方だろうが、それにしても、生まれた国も人種も違い、世代も違うのに、というのがなんとも不思議で面白い。

 

 le 12 Avril 2024


「友人のライヴがペニッシュであるんだけど一緒にどう?」。

聞くと、ボサノバなどのラテンの曲をやるという。

内容にも惹かれたし、セーヌに浮かぶ船の中での夕方からのライヴに、尚のこと興味がつのった。

 

普段、いわゆるコンサートホールや劇場で演奏することが圧倒的に多い私は、聴衆として足を運ぶのもそういう会場が多く、そうではない空間で聞ける機会は新鮮でいい。

 

夏時間に切り替わって日没が徐々に遅くなり、日中の春の陽気がしたり顔で夜に忍び込もうとする時間帯。

船底から微かに伝わってくる揺れは、ゆりかごに揺られているような心地よさだ。

そして、パーカッションとピアノのリズムの揺れがクラシックにはない微妙な気だるさを煽り、その上に踊るヴァレリーの声。

 

「音楽」とひとくちに言っても、ありとあらゆる種類の音楽が並行して存在する都会の夜。

劇場ではオペラが、シャンソニエやジャズバーなどではほろ酔い客を前に、それぞれの素敵な時間が流れていることだろう。

 

普段呼吸している世界とは別の世界が、すぐ手の届くところに無限に広がっていることを、こんな機会に思い出させてもらえる。

 

そう、世界は果てしなく豊かで、自分の知っていることなどほんのひと握りでしかないのだということも。

 

le 11 Avril 2024


地下鉄「ポンヌフ駅」を老舗デパート「サマリテーヌ」側から地上に出ると、すぐそこは橋のたもとだ。

 

1607年竣工当時につけられた名称「Pont Neuf」(Pont は ’’橋’’、Neuf は ’’新しい’’ の意味)のまま、セーヌにかかる最古の橋としての威厳を保ちつつ、今も美しい姿を見せてくれている。

 

観光客で賑わうその橋の中ほどに、ひとりの老アコーディオン弾きが忍びやかに佇んでいた。

遠目に観察していると、行き交う人々は誰ひとりとしてこの老人を気にもとめず、老人の方も目線を下げたまま単調なメロディーを奏でている。

 

私は大抵、撮らせてもらう前に投げ銭箱に小銭を入れ、カメラを示しつつジェスチャーで承諾を得ることにしているが、この老人からパッと花が咲いたような笑顔が帰ってきたことに驚いた。

 

そうなのだ、人は誰でも人と繋がりたいもの。

世知辛い世の中、中にはそんなことはお断りという人もいるようだが、彼らはもしかしたら、過去に受けた屈辱や攻撃が、棘として心に深く刺さってしまっている状態なのかもしれない。

 

本来私たち人間は、良きものを差し出し合い、励まし合うことで、互いの魂を輝かせ合える生き物なんだと思う。

 

互いの存在そのものを讃えられれば、たとえ一瞬の接触でもそこに光が立ち上がる、そんな素敵なことに気づかせてもらえた。

 

le 10 Avril 2024


ポンデザール Pont des Arts をそぞろ歩く人たちが、澄んだ歌声に足を止める。

 

東からは、ポンヌフ Pont Neuf をくぐって小型ボートがセーヌを走り、西からは、春先の午後のお日様が、慈愛あふれる暖かい光で彼女に声援を送っている。

 

ギターを爪弾きながらのメロディーは、遠い祖国の歌なのだろうか。

朗々と歌い上げるでもなく、マイクに向けてささやくように、語るように。

時には訴えかけるように紡いでゆく歌を、人々がそれぞれの受け取り方で聞き入りながら、温かいものを共有するひととき。

 

平和とは、幸せとは、豊かさとは。

日常のそこここに、その気になりさえすればいくらでも見つけられるということを、つい私たちは忘れてしまいがちだ。

 

受け取ることばかりにかまけて、差し出すことを忘れがちだ。

 

当たり前のことなど何ひとつなく、全ては ’’循環’’ の上に成り立っているというのに。

全ては、これ以上ない絶妙なバランスの上に在るというのに。

 

そんなことを思い出させてもらえるある日の散歩道。

流れる川、そよぐ風、そして歌声によって。

 

le 8 Avril 2024


オーボエやフルートのように複数のパーツに分解でき、小さなケースに収納して運べる楽器とは違い、チェロやヴィオラ・ダ・ガンバなど、図体が大きい楽器の持ち運びはけっこう大変だ。

 

こういう楽器の奏者が飛行機を利用する時、自分の席とは別にもうひと席分の支払いも必要なのだが、この見えないご苦労は我々の業界以外の人にはあまり知られていないかもしれない。

 

車を使わず、ひとりで運べる一番大きな楽器はというとコントラバスだろう。

少数派だが、私のフランスでの演奏仲間の中には、演奏旅行でも必ず自分で自分の楽器を運ぶ人がいる。

ソフトケースに入れ、直径20cmぐらいの車輪をひとつ付けて、指板部分を肩にかけながら前方に押し出すようにして運ぶのだ。

けれど飛行機での移動となると、客席エリアに持ち込めるのはチェロの大きさまでなので、問答無用でものすごく頑丈なハードケースに入れて機体の底に預けるしかないのだが。

 

そのコントラバスから比べると、チェロはまだ、日常的にこんなふうに背中に背負えるだけ気軽なのかもしれない。

 

あ、そう言えば!

アンリ・カルティエ=ブレッソン Henri Cartier-Bresson の、コントラバスをむき出しで背負いながら砂利道を自転車で走る、セルビアで撮影された写真を思い出す。

 実際にそんな光景を見たことは未だかつてなく、この先もありそうに思えないだけに、初めて見た瞬間から印象に残る一枚を。

 

le 7 Avril 2024


パリの地下鉄に乗っていると、楽器を演奏して小銭稼ぎをしている人たちに遭遇することがそう珍しくない。

アコーディオンやギターの弾き語りで、正直、そんなに長く聞いていられない人たちがほとんどなのだが、ごくごくたまに、東欧の空気感をまとった老ヴァイオリン弾きが、見るからに安物の楽器でものすごい腕前を披露していることがあったりする。

そんな時は、演奏後に小さな缶を持って乗客の間を回るタイミングを待つために、時間が許せばひと駅多めに乗ってしまう私だ。

 

このサクソフォーン吹きも、チュイルリーのカルーゼル凱旋門やルーヴルの一角を縄張りとし、暑い季節も寒い季節も律儀に出勤(!)しては、伴奏の音源をかけながらジャズを吹いている。

  

彼らは、ざっくりとだが二種類に分けられるように思う。

「どうせ誰もロクにゼニなんてくれやしねぇ」と投げやりな人。

そんな彼らは誰が財布を取り出しそうかチラチラ気にしている。

片や、人が聞いていようが聞いていまいが頓着せず、黙々と自分に向き合うように奏でている人。

 

身なりも関係なく、そして実は演奏技術の優劣も関係なく、彼らの心の持ちようがそのまま音に現れる気がする。

 

僅かにさえ分かりようのない彼らひとりひとりの背景に思いを馳せながら、束の間、彼らの音に耳を傾けてみる・・・

これも、パリに流れる時間のひとつだ。

 

le 6 Avril 2024


美しいモザイク模様、その、ひとつひとつの小片を組み合わせていく作業には、コンマ以下の神経と、その真逆ともいえる鳥瞰的な視点が同時に必要だ。

 

一音一音に細心の注意を払いながら複数の音をなめらかにつなぎ、ひとつのフレーズを、愛あふれる言葉のごとく奏する・・・

ただ音符を並べただけのぶっきらぼうな造作ではとうてい相手の心に届かず、そもそも、音それ自体に魂がこもっていなければ耳を傾けてももらえない  ---  私の業界でいうとそうなるだろうか。

 

だとすれば、目の前 5cm にピントを合わせつつも、全体図、その核心部分を明確につかめている方がいい。

具体的なイメージを、自分の胸の一番温かなところに、しっかり持てている方がいい。

 

行程のすべての側面に真摯に向き合うことで、したたる汗がひとつひとつの小片をより輝かせようし、その集合体は必ずや、よりまばゆい光を放つ唯一無二のものとなるに違いないのだから。

 

おや、どうやら、人生にも同じようなことが言えそうだ。

 

’’一滴でも多くの汗を流せると思える分野’’ に身を投じ、嬉々として学び続けながら、自分だけのモザイク模様を編んでいく。

 

そこにプラスのエネルギーが湧いてこないはずがない。

 

そんな、夢溢れる豊かな世界を、幾つになっても大切にしたい。

 

le 4 Avril 2024


いつ、どんなタイミングで、何に、そして誰に出逢うのか。

 

人生という旅路に、自分の想像をはるかに越えたものが用意されているだなんて、若い頃には知りようもなかったことだ。

 

衝撃的な出逢いを得た時、そこに至る経緯や状況を観察してみてしみじみ思う、すべての『御縁』は自分では一切コントロールなどできず、前触れさえない時がほとんどだということを。

 

それを私たちは、「宇宙の計らい」や「天からの贈り物」などと表現する。

もしくは、「ご先祖様のお力添え」だったり「守護霊さまのお導き」という言い方もできるだろう。

そうとしか言いようがなく、いやむしろ、実際に ’’そう’’ なのだと確信せざるを得ない。

 

然るべきタイミングで与えられるそれらは、振り返ってみれば、潜在意識で強く望んでいたものだということにも驚かされる。

 

だからこそ、顕在意識にのぼってきたものにしっかりピントを合わせて生きてゆけ、そう促す声を聞き逃さぬようにしたい。

 

魂の記憶がその御縁に快哉を叫ぶ時、それは間違いなく、己の今生でのお役目を再認識させられる時でもあるのだから。

 

ならば御縁に従い、見つけた道を嬉々として進んでいくだけだ。

意想外に展開する物語、そこに感覚のすべてを委ねて。

 

le 31 Mars 2024


日本とフランスの違いは数え切れないほどあるが、そのひとつに、’’大人の、子供への距離感’’ がある。

 

大人社会のフランスでは、どんな事であれ ’’大人が子供に合わせる’’ ことなど日本に比べて圧倒的に少なく、四六時中、親が子供の世話を焼き、コントロール下に置くこともしない。

新生児の時から親の寝室とは別の部屋で寝かせることがフランスでの一般的なスタイルだ、と聞いた時には驚いたものだ。

 

もちろん我が子に関心がないのではなく、一人前の人格として扱うことで、ごく幼少期から精神的な自立を促す環境に置き、自分のことは自分で解決していく力をつけさせるのだ。

 

10区の住宅地の、ある公園でのひとこま。

年齢もバラバラで、きょうだいに見えなくもないが、そうでないかもしれぬ子供たちの間に、ちょっとした緊張感が漂っていた。

一番年下の女の子が、年嵩の女の子のキックボードを羨ましがっているのか、「ちょっとだけ貸してよ」とアピールしている。

けれど相手は気前よく貸してくれそうな気配ではなく、どうすればこの状況をより良く解決できるだろうかと各々が各々の表情を読み、考えを巡らせている様子がまるで大人のようでもある。

 

人間関係の機微を、小さい頃から実体験で学べる環境は貴重だ。

人生とは、究極のところ、自分で体験し、乗り越えていくしかないことばかりなのだから。

 

le 29 Mars 2024


己の人生を生きるにあたり、’’他人の目’’ など気にしなくてよい。

人にどう思われようが、批判されようが、所詮それはその人の個人的な感想にすぎず、親切そうな口ぶりであってもそこには妬み嫉みがベースになっている場合さえある。

 

そもそも、人に責任をとってもらえるものではない以上、自分以外の誰の目も気にする必要などない、人生とはそういうものだ。

 

そういうこととは別に、我々は、少しでも他人に自分の良いところを見せたいと、本能的に思ってしまう生き物でもある。

 

レンズの向こう側にいる人に、自分はどう映っているのだろう。

いざカメラを向けられた時に頭をよぎるのは、理想の自分と現実の自分との距離であり、大抵の場合、その理想にとうてい達していないのでは、という不安が、力みを誘発し増長させてしまう。

 

シャッターを切られる瞬間になって反省するのだ、あぁ、日頃からもっと自分を磨いておくのだった、と。

外側をいくら着飾ったとて、カメラのレンズはそんなところにフォーカスしないものだからだ。

 

カメラというものには、内面を引きずり出す力がある。

被写体に取り繕う暇など与えず、容赦なく本質に迫ってくる。

 

自分をさらけ出すしかないのだとしたら、堂々とさらけ出せる自分を、常日頃から生きるしかないのだと知る。

その為にも、他人の目を気にしていてはそうなれないと知る。

 

le 27 Mars 2024


ふと目に飛び込んできたそれが、あれよあれよと、驚くべき速さで私をある場所へと連れてゆく。

 

顕在意識にのぼってこない部分で、あぁ、この私は潜在意識でそれを強く望んでいたのだと知る頃には、その後の展開から逆算してみるまでもなく、その日その時その場所で、私はそれに目を留め、手にする運命だったのだと確信するに至る。

 

強い磁石に引き寄せられるようにしてそれを手にした瞬間から、まるで祝福してくれるかのように私の全身を薄い膜のようなものが覆い、私は自分の全てをその温かなエネルギー体のようなものに委ねるだけでよいこともどこかで知っている。

 

ただ導かれるままに、誘(いざな)われるままに・・・

 

ゆく道々で、全く関係もない(としか思えない)ことや、取るに足らないほどとはいえ小さなアクシデントに遭遇するが、何ら動じず、ただ客観視している自分に気づいては驚く。

 

時に人生は、自分の「意思」を一旦手放す方がよい場合もあるようだと知るのはそんな時だ。

希望や情熱から始まったものでも、いつの間にか自分を縛る「執着」に近くなったものは、結局は力みとなって良い結果を連れてこないからだ。

 

’’大いなるもののお取り計らいがものすごい勢いで動いている’’

人生には、時々そういうことが起こる。

 

le 25 Mars 2024


夕方のひととき。

気取らないカフェやブラッスリーの多くは、夜の混雑前に「Happy Hours」を設定している。

英単語を、フランス語の発音(なので「H」を発音しない)で呼ぶこの時間帯は、アルコール類を少し安く提供してくれる。

 

フランスではディナーの開始はたいてい20時頃、早めの人で19時頃、というふうだから、その前のアペリティフタイム。

あるいは、お勤め帰りの人々の、仲間との軽い一杯も当て込んでいるのだろう。

 

気軽な値段だと「ちょっと一杯どう?」と誘いやすくもある。

 

気のおけない会話は、それ自体が楽しいものだ。

なんということのない雑談の中、ひょんな流れから思いがけない展開になる経験は誰にでもあるのではないだろうか。

 

気負わずにいることが、何か楽しいアイディアが閃く時の柔軟な空気感と相俟(あいま)って、「〜ねばならない」という余計な縛りからふっと離れられた時ほど心踊る発想が降ってくる。

 

ならば Happy Hours に限らずとも、日常的に自分自身をそんな状態に置くことを意識していこうじゃないか。

ひとりひとりがそうなっていけば、この世はもっともっと優しさが、渡しあえる愛が増えていくに違いない。

 

多くの ’’喜び’’ を共有しあえる、それこそが Happy Hours だ。

 

le 24 Mars 2024


眼を凝らすとたくさんの光の粒がキラキラと眩しく、耳をすませば気泡のようなものたちの歓びの声がプツプツと響いてくる。

まだはっきりと形を成す前の期待に満ちた時間・・・

 

朝靄の中に見え隠れするような静かな序章からの始まり...

 

あるいは、雷に打たれたような衝撃的な序章からの始まり...

 

一度きりの今生で、私たちはたくさんの「物語」を味わう。

 

あらゆる種類の、様々な出来事に遭遇し、ひとつとして同じもののない物語を「経験」として積み重ねてゆく。

 

それらは何にも代え難い宝物で、自分にしか持ち得ない財産だ。

 

近視眼的には、時には楽しいこと嬉しいことばかりでないかもしれない。

けれど後々になって、マイナス事だと思い込んでいたものが実はプラス事だったんだ! と目から鱗が落ちるように気づけることも少なくはなく、だから人生は奥深い。

 

全ての経験、全てのご縁に感謝できれば、その瞬間から血となり肉となり、己を助くる一番の糧となってくれる。

 

その回路が健全に動いてさえいれば、光の粒はより輝きを増し、この身を包んで更なる高みへと誘(いざな)ってくれるだろう。

 

le 21 Mars 2024


本当は、’’自分のもの’’ など何ひとつないのだ。

 

全てのものは、今現在、束の間、いっとき、使わせてもらっているだけ。

 

時計の針を進めてみればわかる。

百年後に、自分はもう ’’ここ’’ には居ない。

 

形あるもの、動産にせよ不動産にせよ、銀行に預けてあるものにせよ、そう、私が使っている楽器たちだって ’’自分のもの’’ などと言い切れるはずがなく、地位や役職にいたっても同様だ。

 

この肉体すら、自分のものではなく借り物なのだ。

’’魂の乗り物’’ として、一定期間借りているに過ぎないのだから。

 

それが腑に落ちれば、くだらない執着とは無縁になれる。

 

奪いあったり、羨ましがったり、誰にも盗られまいと意固地になって守ろうとすることが、いかに馬鹿馬鹿しいかがわかる。

 

生き物としての三つの煩悩(食欲、睡眠欲、性欲)の他に、人間にだけ当てはまる『五欲』と呼ばれるものには財欲と名誉欲が含まれるが、果たして幸せに生きる為に必要なものなのだろうか。

 

自然界を見渡せば、’’本当に大切なこと’’ を思い出せる気がする。

我々はみな自然界の一部であり、’’何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでゆく’’、その基本の基本を。

 

le 19 Mars 2024


「よぉし! 今日はしこたま買ってくるぞー!」、そんなふうに本屋さんに出かける時、私はお財布の中身を普段より少し豊かにして出かけるようにしている。

 

実感している人がどれ位いるかわからないが、店舗規模の大小にかかわらず、たとえ同系列だとしても、街ごとに、店ごとに、驚くほど品揃えの異なるのが「書店」の特徴だ。

 

だから、一冊でも多くの素敵な本に出会いたい! と鼻息荒く本屋さんを目指す時は、どうしても気合いが入る。

 

どんな物でも、余程でない限り直接自分の手にとり、自分の目で見て納得してから購入する私だが、「本」も最たるもので、膨大な数の中から目に留まった一冊を抜き取り、裏表紙の紹介文を読んでググッと惹かれた本の1ページ目を開く瞬間がたまらない。

ごく稀に、活字のフォント、行間や余白の取り方によっては静かに棚に戻すこともあるが、冒頭の一文で瞬時にしてその世界に誘(いざな)われたなら、購入を即決する場合がほとんどだ。

 

初めて知る著者名でも、導かれるようにしてふと手にした本が、人生の大きな指針となってくれたことは今までに何度もある。

かと思うと、以前は熱心に読んだ作家でも ’’今’’ の自分にフィットするとは限らず、そんな自分の変化を発見することも面白い。

 

ともかく、’’書店は想像以上のワンダーランド’’、これは間違いない。

未知の世界へと続く扉が、珈琲一杯ほどの値段をベースに無限に並んでいるだなんて、こんな凄いことがあるだろうか!

 

(写真はパリの国立図書館。言うまでもなく、’’図書館’’ もワンダーランドだ)

 

le 17 Mars 2024


誰にとっても、一寸先のことはわからない。

己の命の炎がいつ尽きるのか、誰にもそれがわからないように。

 

ならば、今の、この瞬間から先を、どんな心持ちで過ごしていくことを「幸せ」と呼ぶのだろうか。

 

行く末を案じ、不安ばかりの ’’もしも’’ を想定しながら、それが実際に起きた時の準備ばかりに明け暮れてビクビク生きるのか。

所有物を失うことに怯えるあまり、周囲を疑い心を閉ざし、死守することのみ重んじてケチケチと時をつないでゆくのか。

 

それとも。

素敵な出会いに感謝し、惜しみなく愛を差し出しながら、ワクワクをベースに新しい展開のためにエネルギーを注いでゆくのか。

 

時は、誰の上にも同じように刻まれてゆく。

 

心の持ちようひとつで、実は自分の身に起きる現実が全く違ってくるのだが、生きていく上でこんなにも大切なことを、残念ながら私たちは教わらないで大きくなってきた。

 

限りある人生という時間を、’’不安’’、つまり ’’恐れ’’ をベースに生きることほど不幸なことはない。

 

’’愛’’ をこそ、行動のベースにしていこうではないか、せっかくこんなにも豊かな、素晴らしい星に生まれてきたのだから!

 

le 14 Mars 2024


たまに行くスーパーマーケットに、所作の丁寧なレジ担当の女性がおられ、私はできるだけその人のレジに並ぶことにしている。

ある時彼女は、瓶商品の値段を読み取ってカゴに移しながら、「緩衝材をお入れしておきましょうか?」と問うてこられた。

瞬間、やはりこの人は品のある人だなぁと改めて思った。

 

我々は、言葉というものをついぞんざいに扱ってしまいがちだ。

荒っぽい口調、下品な言葉、投げやりな言い方... 言葉は常に変化するものだが、特に口語はある意味で無法地帯だったりする。

上の例でいえば、殆どの人が「プチプチは要りますか?」だ。

 

私の個人的な感覚だろうが、どうにも居心地が悪く感じる単語に「レンチン」というものもある。

TV で誰もが使い、料理のレシピでも表記されていて、もはや公に認知された言葉なのだろうが、なんとも薄っぺらい。

 

東日本大震災が起きた時、朝から晩までその道の専門家たちの発言が TV やインターネットで流れたが、内容もさることながら、唯ひとり、小出裕章氏は一貫して、省略形でなく「福島第一原子力発電所」「柏崎刈羽原子力発電所」と言っておられたのが私には非常に印象的だった、良い悪いということではなく。

 

日本があの大きな痛手を負った日から13年。

あらゆることに対し、表面的な情報でわかった気にならず、物事の核心、裏側にこそ目を向けていけたらと改めて思う。

同様に、’’言葉’’ に内在するエネルギーを、我々は無意識下で受け取りながら生きていることも、常々意識していたいと思う。

 

le 11 Mars 2024


カレンダーをめくったその音を聞きつけたかのように、木々たちの芽吹きが加速してきた。

こっそりと、けれど確実に。

 

ここ数ヶ月、微動だにしなかった窓辺の観葉植物さえ、ふと見ると、いつの間にか黄緑色の小さな柔らかい葉っぱをつけている。

 

一月から二月への移行と、二月から三月への移行では、色んなことがだいぶ違うような気がする。

 

とはいえ、晴れた日ならまだしも、この時期はまだまだ真冬並みの冷え込みも珍しくはなく、うっかり気を許して薄い上着で出かけようものなら、帰宅時には凍えるほどの寒さを味わうことになる。

 

冬の続きなのか、春の始まりなのか・・・

 

どちらでもなく、どちらとも思えるこの時期。

気が逸り、なんとはなしに落ち着きを失いがちになるのも毎年のこと。

 

公園で遊ぶ子供たちも、分厚い冬装束の下にたくさんの好奇心を抱えているに違いない。

 

大人も子供も、目には見えない芽吹きの気配を、その小さな黄緑色の新芽を、自分の中に感じる季節がやってきた。

 

le 5 Mars 2024


 「桃色」のことを、私たちはあまり深く考えずに「ピンク」と呼び習わしているが、調べてみると、桃色がモモの花の色からきているのに対し、ピンクはナデシコからきているようだ。

 

万葉集の頃には既に「桃花褐(つきぞめ)」という記述があり、当時の桃色はモモの花で染めた色のことを指していたことを知ると、なんとなくピンク色との違いがイメージできる。

 

花に花言葉があるように、色にも色言葉というものがある。

 

「桃色」の色言葉には ’’優しさ’’、’’愛情’’、’’愛らしさ’’ など、一般的な認識での(あくまで一般的な、だ) ’’女性性’’ や ''母性’’ というものに近い位置づけの言葉が並ぶ。

 

昨今、ジェンダーへの考え方 / 捉え方が大きく変わってきていることで、私の幼少期に当たり前としてあった「男の子はブルー、女の子はピンク」なる慣習は今では過去のものになりつつあるが、私は長年、その不文律、暗黙の定義づけのようなものが大嫌いで、かなり最近までピンクや桃色を遠ざけてきた。

 

けれど歳を重ねた今、上記のような時代の変遷のお蔭もあるが、毛嫌いしてきたピンクや桃色のもつ上品さ、優しさ、温かさに、素敵な色だなぁと感じるシーンが多くなってきた。

 

『桃の節句』の今日、その色の持つ雰囲気に改めて思いを馳せてみると、心持ちも、なんだか柔らかくなってくる気がする。

 

le 3 Mars 2024


花々は、無言で佇みながらも、確かなるエールを贈ってくれているもののひとつだ。

 

寂しさや憂鬱に苛まれそうな時、黙って寄り添い温めてくれ、また心踊る時には喜びを共有し、より華やぎを与えてくれる。

 

見渡せば、花々に限らず日常生活はそういうもので溢れている。

 

丹精込めて作られた無農薬のお野菜、然るべき工程を経て作られた調味料、それらを使って丁寧に作られたお料理。

盛りつける素敵な器も、草木染めのテーブルクロスも。

例えば食卓だけ見渡しても、そういうひとつひとつが存在する。

 

受け取り手の喜ぶ顔を想像しながら選ばれた贈り物には、送り手の想いが宿るものだ。

 

緻密な準備期間を経た末の、舞台で繰り広げられるパフォーマンスにだって、熱き応援が込められている。

 

各々が、己の能力をフル稼働させることでエールを贈り合う、その連鎖が広がっていけば、互いに励まし合えることになる。

 

花々がまずその仕組みを示してくれているのではないだろうか。

 

三寒四温、花屋の店先で出会った黄水仙に、思わず微笑み返した閏日(うるうび)の午後。

 

le 29 Février 2024


何の心の準備もしておらず、全く想像もしていない時に、いきなり齎(もたら)されるものがある。

 

その代表的なもののひとつが『御縁」というものだと私は思う。

 

望んだからといって得られるものではなく、どこかに探しに行ったとて必ずしも見つかるものではないし、億万長者がどれほどお金を積んだとしても手に入れられるものでもない。

 

いやむしろ、人為的 / 作為的なものの全く関与しない時にこそ得られるもののような気がする。

 

’’降ってきたかのように’’ という表現があるが、それは比喩などではなく、まさに、遥か彼方から降ってくるがごとく授かるものではないかとすら思う。

 

そしてまた、気づかなければ、ただ静かに通り過ぎ、遠ざかっていってしまうものでもある。

 

日常のそこここに、見過ごしてしまうような小さなサインが鏤(ちりば)められていて、そのひとつひとつに気づき、丁寧に拾い上げていった先に、思いもよらぬ形で繋がるのが『御縁』だ。

 

振り返ってみて、すべてはその一点に向けて起きていたのだと分かる時、この世のしくみの不思議を思い、人智を超えたものによって生かされていることを改めて思い知らされる。

 

le 25 Février 2024


間違いなく、誰よりも一番長いつきあいでありながら、案外自分こそが、自分自身のことを分かっていなかったりするものだ。

 

育ってきた月日の中で、家庭や学校、社会の見えないナニカに絡みとられ、飲み込まれ、ねじ伏せられ、いつの間にか生まれもった本質部分をどこかに埋もれさせてしまっているかもしれない。

 

外からの期待に応えようとして、無意識ながらも不本意な自分を作ってきてしまった、そんなことだって大いに考えられる。

 

もちろん、どんな自分もすべて自分。

そこに良し悪しはなく、根本的には何も心配することなどない。

 

けれどもし、日々の生活の中で、どうやってもうまくいかなかったり、何度も何度も似たような苦(にが)い体験をしてしまう時は、それじたいが何かのサインだと捉えてみるのもひとつだ。

 

そして時には、思いっきり視点を変えてみよう。

 

自分のことを何ひとつ知らない人の目を通して、思いがけない自分を垣間見れた時、何かがパチンと外(はず)れ、背中の翼が広がるのを感じるだろう。

ずっと折りたたまれていた、愛しい自分の翼を。

 

le 20 Février 2024


少しずつ、少しずつ。

 

明るさが増してくる。

 

風が柔らかくなってくる。

 

底の見えなかった哀しみの湖に、太陽の反射が広がりつつある。

 

少しずつ、少しずつ、時は移る。

 

地球の息吹に身を任せ、自然界の巡りに共振しながら、日々をにこやかに紡いでゆこう。

 

理不尽に感じてしまうことも、受け入れがたい出来事も、きっとその先には喜びあふれる事柄が用意されているのだから。

 

それに物事は、様々に織りなす層でできていると捉えられれば、恐れからくる衝動的な判断は、むしろ己を暗闇に向かわせてしまう愚かさだと気づける。

 

少しずつ、少しずつでいいから。

 

また巡ってくれた、春の兆しに喜び感じる季節。

 

自分の生命力にエールを贈ろう!

 

le 18 Février 2024


いつも自由でいよう。

自由でいられる状況を、可能な限り選択しよう。

 

思い立った時すぐ行動にうつし、行きたい所に行け、見たい風景を見られるように。

 

会いたい人に、会いたい時に会いにゆけるように。

 

そのためには、出来る限り身軽でいた方がいい。

色んな「枷(かせ)」を取っぱらえる自分でいた方がいい。

 

そのためには、自分の心の声を、ちゃんと聞き取れる状況に自分を置くことだ。

 

そのうえで、いつ、どんな時も、真の情報をキャッチし、的確な判断を下せる自分自身でいられるよう、そういう自分をしっかり育んでいこう。

 

どこから始めてもいい。

どんなふうに始めてもいい。

 

さぁ!

閃きを原動力に、自転車に跨って走り出そうじゃないか!

 

自分の力で漕いでいく、この自由な乗り物に乗って!

 

le 14 Février 2024


把握しきれないほどの星々が宇宙空間に息づいているように、私たちひとりひとりも、それぞれの魂の役割を持ってこの地球という星に生まれてくるのだろう。

 

誰にもその真意を確証することはできないが、(仮にあるとして)転生というものを繰り返す中で、時代を、国を、あらゆる環境を選び、その人生での役割に必要な能力を携えて毎回生まれてくる・・・ おそらくそういう仕組みになっている気がする。

 

だとするなら、能力の種類、質、量も違えば、人間としてのキャパも個々人でとてつもなく異なることは言うまでもない。

 

自己表現に重きを置き、それだけに執着する人生もあるだろう。

けれど、そんな域を、そんな次元をはるかに越えた ’’大宇宙並みのサイズ感’’ で人生を送る人も、かなり少数だが存在する。

大きな大きな役割を担ってその時代に生を受けた人たちだ。

 

彼らは大いなるものからのメッセージを受け取り、能力を最大限に駆使しながら全身全霊で大切なものを発し続けてくれている。

その愛に溢れた勇姿はどこまでも尊く、その生き様からも多くのことを受け取らせてもらえることに、私はいつも感動するのだ。

 

きっと大宇宙への敬意と感謝で溢れている彼らの意識と、大宇宙が深く呼応しあう、そういうことが起きているからに違いない。

 

le 7 Février 2024


日本ではこの時期、〔恵方巻き 予約受け付け!〕などというものが巷を賑わわせるが、季節を分けるという意味での「節分」は、春が始まる(=新しい年が始まる)「立春」という日の前日の、冬と春とを分ける大きな節目の日であることを意識したい。

 

その「立春」を間近に控え、春の到来に期待は膨らむものの、それは暦の上でのこと、実際には連日の寒さに身も凍る日々だ。

 

古くから日本人は、’’二十四節気’’ の各一気(約15日間)を更に三つに分け、季節の移ろいを細やかに感じながら生きてきた。

’’二十四節気七十二候’’ といい、一年を七十二に分ける暦である。

 

「大寒」にあたる今を三つに分けると、1月20日から24日頃、25日から29日頃、30日から2月3日頃となり、順に、フキノトウの蕾が出始め、沢の氷が厚く張り、いよいよ「立春」を迎える前には、ニワトリが卵を産み始める、という時期にあたるらしい。

 

確かに ’’沢の氷が厚く張る’’ 情景を簡単にイメージできるほど連日の寒さが堪えるが、白い息を吐きながらこの季節ならではのピリリとした空気の中に身を置くことも、それはそれでいいものだ。

 

冷たい風に身が引き締まるとともに、氣も引き締まる... ような気がする。

 

分厚く張った沢の氷のその下に、生命を湛えた絶えることのない流れがあることを、そこに熱き命の息吹が在ることを、自分もその一部だということを確かに感じられる... ような気がする。

 

le 27 Janvier 2024


直線と曲線、どちらもそれぞれの美しさがある。

 

けれど、曲線で美しさを表現しようとすると、絶妙な加減が必要とされる分、直線より手間暇がかかる。

センスも要るし、バランス感覚も要る。

 

言葉遣いにも同じようなことが言える気がする。

 

同じひとつの事柄を人に伝えるにしても、内容を事務的に伝えるだけでは素敵なコミュニケーションとは言い難く、本来、その表現は無限に在る。

 

近年、息もつかせぬ勢いで「便利(だと一般的には認識されるよう)なコミュニケーションツール」が開発され続けているが、それに便乗するかのように、表現の単純化、短縮化の勢いまでが増しているように感じられ、なんだか残念でならない。

 

ツールが簡単便利になったからといって、その内容までも簡単にしてしまうのでは、人間という生き物の「単細胞化」がどんどん進む一方だと危惧してしまうのは私だけだろうか。

 

日本語は数ある言語の中でもとても豊かな表現力をもつ言葉だ。

 

’’言葉の綾’’ を楽しめる、微妙なニュアンスを汲み取れる民族の、その能力を退化させないようにしよう。

 

曲線の美、それに通ずる魅力を、味わいながら生きていこう。

 

le 15 Janvier 2024


「一旦決めたからには、何があってもとことん貫く」、そういう価値観が社会の主軸を担っていた時代は既に過去となった。

 

考えてみればわかる。

たとえば航海の途中、予期せぬ嵐に遭遇もするだろう。

そもそもが、先々の天候など決して把握しきれるものではない。

都度、潮を読み、風を読み、舵をとりながら進むしかないのだ。

 

人生という名の航海において、航海図は自分の感覚であり、それをとことん信じきることがベースだ。

だからこそ、舵取りの判断に良きヒントを与えてくれる ’’違和感’’ をこそ、決して蔑ろにしてはいけない。

 

出航前に立てた計画どおり何がなんでも遂行することが大切なのではなく、状況に合わせて判断し、決断を積み重ねていくことこそが航海の醍醐味、航海の本質なのだ。

 

そう捉えれば、よりダイナミックに、航海そのものを楽しんでいける気がしてこないか。

 

その過程で得るものは限りなく大きく、目に映る風景は掛替えのないもの、その航海は感動に満ち溢れたものになるに違いない。

 

方向転換を恐れず、むしろ楽しんでいこう!

幾つになっても、そして、どんなことでも。

 

le 8 Janvier 2024


人間が把握できていることなど、’’全体’’ から見れば実はほんの小さな、ごく浅い、狭い範囲のものでしかないのだろう。

 

考えてみれば我々は、自分自身のことでさえ、いったいどれくらい把握できていると言えるだろうか。

 

ましてや地球に起きること、宇宙におきることのメカニズムを含むあらゆることについて、理解できていることとそうでないことの差は、おそらく想像を絶するレヴェルだ。

 

それでも我が身知らずなニンゲンは、遥かに大きいものを手中に収め、操ろうとする、いつまでも、何度でも懲りずに。

 

龍はそれをどう見ているのだろうか。

 

彼の眼に映ったそれを、もう一度自分自身に投影してみることで何か少しでも気づきを得られるようなら、あるいはそこに希望を見出せるかもしれない。

 

そこに、指針となる種を見つけられるかもしれない。

 

ならば前を向いてゆこう。

あらゆることが、然るべき形で与えられていると信じて。

 

le 4 Janvier 2024


手にとってじっくり観察できるもの、視覚で認識できるもの。

数値で表せるもの、言葉に変換できるもの。

万人共通のツールを使って記録しておけるもの。

誰もが瞬時に認識できる称号や、経済的価値を表す資産や財産。

 

そういうものが重宝され、価値あるものとされてきた時代が過去のものとなり、それらとは真逆に位置するものへとフォーカスされる時代が始まっていることは、もはや疑いようがない。

 

気づきを得られるヒントは日常のそこここに溢れていて、誰の身にも等しく受け取るチャンスが与えられている、そのことに気づけば話は早い。

 

自分の中心にあるメインスイッチをしっかり入れることで、驚くほど何もかもが違って見え、感覚が舵をとることの心地良さを知ることになるだろう。

 

暮れゆく西の空の、茜色の中にとけてゆく物ごとが、明けた先には全く別のものとして瞳に映る・・・!

そう、その時は目前にまで迫っている。

 

魂が歓喜に包まれる道への扉はすぐそこだ。

 

己のアンテナを錆びつかせている場合じゃない!

 

le 31 Décembre 2023


自然体でいられ、カッコつける必要もなく、互いの気持ちを素直に伝え合える関係。

 

自分の弱点も知ってくれていて、それを責めもせず、嘲(あざけ)ることなど勿論なく、むしろカヴァーしてくれる親友。

 

短所も弱点も含めて丸ごと受け入れ合える心友がいること。

 

目標に向けての道すがら、絶妙なタイミングでエイドステーションになってくれる存在。

また、こちらからもそうせずにはいられない大切な相手。

 

人生の中で出逢える人数には限りがあり、さらにその中で濃く交われる人との御縁は、実はそれほど多くない。

 

クリスマスから新年にかけてのこの時期、この一年も繋がり合えたことで、お互いの内面により細やかに触れることのできた御縁を、改めて思い返す時期でもある。

 

ただただシンプルに、御縁をいただけたことの感謝が身体じゅうを駆け巡り、その奇跡を再確認しては再び深い感謝に浸る。

 

なんの駆け引きもなく、ただ一緒にいて心から共振しあえる同志がいることの、何にも代えがたい幸せ。

その有り難さ。

 

le 28 Décembre 2023


一年で最も昼が短くなる日。

今年は今日、12月22日に「冬至」を迎えた。

 

「陰極まりて陽に転じ、陽極まりて陰に転ずる」。

古代中国の思想に端を発する東洋思想『陰陽論』で語られるように、その発想は森羅万象、天体の動き、宇宙の在り方からきていることを思うと、そのスケールの大きさに改めて静かに感動を覚え、そして深く考えさせられる。

 

他の生き物たち(動物、植物、鉱物など)とは違うのだ、という驕(おご)った自意識を持っている我々ニンゲン達が、実は天地万物において決して特別なものでなどなく、そういう間違った自意識を持っていることで、むしろ一番劣っているのではないかとさえ思ってしまう時がある。

 

どれだけ科学が発達し、テクノロジーが大手を振る時代になっても、我々を含むすべての存在は間違いなく天体の動きに影響を受けており、「陰」と「陽」とが巡る中に生かされていることを、節目節目で思い出させてもらえることは有り難い。

 

冬至の今日も、月と木星の接近など豊かな天体ショーが繰り広げられ、満天の星々から沢山のメッセージが降り注がれている。

 

陰が陽に転ずるこの時、「拡大と発展」を意味する木星は何を促しているのだろうか。

 

五感を研ぎ澄まし、指針を受け取れる自分でありたい。

 

le 22 Décembre 2023


一年で昼が最も短くなってゆく時期、寒さ増すこの季節こそ、人々の思いのフォーカスする先は「ノエル」、それ一色だ。

 

イヴの日に家族の住む故郷へと帰る、その日を待ちわびる若者。

 

子供が独立した中年夫婦なら、孫たちを連れて息子や娘が帰ってくるのを首を長くしながら、迎える日のディナーの献立に心をくだく。

 

異邦人たちは、友(やはり異邦人の)を招き、招かれ、すっかり長くなった異国暮らしの中で互いを温めあう準備を進める。

 

相手の喜ぶ顔を思い描きながら選んだ包みを抱え、今年も一年間ありがとう! の心を渡しあうために集まる日でもあり、心と心が普段以上に深く触れ合うその日に向けて、この時期、その熱気は日々上昇する一方だ。

 

肌を刺す風の冷たさに反比例して内側は熱くなってゆく。

 

街中は熱気を帯び、季節外れの陽炎(かげろう)さえ立ち現われんばかりのエネルギーが滾(たぎ)る。

 

毎年のことなのに、新たなことのように胸のときめきを識るのは、誰もが子供の頃に持っていた「大切な何か」を無意識のうちに思い出していて、それが大きなうねりになっているのを感じるからなのかもしれない。

 

le 20 Décembre 2023


今年三月の、パリで開催されたファッション・ウィーク『2023-2024  秋冬 プレタポルテ・コレクション』。

業界トップメゾンのショーで、日本の若い女優さんが主役に起用されたのは記憶に新しく、同胞としても誇らしい出来事だった。

 

コンコルド広場からほど近いシャネルの本店には、ショーから半年以上経った今も、ガブリエル・シャネルの愛した花 ''カメリア(椿)’’ と共に小松菜奈さんの妖艶な表情を見ることができる。

 

どんな分野でもそうだが、時間をかけた積み重ねの中で培われてきたものと共に、固着概念のようなものが本質部分に喰い込んでしまっていることがある、染みついた油汚れのように。

 

ココ(ガブリエル)・シャネルは、よく知られているように女性のファッションに大きく変革をもたらした人だ。

それまでの女性の装いとは大きく異なるデザインの登場に、おそらく当時は「否」の圧力もすごかったのではないかと想像する。

 

新しいもの、前例のないものに出会う時、人間は基本的に保守的な生き物だから、まず身構え、警戒していまう傾向にある。

 

そうさせているのはなんなのだろう?

 

「スタイル」「型」「様式」は言うまでもなく「文化」であり、「美」や「品格」に直結するので私も大切にしたい方だ。

 

けれど同時に、その枠に縛られて窒息しないよう、しなやかな感性を持っていたいといつも思う。

 

le17 Décembre 2023


氾濫する川、荒ぶる海、頭上からは雨あられが痛いほどの勢いで降り注ぐ。

 

吹きすさぶ強風に煽(あお)られる我が身は、一歩踏み出すどころか、自分の足だけでまっすぐ立っていることすら危うい。

 

ありとあらゆる情報が混濁する中、その渦に絡み取られるように進んでゆく日常は、まさに嵐の中にいるかのようだ。

 

穏やかとは言い難いその状況は、目に見えないが故に、その異常さになかなか気づき難い。

 

もちろん、情報は貴重なもの、有益なものであり得、的確に入手することはむしろ大切。

 

ただ、その為には、言うまでもなく、選り分けられる能力、識別できる心眼、嗅覚が必要になってくる。

 

それらがないまま無闇に取り入れてしまうことの先にある恐ろしさは、想像の上をいくのではないだろうか。

 

だからこそ、少なくとも嵐の中で判断しようとせず、冷静に見ることができる場所まで離れるのが得策だ。

 

高台からの眺めは、近くに、遠くに、様々なものが見える。

客観的に全体を把握でき、正しい気づきを得られる場所に自分を置くことは、情報収集と同じくらい大切な気がする。

 

le 15 Décembre 2023


その日に向けて、ひとつひとつ進めてゆく。

 

地味な作業に見えても、各々のパーツのクォリティこそが、来るべきその日、その瞬間のクォリティ、つまり喜びの質、度合いに直結することは間違いなのだから。

 

自分が経験したい全体像を、そのイメージをいつも心に抱き、積み重ねてゆくひとつひとつに丁寧に向き合っていこう。

 

それは苦行でもなんでもなく、行程それ自体が、生きているからこそのとてつもない喜び事だということも忘れないでいよう。

 

気ぜわしい師走の空気の中にいてさえ、その中身、その本質は実はワクワクなんだと気づけたら、笑顔ですべてに向き合える。

まるで人生の縮図のようだ。

 

さぁ、今年も樅の木を選ぼう!

 

感謝が溢れるクリスマスはもうすぐそこだ!

 

le 14 Décembre 2023


澄み切ったエネルギーが向き合い、一点の曇りもなき眼(まなこ)で互いを認め合えた時、それは起きる。

 

目に見える世界を超えて、どんな計測器を使おうがとうてい測れないタイミングで美しいものがそこに立ち上がる。

 

シンクロナイズ、と呼ぶ場合もある。

 

絶妙なバランスで複数ごとが重なりあい、引き立てあい、導きあい、受け入れあう。

 

そしてそれは空中で柔らかく溶けあい、輝く粒子の集合体となって舞台上から客席へ放たれるのだ。

 

上っ面な計算が一切通用しない領域で起きたそれは、そこに居合わせた者たちを圧倒し、感動へと導く。

 

それはおそらく、宇宙の在り方と似ているような気がする。

 

本来の地球の在り方も、きっとそうに違いない。

 

ただただ他者を想う信頼のエネルギーの満ち溢れるところ。

そこでしか生まれない尊いもの。

 

le 12 Décembre 2023


誰にとっても、生まれ育った「国」の影響は果てしなく大きい。

 

誰もが、今住んでいる「都道府県」、「市町村」、そういう括りの中の決まり事にそって、日常生活を営んでいるものだ。

 

学生時代なら「学校」、幼少期には「家庭(家族)」が自分を占める世界のほとんど、ということになる。

 

私たちはつい、自分の居る場所の常識、価値観、流儀が、この地球上、どこでも同じだとなんとなく錯覚してしまいがちだ。

 

けれど例えば、地球全体を眺められる位置までカメラを引いてみると、全くそうではないことがわかる。

 

一箇所にとどまり続けるということは、楽かもしれない、いや確実に楽なことだろう。

けれどそのぬるま湯が、’’思考を停止させる’’ という小からぬリスクを伴っていることに気づきにくい。

 

思考回路というものは、使わなければどんどん動かなくなる。

配管の中にゴミがたまり、水が流れなくなるように。

肉体でいえば、血管が詰まるようなものと言えそうだ。

 

それが何を招くかは推して知るべし。

 

自分がただの肉の塊になってしまわぬようにするためには、「場の力に絡みとられない」ことを常に意識している必要がありそうだ。

 

le 5 Décembre 2023


晩秋のパリの、柔らかい光の中での撮影を想い描いてカメラマンを依頼していただろうに...、生憎の雨模様の中、マリアージュ写真を撮るカップルは、それでも幸せオーラが溢れんばかりだ。

 

撮影には晴れた日の方が何かといいのは間違いないとしても、雨なら雨で、しっとりと様々なものに落ち着きと潤いが増し、樹々の匂いが濃く立ち込める中、また別の空気感となる。

 

晴れた日のことをよく「いいお天気」という言い方をする。

ならば、雨の日は「よくない / 悪いお天気」なのだろうか。

 

’’よくない / 悪い’’ と思ってしまうのは、自分にとって不都合だ、ということからきているのではないのか。

 

実際、雨が降らなければ立ち所に困ることがたくさん出てくる。

 

どんなことにも「良し悪し」など関係ないのに、我々は日常的に、何に対してもすぐそういう物差しを持ち出すクセがある。

 

簡単に、手っ取り早く、「良い」か「悪い」かのどちらかに分類しようとしてしまうのは、無意識のうちに、自分が「安心」を手に入れたいからなのかもしれない。

 

けれど、そもそも物事が、’’ただその状態にある’’ ことが、そんなにも不安を煽ることなのだろうか。

 

自分が ’’他の誰とも違う《自分》であるということ’’、それがどれほど尊いことかを魂レヴェルで思い出せば何の不安も生じない。

陽の光も、雨も、どちらも大いなる恵みだと思い出すように。

 

le 28 Novembre 2023


雨や風に促され、色づいた木の葉が次々と枝を離れる。

 

夏の間、あんなにも青々と繁っていたものが... と、何十年見ていても、自然界の循環の力に毎年感心してしまう。

 

この、緑から茶色への色の移り変わりにしても、’’そういうものだ’’ と片付けてしまうほど小さな変化ではない、と私は思う。

 

この世のものは、常に変化してゆく。

 

それが慣わしであり、理(ことわり)であり、地球上の全てのものに言えることだ。

 

そこにニンゲンの余計な何かが介入できる隙はない。

ニンゲンにはそれが許されているなどと思ったら大間違いだ。

 

この地球は、...否、地球が生命体として息づいている場所、宇宙じたいが、大きな大きな摂理の中に在る。

 

全てにとって一番いい循環が起きるように、うまく連動するように、ニンゲンなどが考えつかないバランスで創られているのだと思う。

 

たかがニンゲンなんて、そこから見たらアリンコと変わらない。

いやむしろ、どこが違うというのだろう。

 

そういう視点で考えてみると、己を知り、部をわきまえているかどうかで、生かされ方も違ってくるような気がしてならない。

 

le 26 Novembre 2023


男性用スーツの仕立て屋、テーラーとも言うが、ショーウインドーには一分の隙もない背広の着せられたトルソーが飾ってあり、シックなカフスやネクタイなど、スーツを引き立てる小物でおしゃれに演出され、独特の雰囲気を醸し出しているお店が多い。

 

パリの2区、ウチからも近い小径に、往年の大スターたちの写真を これでもか!と飾ってある年季の入ったテーラーがあった。

’’あった’’ と過去形で書いたのは、地球規模のウィルス騒ぎの最中に店仕舞いをしてしまい、跡形もなくなってしまったからなのだが、知る人ぞ知る、といった不思議な風格のあるお店だった。

 

いつもこの前を通る度、この豪華すぎる顔ぶれを眺めながら、おそらく何代にもわたって受け継がれてきたこのお店の歴史を想像してみたりしたものだ。

もう確かめようもないが、これらスターさんたち何人もが顧客だったのかもしれない --- と思いを馳せながら。

 

既に、この写真の中の多くの方々が鬼籍に入っておられる。

けれど、映像で、音源で、彼らの創り出した世界は永遠だ。

 

残念ながら、永遠ではない道を辿ったこの老舗テーラーだが、この扉の向こうに一歩足を踏み入れたその刹那、旧き良き時代の空気が出迎えてくれ、一瞬にしてスターたちが活躍した世界にワープできる・・・ そんなふうに、世紀を超えて時をつないでいた秘密の場所だったような気がしてならない。

ある大スターの命日に、ふとそんなことが頭に浮かんだ。

 

le 24 Novembre 2023


生まれた時から身の回りにある沢山の ’’当たり前’’。

それがどれほど特別なことで、有り難いものばかりなのか。

日々の生活に追われ、忘れていたそのことにハッと気づく時、受け取っているもののあまりの大きさに言葉を失う。

 

空から降り注ぐ「陽の光」、雨は、生命の源といわれる「水」の、ひとつの形としての天からの恵みだ。

目に見えず、その存在じたいを認識するのが難しい「空気」。

同じく、あまりにも当たり前すぎて意識もしない「大地」。

 

なんということだろう! 出し惜しみもせず、全て無償で提供されているそれらに、私たちはずっと支えられてきているのだ。

 

まだベビーベッドの中で過ごしていた頃は、きっと誰もが、そういうものとの繋がりを魂で感じとっていたのではないだろうか。

 

余計なものを年齢とともに吸収していく中、視野も狭まり、つまらない思考回路を賢くなったからこそだと勘違いし、目に見え、手にとれるものだけに執着する能力ばかりを磨いている。

 

今、自分の持っているものが本来の状態で輝いているかどうか、それを観察できる状況に果たして自分はいるだろうか。

 

しっかり意識できる感性を持てているだろうか、自分を生かしてくれている数えきれないものを。

見限らず、どこまでも無言で気づきを与え続けてくれている、それらの懐の深さを。

 

le 23 Novembre 2023


あれこれと頭で考え、自分の力で物事を進めている気になってはいても、そんなものとは桁違いの歓ばしきものが、あるとき何の前触れもなく、思わぬ形でもたらされることがある。

 

’’想定外’’ という言葉があるが、私たちがいる世界は、もともとそういう贈り物を受け取らせてもらえるところなのかもしれない。

 

振り返って分析してみると、大抵それは、何年か越しのほんの小さなひとつひとつの事柄が絶妙に組み合わさって、’’今’’、ある形となって目の前にもたらされたのだ、ということが分かる。

 

だとすれば、ひとつひとつの意味をその時々に完璧に把握できていなくとも、瞬間瞬間を直観に従って生きること、その連なりが見事なモザイク模様に向かっていると考えられないだろうか。

 

人生において、予め自分で決めておけることなど、意外にそう多くはなさそうだということも、’’想定外の贈り物’’ を受け取ることで腑に落ちる。

 

誰もが、大いなるものの計らい、その愛に包まれて ’’生かされている’’ ということを、思い出させてもらえる瞬間でもある。

 

様々な出来事や御縁・・・ どうやら ’’必要なものは必要なタイミングですべて与えらえる’’ という仕組みのようだ。

 

なればこそ、日々のそこここに溢れているメッセージと己の直観とが、深く連動していることをいつも忘れないでいたい。

 

le 21 Novembre 2023


ひとりひとりのスペースを十分とってある高級レストランのテーブルとは違い、街の気さくなレストランやビストロでは、向き合って座る小さなテーブルが、お隣との間隔もほとんどなくビッシリと並べてあることが多い。

 

人気店では、当然ながらひとつの空席もなく埋まるので、文字通りギュウギュウ詰めになり、渡仏したばかりの頃の私はそのテーブルセッティングにかなり驚いたものだった。

 

そんな空間で、フランス人たちは嬉々として食事を楽しむ。

 

食前酒から始まってひと通りのコース、食後のコーヒー、その間ずっとお喋りもノンストップ状態なのがフランスの光景だ。

 

フォークとナイフの音、ワインのコルクを抜く音、トクトク... とグラスに注ぐ音、それらを人々のざわめきが熱く包み込む。

 

お料理とワインの匂い、会話から立ち昇ってくる幸せな薫り。

 

目に見えない濃厚なその空気の合間を縫うように、時にはお客さんに気の利いた冗談を言いながら機敏に動くギャルソンたち。

 

「食事」という ’’生命力の源’’ と直結する場には、とてつもないエネルギーが渦巻いている。

 

そんな時間を間もなく迎えるビストロのテーブルたちが、さながら舞台袖で開演ベルを待つ緊張感に包まれているように見えた。

 

le 17 Novembre 2023


たまに私たちは、勘違いしていることがある。

 

「こんな未来が来たらいいな」「あんな未来が来たら嬉しいな」

そう夢を抱くのはいい、もちろんいいに決まっている。

先ずは、望まぬことには何も始まらないのだから。

 

けれど、望む未来というものが、ある日どこかから「来る」わけではない。

 

「お届け物ですよ〜」と宅配便のように届けてもらえるものではない。

 

「今」は、一瞬前の地点から見れば、時間軸的には「未来」という領域内にある。

 

とすればつまり、「今」の自分が、自分の望む未来のために何らかの行動を起こしてこそではないだろうか。

 

そうなのだ。

望む未来が ‘’来ればいいな’’ ではない。

望む未来に ’’行こうとする’’ かどうかだ。

 

それを決めるのは自分。

 

実現させられるかどうかも自分次第。

 

実は、望む未来に限らず、何もかも、既に自分の中にあるのだ。

 

le 15 Novembre 2023


ひと雨ごと、季節は進む。

 

春に向かう時、こうして寒さに向かっていく時、雨が季節を進めていく。

 

その合間にも、突然こんな日があったりするものだ。

 

まるで、読み進めている本の中、素敵な文章に行き当たり、ページを手繰る手が止まってしまう時のような。

 

もうとっくに諦めていたのに、思わぬところから探し物がひょっこり、嬉しい驚きが湧いてきた時のような。

 

ずっとご無沙汰続きの、遠い異国へ嫁いでいった旧友から、華々しい活躍ぶりが届いた時のような。

 

様々なシーンにリンクする表情豊かな頭上のキャンバス。

 

空全体があちこちで、複数の幸せな物語を奏でている、そんな賑やかしげな日には、自然と心も浮き立ち、足どりも軽くなるというもの。

 

風は冷たいけれど、少し遠回りをしてみようか。

 

だって空が、こんなにも楽しそうなんだもの。

 

le 12 Novembre 2023


今年の秋は雨が多い。

 

一日じゅう一滴も降らないという日がないくらい、連日どこかしらの時間帯で雨が降る。

 

ほんのひととき、霧雨が静かに頬を濡らす程度の日もあれば、強風が一瞬のうちに雨雲を連れてきて、あっという間に大粒の雨が地面に水しぶきをあげたり。

 

拍子抜けするほどの通り雨の時もあるし、天気予報を裏切る本格的な降りに遭遇しては、’’本降りになって出てゆく雨宿り’’ 状態になったり。

 

かと思うとカラッと青空が広がったりもする不思議な天候だ。

 

穏やかな時の流れの中に、様々なアドリブを挟み込んでくる自然界からの合いの手。

 

一日として同じ日はない、という大切なことを、とても分かりやすく示してくれているのかもしれない。

 

le 9 Novembre 2023 


人里離れた山奥の電波の届かぬ場所でもない限り、今の時代、家に籠っていても「世間」という雑音を遮断できるとは限らない。

 

むしろ、家で TV を見たりパソコンやスマホを使っていたりすればするほど、「世間」が無遠慮に入り込んでくるものだ。

 

私の場合、着信音を常時 OFF にしている携帯電話は、外出時には鞄の奥に入れっぱなしなので尚のこと、家にいる時以上に、自分の目や耳などがその場でキャッチしたものしか入ってこない。

 

木立の中の陽の光、色づく秋の葉擦れの音、鳥の声を味わう為の感覚は、現代機器に対応する神経とは全く別のところにある。

今どきの人たちは器用に併用できるのだろうが、不器用な私には同時に ON にしておくのが難しい、それが理由だ。

 

その代わりといってはナンだが、様々な調べ物を、家のデスクトップパソコンを駆使し、納得いくまでとことん追求しまくる。

 

そんなふうに、現代文明の恩恵を最大限活用させていただく為にも、私は、自分にとって心地良い方の ’’回線’’ を日常のベースにし、そちらに重きを置くことにしている。

 

キナ臭い世界情勢、その清濁入り交じる情報の泥濘に足を取られ、無闇に未来への不安を煽(あお)られる日々。

わざわざそんな環境下で身も心もすり減らしては本末転倒だ。

 

能天気でいろという意味ではなく、余計な「世間」とは上手に距離をおき、健やかなる自分で立っていたい、いつどんな時も。

 

le 6 Novembre 2023


「冬時間」になってから一週間が経過した。

 

年に二度、春と秋に、枕元の目覚まし時計やリヴィングの置き時計など、家中の時計の針を1時間早めたり戻したりするわけだが、数年前まではパソコンや携帯電話も同じように手動で変更していたものが、今では自動で切り替わる時代だ。

 

’’なんでも機械がやってくれる’’ というのは楽かもしれないが、日常生活を ’’できるだけアナログに’’ している私にとっては、様々なシーンで何とも言えない違和感を感じてしまう。

 

外出時、祖母の形見の手巻き式腕時計のゼンマイをしっかり巻き、時間を合わせてから腕にはめる、その一連の動作そのものが、私にはなんとも言えない小さな幸せ時間だったりするのだ。

 

これに限らず ’’自分でやる’’ という作業は、気持ちが引き締まるというか、流れる時間の中での心地よいアクセントになる。

 

自分の関与していないところで、物事が勝手に進んだり変更されたりすることを、多くの人は「便利さ」だと重宝がるようだが、それは、そんなにも ’’良いこと’’ ばかりなのだろうか。

 

増々 ’’自動’’ に慣らされ、本来の能力を退化させられた末、何でもかんでも鵜呑みにし、有り難がって受け入れることしか出来なくなる、そんな筋書きではないと誰が言い切れるだろうか。

 

le 4 Novembre 2023


「コレがこうで、こうなって、こうだから、こうだ」と、自分なりの方程式を解いた上で確信を得ることもあれば、経緯を全部すっ飛ばして「こうだ!」と揺るぎなく ’’わかる’’ こともある。

 

どちらがより信頼できるかといえば、言う迄もなく後者の方だ。

 

方程式を解いた末の確信は、今生での自分の経験や知識を踏まえて ’’脳’’ が導き出したことだが、後者は、遠い過去に経験し、その時に得たものを ’’魂’’ が覚えているからだと私は思う。

かつて方程式を解いたことがあり、方程式の方は忘れてしまったが答えだけはしっかり記憶している、そういうことなのだと。

 

「どうしてなのかは説明できないが、一点の曇りもなく『こうだ!』と確信できる」、それを時に ’’直観’’ という言い方をする。

 

そして大抵の場合、時をおいて(わりとすぐのこともあれば数年後の場合もある)、その確信を肯定する体験や事象に遭遇する。

 

生きてきた ’’回数’’ が違えば経験値が異なるのも当然だが、個人差はあれど基本的には誰にでも備わっている能力だ。

ただ、誰も教えてくれないそういう仕組みを、信じるか信じないかは大きく分かれるだろう。

頭からバカにし、鼻で嗤う人の方が多いのが世の常...。

 

けれど、そう考えるととてもしっくりくることなのだ。

... と、これも説明できない域のことなのだが。

 

le 1 Novembre 2023


’’書を捨てよ、町へ出よう’’

 

私の東京での学生時代、日本の演劇界は、長年水面下でじわじわ熟成させてきたものを、小劇場やアングラ演劇という形をとって、マグマのように熱きものを迸(ほとばし)らせていた。

 

それらは途轍もないエネルギーを放っていて、舞台を見てきた興奮で眠れぬ夜を幾晩も過ごしたし、新作はもちろん、古今東西の様々な戯曲を読み漁っては、音楽界とは別の、不思議な魅力に溢れた世界に深くのめり込んでいくのに時間はかからなかった。

 

冒頭に挙げた寺山修司の生んだフレーズもそんな折りに出会ったもののひとつで、四十年以上経った今も、当時の青臭い自分を思い出しながら、指針のひとつとして再確認することが多い。

 

今、この言葉の続きを、私が私自身に課しているとするならば、それは、’’顔を上げよ、空を見上げよう’’、そんなニュアンスの内容になるだろう。

 

せっかく ’’書を捨てて町へ出’’ ても、イヤホンで耳を塞いでいたり手元の電子機器ばかりに目を落としていたら、それは寺山の促す ’’書を捨てて町へ出’’ たことにならない、そう思うからだ。

 

思わぬところから、思わぬタイミングで与えられる '’氣づき’’。

 

見上げれば、沢山のものが自分のアンテナにひっかかってくる。

決して大袈裟な言い様でもなく、そして比喩でもなく!

 

le 29 Octobre 2023


普段、何気なく目にしているものが、そう意識していなくとも、自分の深いところに何らかのものを残していそうな気がする。

 

日々の食事が、この肉体、内臓や血液、細胞のひとつひとつを作り、生かしてくれているように、目から、耳から入ってくるもの、それらが全て、’’私’’ というものを作っている要素だと思う。

 

そんな、自分の外から入ってくるものに対して生じるもの、つまり心の反応、ふと湧き上がってくる感覚、頭に浮かぶことも含め、自分の身に起きていることは、全て自分を形成するものだと捉えるのが自然なことのように思える。

 

もっと言えば、自分の持つ感情ひとつひとつさえもだ。

そうではないと誰が言い切れるだろうか。

 

負の感情を持ってはいけない、負の現実を見てはいけない、などと言っているのではない。

そんなことは、人間をやっていたら当たり前に起きること。

 

けれど、それらをどう受け止め、どう消化 / 昇華していくかで、自分自身に及ぼす影響がまるっきり変わってくる気がする。

 

だからこそ思うのだ。

自分を作っているのは、どんな時も己自身なのだと。

 

晴れやかな、自分に誇れる自分でいられるように、そのことをいつもどこかでしっかり意識していたい。

 

le 28 Octobre 2023


これくらいの年齢だった頃。

毎日をどんな感覚で生きていただろうか。

何を見、何を考え、何を思いながら過ごしていただろうか。

 

エンプティーになってコトンと眠りにつく毎日、常に ’’今 ここ’’ に焦点が合っていて、楽しいことに没頭するにせよ、辛いこと、悔しいこと、納得できないことに腹を立てるにせよ、感情をしっかり受け止め、全力で物事に向き合っていたような気がする。

 

過去をいつまでも思い悩んだり、’’将来’’ などというぼんやりしたものに不安を募らせたり、そんな ’’今ではない いつか’’ なんぞに思考軸をもっていく暇などなかった。

というより、そんなテクニックや発想さえなかったともいえる。

 

だが大人になるにつれ、知恵がつき経験が増し、もちろん沢山の良きことを身につけてこられただろうが、それらと引き換えに、あの頃に持っていた無防備で無鉄砲な勢い、自分の願望に正直である生き方を、どこかに置き忘れてしまってはいまいか。

 

己の可能性を120%信じて疑わなかったあの頃の自分のことを、まるで他人のことのように思えてしまってはいないだろうか。

 

だが、思いわずらうなかれ。

 

幾つになってからでも、『宇宙との強い繋がり』を本能的に知っていた頃の自分に戻ることは十分に可能だ。

いつからでも、’’その地点’’ にしっかり立つことは可能なのだ。

自分が、本気で、その気になりさえすれば!

 

le 26 Octobre 2023


案外、そのものを直に見るよりも、何かに映った状態を見ることで、その実態を深く知ることになる場合がある。

 

会社の面接官を担当することが多いという旧い友人が、こんなことを言っていた。

男性社員の採用を決める面接では、志願者の奥さんにも同伴をお願いするのだそうだ。

本人だけを見るよりも、驚くほど沢山の情報を得ることができる、と話していたのが印象的だった。

 

似たようなことを連想させる ’’類は友を呼ぶ’’ という言葉があるように、その人の友人を知ることで、自分とのつきあいだけではわからない別の面を垣間見る時がある。

 

なんとなく卑劣な話に聞こえるだろうか?

 

いやいや、そういう話がしたいのではない。

 

我々は誰しも、いくつもの側面を持っている生き物だ。

もしかしたら自分でも把握しきれていないほど沢山の。

そして、環境の影響をとても受けやすい生き物でもある。

 

さて、この先の人生、どんな自分で在りたいか。

 

自分ひとりで磨いていける部分ももちろんあるが、もしかしたら、人間関係を含むどんな環境を自分で選んでいくか...  実は想像する以上に深く関係してきそうだ。

 

le 25 Octobre 2023


携帯電話が日常と切り離せなくなって久しいが、いわゆる ’’歩きスマホ’’ をやる人の多さに辟易させられるのは私だけだろうか。

本人は人とぶつからない気でいるのだろうが、対面から来る他者との距離は、実は思っている以上に早いスピードで縮まる、そのことを ’’歩きスマホ民’’ の方々は全くお分かりでないようだ。

また、呆れるほど多く見かける ’’道の真ん中で突然立ち止まってスマホに集中する人’’ にも、私は常々良い印象を持っていない。

 

考えてみてほしい。

’’歩き読書’’ をしている人や、’’道の真ん中で突然立ち止まって本を読みふける人’’ がどれだけいるだろうか。

 

私個人の意見に過ぎないが、同じように手元に目線を落としている姿でも、それが携帯電話なのか、それとも本なのかによって、本人から無意識に発される波動はものすごく異なるように思う。

 

正直、スマホ画面に集中している姿はあまり美しく見えない。

 

反して、読書をしている人の姿は、気のせいかとても知的に、美しく見える。

 

もしかしたら我々が考えている以上に、「携帯電話」と「本」からの影響には、とても大きな差異があるのではないだろうか。

 

あくまで私の肌感覚に過ぎないが、見えない部分で、密かに脳味噌の変革が企てられているとしても不思議ではない気がする。

 

le 22 Octobre 2023


雨風しのげる場所がある。

肉体を維持するための食料を手に入れることができる。

 

なんといっても、自分の身体がきちんと機能してくれること。

口からものが食べられ、穏やかな睡眠がとれること。

 

それらがどれだけ有り難いことなのか、つい忘れがちになる。

 

だが、肉体の維持はできたとしても、その中身が渇いてしまったら我々は生きていくことが難しくなる、そのことも忘れがちだ。

 

自分の生活に、自分の人生に、潤いを、豊かさをもたらしてくれるもののことを、決して軽んじてはならない。

 

人それぞれ、それが何かは違う。

だからこそ、自分で知っておかねばならない。

 

己の心ほど、誤魔化すことの出来ないものはないのだ。

騙(だま)すことなど、どんなに頑張ってもできはしないのだ。

 

だから、一見なくてもよさそうに思えたとしても、いつも大切にしていなくてはならず、そのための場所を、他のくだらないもので埋めてしまってはいけない。

 

たいていの場合それは、目に見えないものや、’’永遠’’ とは対極の、儚(はかな)いものだったりするからこそ余計に。

 

le 20 Octobre 2023


暑い夏の間じゅう、あちこちの路上で歌い続けてきたのだろう。

まんべんなく綺麗に焼けた小麦色の肌が、その日々を思わせる。

 

人間の感覚とは面白いもので、真夏の、30℃を越える猛暑の後の20℃は肌寒く感じるものだし、急に冷え込みをもたらした冷たい秋風を味わった後だと、お日様が照りつける20℃の日中を、汗ばむ陽気だと認識する。

 

行きつ戻りつの、移りゆく季節の間(はざま)。

 

夏の終わりの恋歌を、今、来年までお預けだと名残り惜しむように、情感をこめて歌う彼女。

 

八百屋に魚屋、そして肉屋。

ワイン屋、チーズ屋はいったい何軒あるだろう。

気どらないパン屋やカフェもあれば、チョコレート屋もある。

薬屋にスーパーマーケット、古くからの金物屋。

そして花屋も軒を連ねている。

 

そんな、庶民的なマルシェの、まっすぐな長い通り。

 

その声は、石畳を走り、そぞろ歩きの人々の会話にそっと加わってはまた舞い戻り、小粋な余韻を辺りに残す。

 

思いがけず、’’夏’’ からの忘れ物が届いたかのような午後。

 

le 19 Octobre 2023


教会の塔が、まるで生き物のように、晴れた秋空に向かってどこまでも伸びていきそうな勢いで屹立している。

そう見えるのは、空の表情も一役買っているからかもしれない。

 

何事も、目の前にある現象それじたいはひとつなのだが、それをどう受け取り、どう見るかは、人の数だけあるように思う。

そしてさらに、己の目に映るさまは、その時の自分自身がどんな心境なのかにも大きく左右されそうだ。

 

世界は常に、様々な事柄を抱えながら時を重ねていっている。

「マイナス事」にカウントされることが地球上のあちこちで勃発しているが、人類史上、何も今始まったことでもない。

 

大切なのは、おそらくそれ以上にたくさんの「プラス事」が在ることを、いつも、どんな時も、忘れずにいること。

 

自分がどちら側の世界にいたいのか。

そこをしっかり持ってさえいれば、いつもそうあり続けられる。

 

けれどそこに、たった一滴の不安を混じらせてしまうことで、ものすごい力によって望まぬ現実の方へと引っ張られてしまう。

 

この世の仕組みは、いたってシンプル。

自分がどちら側の世界に身を置きたいのか、その意識だけだ。

 

le 18 Octobre 2023


気温は下がってきているが、穏やかに晴れ、風もほとんどなく優しい陽射しの今日、地下鉄3番線に乗って ’’そこ’’ へ向かう。

 

先客がいて、ヘッドホンで聞いているのは、問うまでもなく ’’彼’’ の作曲した曲に違いない。

左手に小ぶりの手帳、右手にはペンを持ち、時折り、文字を書きつけている。

 

静かに佇んでいる青年は、他の観光客から話しかけられた様子からすると、どうやらスペイン人のようだ。

 

何人もの人々が通り過ぎてゆく間、その青年と並んでお墓の前に立ち、私も静かなる時を過ごす。

 

ほどなくして私の頭の中に流れてきたのは、Op.25 - No.1。

通称 ’’エオリアン・ハープ  Aeolian Harp’’ と呼ばれる曲だ。

 

今日のお天気、その場の空気がその曲を選んだのだとわかった。

まさにピッタリだった。

 

大理石に刻まれた横顔に、柔らかい木漏れ日が降り注ぐ。

彼の左横顔を見つめながら、その宝石のような曲に浸り、やっぱり今年も、心からの感謝を伝えずにはいられなかった。

 

道すがらずっと頭の中で鳴り響いていたその曲を、帰宅してから大好きなコルトー Alfred Cortot の演奏でしみじみ聴いた。

作曲者の指定したテムポに限りなく忠実な、軽やかなるそれを。

 

le 17 Octobre 2023


時には斬新に。

 

型破りに。

 

独自の表現を世に問うてみることだ。

 

但し!

 

『型破り』とは、本来の「型」を十二分に己のものとした上で、それを ’’破る’’ からこそ。

 

型も知らないうちから、むやみに、ただ自分勝手にやることを『形無し』という。

 

先ずは、「型」を知ろうとしなければ、永遠に何も始まらない。

 

そしてその「型」は、いったん自分の身に浸透した暁には、常に自分を本来の位置に正してくれるものでもある。

 

どんな ’’道’’ にも言えること。

 

幾つになっても肝に銘じていたいこと。

 

le 15 Octobre 2023


大胆に肩を出したサテンのドレス、首まわりには、葉っぱを模した羽根製のマラボーが揺れる。

 

ふと、かすかな声でシャンソンが聞こえてきた...  ような気がした。

 

妖精や精霊とめったに遭遇できないとしても、雑踏の中、誰ひとり注意を向けないところにさえ、それぞれの素敵な物語は紡がれている...  のかもしれない。

 

そんなあれこれを、’’ありえない’’ と言い切ることができようか。

 

この世は、あまりにも多くの、とうてい人間が把握しきれないたくさんのことで創られている、そのことだけは、何がどう転んでも動かしようのないことなのだから。

 

le 13 Octobre 2023


目線の下に空がある、雲が流れる。

 

思わぬところでの意外な遭遇。

 

空は、いつも「上」にあるとは限らなかった。

 

そうだったのか...!

 

日常が、いかに ’’固定観念まみれ’’ かと気づかされる。

 

ふっ... と縛(しば)りや囲いがとれた時、見え方が全然違ってくる。

 

とすれば・・・

 

相手から発される言葉の、その向こうにこそ、本当の気持ちが隠されているかもしれないのだ。

 

「辛い」「しんどい」「助けて」、と言えないだけで。

 

「ありがとう」「大好き」「愛してる」、と言えないだけで。

 

le 12 Octobre 2023


気に入った場所があれば、そこに腰を下ろしてみることだ。

 

委ねてみることで、磁場エネルギーと共鳴する。

 

その場所に受け入れてもらえた時、温かい抱擁のようなものを感じるだろう。

 

その時はじめて、リラックスしている自分に気づく。

 

ゆりかごの中で安心しきっている赤子のように、風景に抱(いだ)かれ、一体となったその様子は、辺りに安堵の ’’氣’’ を放つ。

 

大自然のそれとはまた少し違うが、街もそこここに、私たちを受け入れてくれる素敵なエネルギーを秘めている。

 

それを引き出すのは、個々の心の持ちよう、それ次第。

 

とある日の、心弛(こころゆる)びの夕暮れ前。

 

le 11 Octobre 2023


ランチの時にワインを頼む人が珍しくないように、こちらでは昼間からのビールも飲み物の選択肢のひとつでしかない。

 

日本から来たばかりの頃は、「真昼間からアルコールを飲むなんて!」と呆れながら驚いたものだが、それも遠い昔。

 

今や私も、仕事のない日の日中、友人とカフェで会う時などに、カフェ(コーヒー)よりもビールを飲むことも少なくない。

 

半世紀ほど前までは、おそらくその位置を ’’ワイン’’ が占めていたと思うが、21世紀の今、大抵どこのカフェでも、それぞれのお店のチョイスで生ビールを数種類置いている。

よっぽど銘柄を指定したい時以外は、「un demi(250ml)」とオーダーすれば、そのお店の一番安い銘柄を出してくれる。

自宅では飲めない ’’生ビール’’ を楽しむ機会でもある。

 

日本のように、日が落ちてからの飲み物という認識でもないし、昼夜問わず、ベロベロになるまで酔っ払っている人も三十年住んでいて一度も見たことはない。

 

ふらっと入ったカフェでの、ひと休みの生ビール。

 

パリの日常のワンシーンだ。

 

le 10 Octobre 2023


過ぎ去った夏を懐かしむように、太陽の下に肌を出す。

 

ガクンと気温の下がった九月の後では、まるで映画の本編の後の、思いがけない特別編を見せてもらったかのように、この  ’’オマケ’’ の暖かさが嬉しいものだ。

 

これからの季節に備えるべく、少しでも陽の光を浴びておこうとする気持ちは、こちらの暗く寒い冬を、体感として知れば知るほど深く理解できるようになる。

 

日傘や鍔(つば)の広い帽子、長袖シャツ、夏仕様の手袋まで総動員させて、日焼けから身を守る日本の人たちには驚きだろう。

 

例えばパリは、日本とはだいぶ緯度が違うから、「陽の光」への認識も違ってくる。

 

こちらの常識が、あちらでは非常識。

 

自分の常識は、他人様には非常識。

 

国同士、民族同士、この地球上は相反する「常識」のオンパレードなのだ。

 

’’人の数だけ「常識」がある’’、決して大袈裟ではなく、そう思っている位で丁度いい。

 

le 9 Octobre 2023


流るる川

 

浮かぶ雲

 

そよぐ風

 

遠き想い・・・

 

 

あのことも このことも

 

やがて全ては交わり 溶け合い 彼方へと向かう

 

何もかも 全てが贈り物だったと識(し)る深い歓びとともに

 

le 6 Octobre 2023


出先での暫(しば)しの休憩。

 

どんな場所でも、そこを自分の場所と決めてしまえばいい。

 

さぁ、サンドイッチを取り出して、軽くひと息つくとしよう。

 

周りの目などどこふく風。

 

場所も、時間も、自分のチョイス、自分に一番いいように。

 

いつも、至ってシンプルに。

 

自分の心地の良きように。

 

le 3 Octobre 2023


自宅のリヴィングでくつろぐように、太陽のエネルギーを全身で受けながらの屋外での独り時間。

 

家の中にいる時とは別の、伸びやかな発想が湧いてくる。

 

自分を最大限に肯定し、大切に受け止めた上での発想が。

 

ちょっとした環境の違いは、実は思っている以上に大きく作用するのかもしれない。

 

...と、そのことを意識しているかどうかで、様々なことが大きく違ってくるのだ、実は思っている以上に。

 

le 2 Octobre 2023


九月の肌寒い日々、「あぁ、このまま季節は先へと進んでいくのか...」と遠ざかる夏を寂しく思ったが、再びの気温上昇で汗ばむ日を味わうと、どこかで少しホッとするのがなんとも不思議だ。

 

小さい頃(それを「学生の頃」という意味合いを込めてもいい)は、無意識に ’’先々’’ に焦点を合わせ、前へ前へという意識の中で日々を過ごしていたように思う。

車窓から眺める景色の、先へ先へと目を向け続けるように、だ。

 

けれどいつの頃からか、列車の後方に流れてゆく景色、それらに名残惜しさのようなものを感じるようになってきた。

 

「過ぎ去る景色を、果たして自分は十分に味わい尽くしたのだろうか」という思いなのかもしれない。

 あるいは・・・

’’過ぎ去りしものへの郷愁’’ なのかもしれないが、これが年齢の増加に正比例するのは、ある意味、理屈にあったことでもある。

 

しかし、物事はその捉(とら)え方によって全く変わってくる。

「コップに残っている水を、『もう半分しかない』と思うのか、『まだ半分ある』と思うのか」というアレだ。

 

十月に入った今、’’今年’’ が4分の3過ぎてしまったと思うのか、まだ4分の1あると思うのか。

 

大丈夫、どんな時も、何も深刻になる必要などない。

捉えたいように捉え、笑顔で進んで行けばいいだけのこと。

 

le 1 Octobre 2023


いつかの昔の、

 

あんなことがあったあの時の、

 

言葉にできない気持ちをもてあましていたこと。

 

その時のことが、

 

今では少し甘酸っぱくもあり、

 

ただ懐かしい。

 

誰もが持つ、心の中の秘密の小箱よ。

 

le 30 Septembre 2023

エレガンス  élégance:フランス語

 

 

ふっ... とした瞬間に垣間見える、なんとはなしの気品。

 

外側から付けたものではなく、内側から滲み出てくるもの。

 

その佇まいから自然と溢れる優美さ。

 

 

深き森に生息する子鹿の、その瞳が捉えた、夜の湖に映る柔らかい月光。

そんな風景にいきなり飛び込んだかのような不思議。

 

le 29 Septembre 2023

真夏の間は、夜の10時頃になってもまだ「夕方」が終わらない。

飲んで食べて喋って笑って...  いつまでも暗くならないから延々と続く、それがこちらの「夏」だ。

 

勢いそのままに、真夜中零時を迎えた瞬間、近くのバーやカフェから聞こえてくる若者たちの「Joyeux Anniversaire 〜♪(いわゆる Happy Birthday to You 〜♪)」の歌声。

 

けれど、何事もずっと同じ状態が続くことがないように、日照時間の長い時期も、そういつまでも続くわけじゃない。

 

九月も末となると日没は7時半すぎ... とだいぶ早まってきた。

 

気温高めのよく晴れた日の夕方。

沢山の思い出と共に去りゆく晩夏の西陽、こんな日差しもそろそろ今年は見納めだろうか。

 

くっきりと、見事な明暗を作るその様は、乾いた空気の中でパリッと潔い表情を作り出す。

高温多湿の日本で見る「影」のニュアンスとは、何かとても違うものを感じる。

 

この国の人たちは、物事の終わりや変わり目を、時として驚くほどカラッと受け入れるように思うのだが、それは気候とも関係しているのかもしれない。

 

le 28 Septembre 2023

フランスの公立の小学校は、日本とはかなり違い、入学式もなければ卒業式も、運動会のような催し物もないのだそう。

ただ、年度末の校外学習があるようで、八月末のある日、街で賑やかな子供たちに遭遇した。

学校以外の場所に、クラスメイトたちと出かける貴重な機会とあらば興奮は計り知れず、全身から喜びを溢れさせている様子に、ついこちらまで笑顔がこぼれる。

 

誰もが子供の頃、運動会や遠足の前夜は目が冴えまくり、ロクに眠れなかった経験を一度や二度はしているのではないだろうか。

私も例外ではなく、特に運動会や文化祭など、年に一度の「パフォーマンス」をする日が本当に好きだった。

そしてそれは小学校よりも中学校、更に高校、大学へと進むにつれ、どんどんエスカレートしていくことになる。

高校、大学時代に至っては、大げさに聞こえるかもしれないが、その日に燃え尽きる勢いで一年間を過ごし、終わった後の ’’抜け殻状態’’ から復活するやいなや、本業そっちのけでまた翌年の催し物に考えを巡らせる日々が始まる、そんな学生時代だった。

 

大人になってくると、’’特別な日’’ に向けて、準備と緊張の高まりの中で日々を重ねていくには、責任からくるある種の苦労もあるものの、ベースにはやはりなんとも言えないワクワクが伴う。

 

自分の魂がひとつでも多くのワクワク事を経験できるように、いくつになっても、自分をそういうシチュエーションに置きたい。

この肉体を脱ぐその日がくるまで、人は皆、そういうふうに生きる為にこそ生まれてきたのだと、私はそう思っている。

 

le 27 Septembre 2023

『おとなはだれしも、はじめは子供だった。けれど、そのことを忘れずにいるおとなは、ほとんどいない。』

子供向けに書かれた本のような体裁をとっているが、あくまで ’’かつて子供だった大人たち’’ に向けて書かれた永遠の名作 『星の王子さま Le Petit Prince』、その冒頭の献辞の中に、作者サン=テグジュペリ Antoine de Saint-Exupéry はそう書いている。

 

私たちは大人になってゆくにつれ、世間体や大人の世界の価値観に押し潰されるようにして、もともと持っていた伸びやかな、柔軟な感性を、無意識のうちに手放してしまうのかもしれない。

 

そういう ’’かつて子供だった大人たち’’ を憂い、サン=テグジュペリは、’’象を飲み込んだウワバミの絵’’ や ’’一日に日の入りを43回も眺めた’’ 様子、’’夕方には覆いガラスを被せてあげないといけない花’’ など沢山のエピソードを登場させ、ひとりひとりが子供だった頃の自分と対話する機会を促してくれている気がする。

 

お転婆娘たちの、’’今’’ を全力で遊ぶ姿のなんと眩しいこと!

本来の乗り方などどこへやら、’’今、この瞬間’’ を、好きなように最大限に楽しむべく、自分の持つパワーをフル作動させる。

 

魂から湧き出るピュアな発想は、大人になったからといって無理やり封じ込めなければいけないものなんかではない。

我々はひとりの例外もなく、年齢による肉体の変化と向き合わねばならないが、精神は、好奇心は、本来の自分のままでいい。

 

... けれど、そのことを分かっている大人は、なかなかいない。

 

le 25 Septembre 2023

パリは、年間を通して観光客で賑わう街のひとつだが、中でも観光シーズンたけなわの夏の数ヶ月、様々な姿形の観光船がセーヌを賑わわせる。

 

この、モダンなデザインでもあり、見方によっては半世紀ほど前の、どこかレトロな電化製品を思わせる雰囲気の船が、来年のオリンピックに向けて大工事中のグランパレを背に、今日もたくさんの観光客を乗せて軽やかに川面(かわも)を滑っていく。

 

何十年も昔、パリに来たばかりの頃、おのぼりさんよろしくセーヌの観光船に乗った記憶があるが、その後といえば、日本からの知人の案内で乗ったのが、やはり数十年も前のことだ。

 

ルーヴルやオルセー美術館、ノートルダム寺院やコンシェルジュリー、エッフェル塔など、多くの歴史的建造物の川からの眺めは、地上で見るのとは当然ながら違ってくる。

 

日常的に、見ているようで案外よく見ていない、ということが、思った以上に頻繁に起こっているかもしれない、とふと思う。

見る角度が異なれば見え方も異なり、なかなか ’’全てを見たことにはならない’’ のに、自分ではしっかり見ているつもりでいるから、それに気づかず過ごしてしまうことが多いはず。

そもそも、全てを見ることなど出来ないのかもしれないのだ。

 

どこかでそれを自覚しながら、日々を過ごせたらいいなと思う。

その方がきっと、人や物事、あらゆるものに、優しい気持ちで寄り添える気がするから。

 

le 22 Septembre 2023

まだ年齢的にはかなり小さいこの少女が、早くも大人の女性の色気のようなものを潜在的に身につけていることに驚く。

けれどそれ以上に、この少女が、半世紀ほど前の古いフランス映画に出てきそうな雰囲気を放っていることが印象的だった。

 

そういえば、実家にある古いアルバムに、会ったこともない遠いご先祖様たちの写真を見つけては、「今の人たちとずいぶん顔つきが違うなぁ」と子供心に思ったものだ。

祖父母や両親たちの若かりし頃の、一緒に写っている人たちの顔つき / 顔立ち、昔の日本映画の俳優さんにも同じことを感じる。

決して髪型や服装に引きずられた印象なんかではない。

お化粧でもなく、顔つきそのものが時代ごとに微妙に違うのだ。

 

身体つきなら、シンプルに「食べ物」や「生活習慣」が関係していそうだと思いつくが、顔つきそのもの、もっと言えば、全身から漂ってくる雰囲気が、時代によってかなり違うように思う。

 

日常をとりまく環境なのか、風習や習慣からくるのか。

時代ごとの文化そのものも、当然大きく関係しているだろう。

 

21世紀の今、AI 型ロボットや、見分けがつかないほどソックリなゴムマスクの開発に余念がない、ちょっとおかしな時代だ。

 

百年後、二百年後、どんな雰囲気の、どんな顔つきの人間たちが、どんな生活を営んでいるのだろう。

その頃の地球は、本来の豊かさをどの程度保てているだろうか。

 

le 21 Septembre 2023

旧約聖書『創世記』に記される大洪水にまつわるノアの方舟のくだりで、洪水の水が退いたかどうかを確かめるために鳩を放ち、オリーヴの枝を咥(くわ)えて戻ってきたことでそれを知った、というエピソードから ’’鳩は平和の象徴’’ とキリスト教信者の間では信じられてきた。

それを世界中に浸透させるきっかけを作ったのは、今年没後50年を迎えたパブロ・ピカソ Pablo Picasso なのだそう。

 

1949年4月、第1回世界平和擁護大会がパリで開催され、そのポスターにピカソの描いた白い鳩が使用された。

’’使用された’’ というのには訳がある。

ピカソは、この大会のためのポスターデザインを依頼されていたにもかかわらず、こともあろうにすっかり忘れていたらしい。

期日ギリギリに、共和党員の詩人、小説家でもあるルイ・アラゴン Louis Aragon が、ピカソのアトリエで見た鳩の絵のことを思い出して大慌てでアトリエに駆け込み、まだそこにあった白い鳩の絵を持って印刷所に走った、という逸話が残っている。

 

それは『鳩』というタイトルの1949年1月に制作されたモノクロのリトグラフで、モデルになったのは、ピカソの友人である画家アンリ・マチス Henri Matisse から贈られたミラノ鳩。

大の鳩好きのピカソのためにマチスが贈ったのだろう。

まさかそれが、後の時代にまで ’’平和の象徴’’ と語られ続けるきっかけになろうとは思いもしなかっただろうけれど。

 

le 18 Septembre 2023

とあるパン屋さんの店先。

風車で粉を挽いていた時代に思いを馳せてみる。

村人が、今日は風があるなと思うと小麦の袋をかついで風車小屋にやってくる。風のない日は別の日を待つ。 --- そんなふうに、風の力を借りながらうまく貯蔵していくものだったらしい。

 

人口も消費量も格段に異なる21世紀にそんな悠長なことは言っていられないのだろうが、現代のように電動で高速製粉するよりも、風車による低速製粉したものの方がはるかに美味である、という研究文もあり、さもありなんと思う。

 

ともあれ、’’自然界の力を有り難く使わせていただく’’ という在り方、生き方に、本能的な心地よさを感じるのは私だけだろうか。

 

この地球という星は本来とても豊かな星で、その豊かさが絶妙なバランスで成り立ち、うまく循環するように出来ているという。

 

そんなにも有り難いところに住まわせていただいていることを、いつからニンゲンは忘れてしまったのだろう。

見渡してみると、動物さん、植物さん、鉱物も生物も、つまりニンゲン以外の存在は自然界とちゃんと共存しながら生きている。

 

空も、海も、大地も、元来とても豊かな状態のものを、わざわざ余計な手を加えては汚し、破壊しているのはニンゲンだけだ。

 

世界中の気象を操作し、種を操作し、いったいどこへ向かおうとしているのか、ニンゲンどもよ・・・

 

le 15 Septembre 2023

同居する祖父母が数十人の団体旅行でフランス観光をしたのは、数えてみると彼らが還暦をとうに過ぎた年齢だったことになる。

 

海の向こうの遠い国のことなどなかなか知る術もなかった時代。

既に ’’西洋音楽’’ を専門に勉強し始めていた私は、祖父母が持ち帰った美術館や ’’リド’’ のパンフレットに目を輝かせながらお土産話をせがんだ、その時の心境を昨日のことのように憶えている。

 

私へのお土産が「フランス人形」だったこともよく憶えている。

正直、あの年齢の私にとっては飛び上がるほど嬉しい物ではなかったのだが、昭和の当時、明治生まれの祖父母が、孫娘への異国土産にと「フランス人形」を選択した心理、その背景にあるものを、漠然とながら理解できる年齢には達していた。

 

童謡『青い眼の人形』の登場が1921年(大正10年)。

祖父母たち世代が物資不足の困難な時代を生きた後、見たこともないものがものすごい勢いで日本に入ってくるようになる。

’’舶来品’’ という言葉は、「外国製の上等な物」「滅多に手に入らない有り難い物」という意味合いを含む特別な響きがあった。

今からは考えられないほど、高度成長期の日本では誰もが  ’’舶来品’’ に、それこそ目の色を変えていた時代だったように思う。

 

「フランス人形」を見ると、懐かしい祖父母のこと、あの時代、そして遥か海の彼方へ思いを馳せていた頃の...  大人になっていくことを少し持て余していた頃の...  あの頃の私自身を思い出す。

 

le 11 Septembre 2023

情報の時代となった今、すぐ手の届くところに、ありとあらゆる情報が転がっている状態を誰しも当たり前だと思っている。

 

手軽に入手できることからの気軽に信じてしまう安直さや、多くの人が評価 / 同調しているというだけで何の疑いもなく鵜呑みにする傾向に、危機感を抱いているのは私だけだろうか。

 

加齢を防ぐ食材はこれこれです、とあれば翌日にはスーパーの棚が空になり、見ず知らずの人々の、あるいは操作されているかもしれない「いいね!」の数にまんまと煽(あお)られる。

 

断捨離という言葉が尤(もっと)もらしく流行れば、誰も彼もが「物を捨てる行為こそ精神性の高い者のとる行動だ」と傲慢な心得違いをし、本来の意味も理解せぬままその行動へと暴走する。

 

我々は、異なる肉体と、それ以上に異なる精神を持っている上に、育った環境、生きている環境も違えば、究極のところ「生き様」によって、各々が必要なものは大きく変わってきて当然だ。

 

時間の経過に従って、日差しの照らす場所が少しずつ移動していくように、何事も、一箇所にとどまり続けることはない。

 

すべてが移ろいゆく中で、今の自分にしか分かり得ない今の自分に必要なものを、今の自分がしっかり取捨選択していく。

 

その為には、山ほどある情報の中から、自分にとっての大切なものを見極める能力、そここそが問われるのだと思う。

 

le 10 Septembre 2023

この先一週間の予定、来月再来月の予定や段取りを考えるその同じ脳で、数時間後の明日のこと、逆にもっと長期的な、しかも複数の事柄を抱えながら同時に ’’今’’ を生きるなんて、人間はなかなかすごいことをやっているのだなぁと感心してしまう。

 

しかも小さい子供でない限り、自分ひとりだけでなく、家族に関するあれこれにも対応しながら、日々の仕事や生活の諸々に向き合っているのは、実は相当すごいことだと思う。

 

なんとなく心がざわざわする日、体調がどうも思わしくない日、それはもしかしたら、「ちょっとスピードを落とそうよ」「少し休んでもいいんだよ」というサインかもしれない。

 

体力氣力があるとつい頑張ってしまうのが私たちだから、身体さんや心さんがうまく調整してくれているのではないだろうか。

 

ただでさえ暑かった夏の疲れが溜まってきているこの時期。

そんなサインを受け取ったら、自分のタイミングでいったん OFF にしてみることを自分自身に許可しよう。

 

澄んだ空気の中に身を置いて、身体も心も手ぶらの状態になり、ふーっと深呼吸しながら周りをゆったり見渡してみるんだ。

 

客観的に自分を観察できたらきっと自分を褒めたくなってくる。

’’すべてはうまくいっている’’、そのことも、しっかり思い出せるはずだから。

 

le 8 Septembre 2023

夏らしいボーダー柄のポロシャツ。

足元はマリンブルーの若々しいデッキシューズ。

俳優さんだったかただろうか、若かりし頃はさぞ二枚目のムッシュだったに違いない。

...などと過去形で書くのが失礼なほど、今も尚、全身から溢れる ‘’二枚目ぶり’’ が健在でいらっしゃる。

柔らかい日差しの中、奥様とお散歩されるお姿から、幸せのお裾分けをいただけたような気持ちになった。

 

伴侶に限らず、人は、一生の間に沢山の人との御縁をいただく。

ある一時期とても濃い関係を結ぶ友人、恋人、そして師弟関係にもそういうものがある。

意図せずとも、人生の節目節目で、必ず何度も御縁が巡ってくる人もいる。

途切れたと思っていたのに水面下ではずっとつながっていて、実は一度も切れたことのない御縁に感謝が溢れる時もある。

 

ほんの少し何かがズレていたら一生出会うことなどなかった、そういう御縁もあることを思えば、何かがズレていたかどうかに関わらず、一生出会うことなどない人が大勢いるのも事実だ。

 

今、御縁ある人と、かけがえのない大切な人と、お互いに肉体を持って生きている間に沢山のことを共有しあおう。

積極的に共振し、共感しあえ、共鳴しあえる時を持とう。

 

お互いが、この世で肉体というものを持てている時間は、限りあるものなのだ、誰ひとり例外などなく。

 

le 6 Septembre 2023

私たちは本能的に「手」に様々な能力があることを知っている。

まだ寝返りも打てない赤子が何にでも触ろうとするのは、興味と共に、己の周囲の安全性を的確に知ろうとする本能からだろう。

 

大人になっても私たちは、視覚や聴覚、嗅覚を使うのと同じように、日常的に手を使って物事を判断しようとする。

八百屋で野菜を選ぶ時も、新しい服、靴を選ぶ時だってそうだ。

 

また私たちは、目には見えなくとも、手に不思議なエネルギーが宿っていることも潜在的に知っている。

無意識に身体の痛む箇所に手を当てている経験は誰にでもあり、実際「手当て」という言葉があることでもよく知られている。

 

何かや、誰かを慈しむ時に、優しく手で撫でることもする。

大切な人が哀しんでいたら、思わず寄り添って背中を摩るだろうし、場合によっては相手の手を自分の両手で包み込むだろう。

 

掌(てのひら)から限りないパワー / エネルギーが溢れていることは、東洋医学の整体治療の例をみても明らかだ。

 

『胸に手を当てて考える』という言葉があるが、実際にそのポーズで考え事をする人はどれくらいいるだろうか。

おそらく「胸」も「手」も、小細工のきかない、嘘偽りのないものだけを発する部位だからこそ、こういう表現をするのだろう。

 

見つめ合うより、語り合うより、真に深く相手と繋がりたいと思う、その本能の表れが「手をつなぐ」動作をとらせるように。

 

le 5 Septembre 2023

明治生まれの私の祖父母の時代には、祝言を挙げる当日になって、初めて自分の夫となる / 妻となる人と顔を合わせることも珍しいことではなかったそうだ。

 

または、幼少期に、両親たち、つまり両家の間で約束が交わされた ’’許婚(いいなずけ)’’ 同士が、適齢期を迎えて夫婦(めおと)になるというケースも少なくなかったようだし、昭和になると、年齢や様々な条件を照らし合わせて ’’お見合い’’ によって二人を結びつける ’’仲人(なこうど)’’ が大いに活躍した時代だった。

 

恋愛の場合、’’あの時たまたまあの場所に行ったからこそ、あのタイミングで出会えた’’ というようなことも多くの人が体験しているだろう、それがたとえ人を介したものだとしても。

 

どんな形で出会うにせよ、人生の伴侶は、自分の意思や思惑を越えたところからもたらされるもののような気がする。

 

これからの道のりが、決して楽しいことばかりでなくとも、互いへの信頼を失わず、支え合い、励まし合える相手なのかどうか。

手をとりあい、互いに微笑みを交わしながら、続く道を一緒に歩いていける相手なのかどうか。

 

若い頃ならロマンチックな考えに酔ったかもしれないが、思うに、ごく一部のカップルを除いて、究極的な答えは「わからない」、これが一番核心に近いのではないかという気がする。

 

その御縁を自分がどう捉えるか、結局はそこなのだろうから。

 

le 2 Septembre 2023

インターネットが出始めた当初、接続には時間と共に料金が加算されていくシステムで、それなりの敷居の高さがあった。

 

その後、誰もが携帯電話を持ち、地球上のどこにいても、余程のことがない限り気軽に使える世界になって何年経つだろう。

 

TV 電話が完全に SF の中の夢物語でしかなかった時代を経験していると、今でもふと SF 世界にワープしたような錯覚を抱く時があるし、郵便と電話、せいぜい FAX だった連絡手段が、電子メールに始まり、次から次へと新しいツールが登場する昨今。

芸能人や政治家でなくとも、文字通り誰でも自己発信の場を持て、会ったこともない者同士が自由にコミュニティを作り、ボタンひとつで際限なくつながることが可能な世の中となった。

 

ただ、たとえ人間が知恵を振り絞り、その類いの便利さをとことんまで発展させたとしても、絶対に届かない領域がある。

 

そしてそこにこそ、本来の人と人とのつながりの ’’本質’’ に触れられるものが在るのだと思う。

 

だから私たちは、手と手をつなぐのだろう。

 

その手段でしか伝わらない、得られない、とても大切なものがあるということを  ’’本能’’ が憶えている限り、私たちはまだ生身の ’’人間’’ でいられる気がする。

 

le 1 Septembre 2023