過去のつぶやき

2022(1月〜6月)

太陽を象徴とした生命の循環を表す十干。

対して、月を象徴とした生命の循環を表す十二支。

 

2022年、今年の干支は『壬寅(みずのえ・とら)』。

 

十干の九つ目「壬(じん / みずのえ)」の文字は「妊」に通じ、’’はらむ’’、’’生まれる’’ という意味をもつ。

厳冬を耐えて内に蓄えた陽気で次の礎となること。

つまり、土の下で芽が膨らみ、土が盛り上がっていく様子や、生き物が子孫を残して命をつないでいくことを表す。

 

十二支の「寅」の方は「演」が由来とされ「人の前に立つ」、更に ’’えん’’ と同じ読みの「延」から「伸ばす / 成長する」という意味であったり、「螾」に通じ、ミミズが豊穣を助ける土の中で芽吹きが始まる様子に通ずるらしい。

 

曰く、「新しく立ち上がる」「生まれたものが成長する」。

「陽気を孕み、春の胎動を助く」ともある。

 

そこへもってきて 36年ぶりの『五黄の寅』が重なっている今年。

息を潜めてじっと蓄えてきたものがパワフルに動きだす、そんな、大きなエネルギーにあふれた年のようだ。

 

地球規模での大変動から丸二年。

暦の巡りや星の巡りと併せてずっと流れを観察していると、『チャンスはピンチの顔をしてやってくる』ということがいよいよ信憑性を帯びてきた。

 

鎧(よろい)だの枷(かせ)だの、外から付けたものなど全部とっぱらって「生命体」本来の力で生きる時がやってきたのだ!

 

なんと喜ばしき、輝かしき時代の幕開けだろう!

 

le 5 Janvier 2022


生きていると、知らず知らずのうちにモノが増えてくる。

普段なかなか気づかないけれど、ぐるっと部屋を見渡してみるとよくわかる、不要なモノのなんと多いことかと。

 

実は、’’見えないモノ’’ も思った以上に増えてしまう。

厄介なことに、目に見えない分とことん気づき難いときている。

 

だから、たまには自分自身の大掃除をした方がいい。

 

お気に入りの場所へ出かけ、ただただそこの風にふかれ、音を味わい、エネルギーを受け取る。

身体じゅうの窓という窓を開けて空気を総入れ替えするのだ。

 

その場所に自分を溶け込ませることだけに意識を向け、大いなるものに自分の全てを委ね尽くすのだ。

 

そのうち、思いもかけないヒントがやってくる。

びっくりするようなサインがもたらされる。

 

それは、天から降ってくるもの、であると同時に己の深い深いところからキラキラ輝きながら湧き上がってくるもの。

 

新鮮な ’’氣’’ で満たされたところに、自分にしか分からないカタチで確実にやってくるもの。

 

le 10 Janvier 2022


言われるがままに鼻と口を覆うだけでは飽き足らず、両耳にはイヤホンを突っ込み、前髪で目まで覆い隠し、歩いていてさえ手元の器械に目線を落とし・・・

 

あぁ、一体キミたちは何処へゆこうとしているのか。

世界は自分の外側に広がっているというのに。

 

思わぬ時に思いがけないものが与えられることで、人生は豊かさと彩りを増してゆくというのに。

 

みすみすそれを受け取り損ねる状態に、なぜ好んで自分を置こうとするのか。

 

開いていてこそ自分の内側に深く潜ってゆける、その素晴らしい感触を知らぬまま月日を重ねていることを、誰も指摘してはくれないのだよ。

 

こんなにも豊かな星に生かされていることを、学校も社会も教えてはくれないのだよ。

 

試しに一度、前髪をしっかり搔き上げ、顔を上げ、自分の意思で、自分の目で、周りを見渡してごらんよ。

バーチャルの世界には存在しない、どれほど沢山のものが与えられているかにびっくりするから。

 

そうしてこそ初めて、リアルな一歩を踏み出すための確かなきっかけを掴(つか)めるから。

 

le 13 Janvier 2022


今、ここに在るという『奇跡』。

 

この時代、この国、この土地、このご先祖、この両親のもと、この環境に生まれた『与えられた生』。

 

『使命』を全うする為に授かった沢山の『能力』。

 

それらを機能させる為になくてはならない『健全な心身』。

 

それらを高める為に、ありとあらゆる形で与えていただく全ての『ご縁』。

 

生まれてから、否、生まれる前から、どれほど多くのものが与えられているのかと挙げていけば気が遠くなりそうだ。

 

受け取れきれないくらい有り難く降り注がれるそれらは、実は全てが『奇跡』なのだと思う。

 

どれもが、間違いなく大宇宙からの、この上ない『贈り物』。

どれほどの言葉を尽くしても表しきれない『感謝』の対象だ。

 

はちきれそうなほどの豊かさに包まれて再び生まれなおす時。

暦の還(かえ)り。

 

新たなる扉を開くことのこの上ない歓びよ!

 

le 16 Janvier 2022


何が好きで、何が心地良くて、何を見ていたいのか。

 

何に触れていたくて、何に包まれていたいのか。

 

何をしていたいのか。

 

「’’自分’’ であること」大前提で、どうありたいのか。

 

これらのすべてにとことん向き合おう。

 

知らず知らずのうちにへばりついた嫌になるほどの枷(かせ)をとっぱらい、素っ裸の自分で己の中心に問うのだ。

 

太古から、わたしたちが本能で知っていた大切なこと。

誰もが皆、生まれ落ちて暫くはこれを軸として生きていた。

 

だから必ず思い出せる。

 

探し出し、錆(さび)や埃(ほこり)を落とし、丁寧に磨き、ゆっくりスイッチを入れてみよう。

 

何が嫌で、何が心地悪く、何をしたくないかもはっきり分かる。

 

人がどうであれ、どう思われ何を言われようが一切関係ない。

 

一心に、「自分」という存在の重み、その価値を想起するのだ。

 

le 20 Janvier 2022


透明度の高い冬の空気の中、太陽の光を浴びてくっきりと美しい色合いを見せてくれるヴィオラ。

 

スミレ科スミレ属のラテン語名。

花言葉は『誠実』『信頼』。

 

パンジーとの区別はかなり曖昧なんだそうだが、ざっくりと、パンジーより小ぶりなものをヴィオラと称しているようだ。

 

苗は冬の始め頃に出回るのだが、どの色を選ぶかで迷いに迷ってしまうほど数え切れないほどの色の種類がある。

 

同じ色の苗をいくつも植えたり、同系色でまとめて植えるのも素敵だし、何色もの異なる色を寄せ植えすると、まるで、様々な個性の子たちがワイワイはしゃいでいる小学校のクラスのようだなぁと思ったりする。

 

細い茎の可憐な花はいかにも繊細そうに見えるのだが、真冬の野外、雪が散らつく中でさえ驚くほど懸命に咲いていて、その姿を見るといつも「健気(けなげ)」という言葉が頭に浮かぶ。

 

にこやかに、明るく微笑んでいる彼女たちに勇気づけられる。

 

le 26 Janvier 2022


誰でも、夢を実現化させる始まりのその時には、これ以上ない誠実さで向き合い、損得も何も考えず、ただ純粋な気持ちで動きだす。

 

むしろ、人様に喜んでいただきたくて、その喜ぶ顔が見たい一心で、胸の高鳴りに導かれるままにその事を始動させる。

 

なのにどうしてなんだろう。

ちょっと軌道にのってくると、どこからともなく邪(よこしま)な発想が湧いてきて、ふらふらとそっちに引っ張られてゆく。

 

もっと手広く、更に効率よく、コストを抑えて実入りを多く etc...

 

そこが地獄への入り口だということに何故気づかないのか。

 

本当に美味しいものなら、本当に素晴らしいものなら、そう簡単に規模を拡大することなど出来るはずがないと、ちょっと考えればわかるだろうに。

 

そのクォリティを保つ為にどれだけのものがどれだけ必要か、せっかく掴んだ貴重なそれを、ほとんどの人が驚くほどすぐに忘れてしまう。

 

志した時の輝かんばかりの構想、日夜奮闘を続けて「これだ!」という形を見つけた時の感動と手応え。

その一番大切な部分をそんなに簡単に忘れてはダメだ。

 

烏合(うごう)の衆を騙せはしても、内側から始まった腐敗はみるみる加速し、己を喰い尽くされてしまうことすら認識できないだろう、哀れにも魂を消されてしまうのだからな...。

 

le 29 Janvier 2022


ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。

 

『方丈記』の冒頭部分はとても印象的に始まる。

 

この書には、都(もちろん現在の京都をさす)を襲った火災や大地震を始め、旱魃(かんばつ)、大風、洪水が続いて作物が実らず、諸物価が高騰した挙句、翌年には疫病が人々を襲うなか大飢饉が二年も続いた、などの災厄が記されている。

 

様々な苦難を経験し、’’無常’’ という境地へと辿り着いた鴨長明。

 

京都の下鴨神社の神官を務めていた鴨長継(かものながつぐ)を父として生まれ、幼少期こそ恵まれた環境で過ごしたそうだが、父を早くに亡くした後は難しい人生だったように記されている。

 

歌人として、また琴や琵琶の名手としても名を馳せた鴨長明によるこの随筆は、まるで美しいメロディーが流れるかのような、非常に音楽的な文章で綴られているように感じる。

彼の達した境地がそうさせるのだろうか。

 

人生もまた、流れてゆくという意味では音楽のようであり、河のようでもあり・・・

変わらないように見えて全ては変化してゆく ’’無常観’’ は、『方丈記』の書かれた1212年も、2022年の今も、逆説的だが、変わらずずっと在るということなのだろう。

 

le 3 Février 2022


他人の頭の中にも、心の中にも、どんなに頑張ったって入っていけるものじゃない。

 

そもそも、自分だってそんなことなどされたくないよね。

 

力づくで無理やりこじ開けるんじゃなく、あの手この手で詮索するんでもなく、相手の立場に立って思いを馳せてみれば自然と見えてくる。

 

もし自分だったら... と仮定してみれば、すんなり分かりやすかったりもする。

 

きっとあの人は、今日もお気に入りの公園のあのベンチで、愛用のブックカバーをかけた本を読みながら日向ぼっこをしているだろう。

あそこに行けば、きっといつものあの笑顔に会えるだろう。

 

お互い、理屈など超えたところで絶対的な信頼を持てるかどうか。

 

紡いでゆける関係は思考など越えたところに存在する。

 

どれだけ離れていても、ずっと会っていなくても、時間も距離も超越して繋がりあえる関係。

 

魂のヴァイヴレーションが、実は答えのすべてだ。

 

le 8 Février 2022


数百年続いたこれまでとは大きく価値観の異なる『風の時代』が始まり、様々なことが前時代とは違ってきたことに人々が少しずつ、少しずつ気づき始めた。

 

そんな今、まさに貴方は時代の申し子として君臨したのだ。

 

神様に選ばれ、背負う大きな使命のための、必要なもの全てを与えられし人よ。

 

なんと眩しく、唯一無二の輝きを放つ孤高の天才。

 

成功が最終地点とは限らない。

完璧が美しいとは限らない。

富や地位に価値のすべてがあるのではない。

 

氷上の舞い人よ。

 

前人未到の境地へと、時代を切り拓いていく苦しみを一身に背負いながら、あらゆるものを超えてゆく貴方の信念、その生き様。

 

血を吐き身を削り、それでもなお歩みを止めない貴方には、間違いなく神様がとびっきりのご褒美をお与えになるだろう。

 

きっと貴方の、はるかに想像を越えたものとして。

 

le 10 Février 2022


誤解を恐れずに言うけれど。

 

私たちは、成長の過程で余計なものをいっぱいくっつけられる。

’’集団の中で生きていく為’’ という最もらしい名目で、たくさんの「禁止事項」ばかりを叩き込まれる。

 

けれども、根幹の部分に関していえば、人生をしっかり幸せに生きるための基本中の基本はいたってシンプル。

 

 『自分のことは自分で決めていい』。

 

もちろん、そう出来るための「自分」を形成する力をつけてこそという話だが、でも、先ず大元に ’’それ’’ があることを実は教えてもらわぬまま大人になる。

 

「私はこうします。その為に必要なものを授けて下さい。」

そうオーダーしていいんだ、ということにそろそろ気づこう!

 

オーダーするところまでは出来ても、「でも私にはムリかもしれない...」「その資格はあるんだろうか...」「人にどう思われるだろう...」とウジウジ捏ねくり回す人も少なくはない。

それがオーダーを取り消す行為であるとも知らずに!!

 

「もしオーダーした物が届かなかったら...」などと余計なことを考える時間もそのエネルギーも、全て ’’いま’’ に向けよう!

必ず届くことを楽しみに、’’いま’’ の自分を存分に生きよう!

 

この世は、実はものすごくシンプルに出来ているんだ。

 

le 15 Février 2022


見慣れた風景の中に、季節ごと、まったく別の風が吹く。

 

たとえ同じ季節でも、去年と今年はまた違う。

 

いや、一日として同じ日なんてなく、そこに住むひとりひとりの日常も一日として同じ日などない。

 

毎日が繰り返しだなんて大きな錯覚だ。

 

生きているんだもの、違うに決まってる。

 

一枚のコインの裏表のような「生」と「死」という一対が、今日もそこここに ’’日常’’ として存在する。

万人が等しく経験するものとして。

 

だからこそ尊いのだ、すべてが。

 

なにげない何もかもが ’’その時’’ にしか存在しないからこそ。

 

le 19 Février 2022


思いもよらない攻撃的な言葉を浴びた時、ついその言葉じたいに焦点を合わせてしまいがちだ。

強い ’’負の感情’’ を向けられた時、人は一瞬にしてそれに飲み込まれてしまいそうになるものだからだ。

 

でも、一歩も二歩も下がって、まずはゆっくり深呼吸。

 

その人が、その言葉をなぜ発せざるをえなかったのか、その部分にこそ焦点を合わせてみよう。

 

見えてくる。

聞こえてくる。

その人の哀しみが。

焦りや苛立ちが。

 

更に、その人が「恐れ」の真っ只中にいることが分かってくる。

 

今、苦しみの中でもがいているんだと分かる。

 

そうか。

さぞ辛かろう。

 

それが分かれば、自分が受け取って嫌な思いをしたものを、そのまま相手に返すようなことなどしなくて済む。

 

たとえ冷たい風の吹く日でも、陽のあたるベンチに並んで座ることはできる、そのことを忘れないでいよう。

 

le 24 Février  2022


「今」というこの瞬間に、あらゆる場所であらゆる事柄が起きている、その動かし難い ’’事実’’ を普段はつい忘れがちだ。

だからといって、生起する数多(あまた)の事象、その全てに心を砕けるはずはなく、それは傲慢というものだ。

 

本当に大切なことは、’’自分’’ が「今」いる場所、「今」見ているもの、「今」向きあえる事に全感覚を集中させ、持てる全てを注ぎ、味わい、感じ尽くすことなのだ。

 

明日でもいいや、また次の機会があるだろう、と先送りの仮予約をしたようなつもりでいても、想定した「先」に「今」在るものはもう二度と存在しない、これもまた ’’現実’’ だからだ。

 

幸せの道に向かわせてくれる全ての事柄は、いくつもの偶然が重なったかのような顔をして必然として立ち現れる。

自分の意思や思惑とは関係なく、天から降ってくる / 与えらえるものなんだと思う。

 

だからこそしっかり受け取り、理屈を越えた剥き出しの感覚で向き合うほどに、その対象物は神がかった眩(まばゆ)い光を放ち、ものすごい熱量でこちらの魂の奥の奥を揺さぶってくる。

 

瞬間瞬間に消えゆく音が、まるで天空に昇ってゆく宝石の吐息のように、儚(はかな)くも永遠に魂の記憶に刻まれる時間の、あぁ、雪積もる地でのなんと得難い体験だろう。

 

le 27 Février 2022


行き先を決める、その選択を自分ひとりでやる。

 

そういうことにもっともっと慣れていった方がよい。

 

いくら信頼できる人がいたとしても、たとえ共に歩んでいる人がいたとしても、究極のところ、自分の人生は自分でしか責任を負えないものだということを忘れてはいけない。

 

何がどうなろうと、誰かになんとかしてもらえるものではないのだから。

 

だから、どんなことも ’’自分で’’ 判断する力をつけていこう。

 

助手席などない、剝き身で走る自分の姿をイメージして。

 

le 2 Mars 2022


家の中ではカレンダーを一枚めくっただけなのに、一歩外に出てみると、波動の眩しさに一瞬たじろぐほど自然界は大きく変化するこの季節。 

 

日差しが饒舌になり、空も別の表情を見せ始め、木々が内側から蠢(うごめ)き出し...  こんなふうにまた季節は巡る。

 

人間界では様々なことが巻き起こり、相変わらず近視眼的な茶番劇が繰り広げられていようとも、自然界は何も動じることなく彼ら本来の営みを全うしている。

 

肅々と、同時に堂々と、良いエネルギーを巡らせている。

 

その在り方に大きなヒントがあるような気がする。

 

le 5 Mars 2022


冬のあいだ静かだった植物さんたちも、春の兆しにはとても敏感なようで、葉っぱたちの囁(ささや)き声が日ごとに音量を増してくるような気がする。

 

実際、若い葉っぱたちが薄緑色の小さな身体を捩(よじ)り、目には見えないほどのスピードで大きくなろうとしている様子は、人間の赤ちゃんがベビーベッドにひとりでいる時も覚えたての言葉を発しているのに似ている。

 

よ〜く耳を澄ましてみると、あちこちで色んな植物の会話が、それにつられた鳥たちの会話が、大地の会話が聞こえてくる。

 

それやこれやの春先の素敵な音が、私たちの心を春の歓びに誘うのかもしれない。

 

le 10 Mars 2022


どんなものでも、どんなことでも、’’必ずいくつかの選択肢から選ばなくてはならない’’ なんてことはない。

 

自分の選びたいものがなければ無理して選ばなくていいのだし、なければ自分で作ってしまえばいい。

 

そもそも、人間はひとりひとり全然違うんだから、人が用意したものの中に自分の納得できるものがなくて当然だ。

 

「まぁ、このへんでガマンしとくか」

「自分はこれ位のものでちょうどいいんだろうな...」

 

それは、「皆んながそうしてるから自分もそうしておこう」につながっていく非常に危険な思考なのだ。

流されぬよう、自分の手綱は自分でしっかり握っていよう!

 

le 15 Mars 2022


思いっきり背伸びしながら春の日差しに手を伸ばす。

土の下の昨年の球根が自分の力で株を増やし、「春が来た!春が来た!」と賑やかに顔を出し、花を咲かせてゆくその神秘。

 

だからといって彼らは得意気になっている訳でもなく、ただただ彼らにとってごく普通の、当然の状態で生きているだけなのだ。

 

植物さん、動物さん、この地球上に生かされているどの生き物にも、授かった命を生ききるための強い本能が備わっている。

 

私たち人間も間違いなくそのはずであることを、頭でっかちになってしまうことで忘れてしまってはいまいか?

 

「あれやこれやと外から補強しないと健康ではいられない」などととんでもない勘違いをさせられてはいないだろうか?

 

長い長い人類の歴史の中、幾度もの淘汰が繰り返され命のバトンが受け継がれてきた今、ここに生きている私たちは相当に強い遺伝子を持っている生き物であるのは間違いないのに。

 

『自己免疫力』や『自己治癒力』という何にも勝る素晴らしい力が誰にもきちんと備わっている、そのことを思い出そう!

 

その能力を十分に引き出せるよう日々の生活を重ねることこそが、そもそも健全な生き方なんだと本能では知っているはず。

 

今こそそれを、細胞レヴェルでしっかり思い出そうじゃないか!

 

le 19 Mars 2022


一日がゆっくり終わっていこうとする時間帯。

今日という日を名残(なごり)惜しみつつ、だからといってそれに縋(すが)るのではなく、余韻を楽しみながら夜への序章を味わう、そんなひととき。

 

ひとつひとつの行動に余裕を持ち、楽しみながらそれを行えただろうか。

思いがけない恵みを喜んで受け取れただろうか。

 

小さなことに目くじらを立てたりはしなかっただろうか。

何気ないことに感謝し、笑顔をたくさん放てただろうか。

 

夕方の、こんな柔らかい光のように、今日も思いやりを持って人様に接することができただろうか。

 

自分の心の状態を客観的に観察すれば色々なことがよく分かる。

「今日もまぁまぁいいセンいったよな」と温かいものが胸に広がってくれば、素敵な一日を過ごせたと判断していいだろう。

 

心にささった一本の棘が今もズキズキしてくるようなら、自分のとった行動を思い返してみた方がよさそうだ。

 

丁寧に向き合えば、夕陽が優しく寄り添ってくれ、どこまでも静かに聞いてくれるだろう。

もしかしたら高みから、澄んだ鐘の音とともに様々なヒントが降ってくるかもしれない。

 

le 24 Mars 2022


人は誰でも、自分の見たいものを見たいようにしか見ない。

耳に入れるものにしても同じで、とりたい情報しかとらない。

それはもう、面白いほど、笑ってしまうほど見事にそうなのだ。

 

なのに、さも自分はまんべんなくものを見、聞き、情報を得ているつもりになるのだろう?

 

視力でものを見ているのではない。

意識を向けてこそ、初めてそれが見えてくる。

理解してこそ初めて、その情報を得たことになる。

 

その上で自分の頭で吟味し、感覚を使って判断し、やっとその情報を役立てることができる。

あるいは、自分には不要だと判断をくだすことができるのだ。

 

「力を抜く」とは「頭も感覚も働かせずボ〜ッとする」ことなんかじゃない。

余計なものを剥ぎ取り自分自身でスッと立つ。

むしろ真逆の状態だということも、今一度しっかり認識しなおす方がよさそうだ。

 

新年度の幕が開いた初日、珍しくも新月と重なった。

これほど象徴的なことはない。

 

感覚を研ぎ澄まし、新たなる一歩を踏み出すに相応しい時だ。

 

le 1 Avril 2022


ある日突然、それまでとは全く異なる事態となることで、まるで何もかもを奪われたような錯覚に陥るけれど、実際は何ひとつ奪われたものなどなく、失ったものもない。

 

そう気づくには少しばかりの時間が必要かもしれないが、後から「なぁんだ、そういうことだったのか」と笑える経験を一度でもしたことがあるなら、その感触を絶対忘れずにいた方がいい。

 

その「変換の技」みたいなものを、いつでもどんな時でもサッと使えるようになっていた方が、人生、何倍も素敵に過ごせるからだ。

 

歳を重ねるほどに頑なになるなんてただの幻想。

むしろ色んな経験を重ねてきたことで変幻自在でいられるはずなのだ。

単純に考えて、歳月の分だけ引き出しが増え、その中身も確実に増えている。

そうだろう?

 

そのことが自分の中で腑に落ちてさえいれば、どんな状況でも、幾つになってでも、魂の躍動する方向へ道を選んでいけるはず。

 

本来、誰もがそう生きていける。

そのことを知っていよう!

 

ブレーキを踏んでいるのは自分自身に他ならないのだ、ということも!

 

le 6 Avril 2022


背中を押してくれる人は、意外なところにいる意外な人だったりする。

 

我々は自分で自分のことを「よく分かっている」つもりでいるだけで、案外分かっていなかったりするもんだ。

 

例えば、自分の背中を自分で直に見ることは出来ないように。

 

自分が持っているものを客観的に把握してくれる人などいない、とどうして言い切れよう?

 

自分では欠点だと思い込んでいるところが逆に唯一無二の魅力だったりするのに、それを知らないのはとても残念だ。

 

幼少期より身近な存在から言われ続けてきた事が重苦しい呪縛となって何十年間もあなたを苦しめてきた...  なんてことは実は珍しい話じゃなく、それを、いつ、どの段階で完全に捨て去ることが出来るかで次へ進めるタイミングがつかめる。

 

その時に、意外な人から意外な形で助けてもらえることがある。

 

但し、その存在にあなた自身が気づくことからしか始まらない。

 

これもある意味、『チャンスは前髪しかない』のひとつの形だ。

 

le 10 Avril 2022


どんな時も、大空の下に揺るぎなく胸を張って立つ姿。

口元に笑みを浮かべ、眼(なまこ)をしっかり見開き、両腕は天からの恩恵を躊躇なく受け取るべくしっかりと広げられている。

 

これほどまでに未来への可能性に満ち、信念の滾(たぎ)るポジティヴなエネルギーを放つ存在はなかなか無い。

 

かれこれもう50年以上、事あるごとにその姿を愛でてきた。

モノレールの車窓からも様々な季節に眺めてきたが、直接会いに行くことも厭(いと)わぬようにしている。

 

不思議なことに、一度も見飽きたと感じることがないからだ。

それどころか毎回、この存在から感じとるメッセージは、むしろ彼を知れば知るほど強さが増すことに驚くのだ。

 

そして毎回、必ず立ち去り難く、ぐるぐると何度も彼の周りを歩き、立ち止まっては見上げ、また歩き、別の角度から見上げる...

その繰り返しの中で何度も感嘆の溜息をつく。

 

言葉で表せないものの、存在そのものの放つ途轍(とてつ)もないパワー、それをこれからもキャッチし続けたい。

 

彼に置いていかれぬよう、私もしっかり眼を開いていなければ!

堂々と胸を張り、この大地にしっかりと立っていなければ!

感性を錆びさせず、信じるに値する己でいられるように。

 

le 16 Avril 2022


ほんの小さな一滴が際限なく広がってゆく。

かなりの速度で。なのにとても静かに。

 

波紋。

それ自体を触ることはできない。

でも確実に、その瞬間にそこに在るもの。

 

そういうものはこの世にたくさんある。

むしろ、そういうものの方が多いかもしれない。

 

現に、毎瞬毎瞬、自分の発している ’’周波数’’ が、自分に起きる現実を創造するのだと言われている。

 

人との ’’共振’’ も、言葉や態度を越えた域で、互いの放つ ’’周波数’’ がそれを促しているんだそうだ。

 

だとしたら、頭で考えている以上に、もっと細かいレヴェルで我々は交信できる能力を持っているということになる。

 

良い波紋が広がっていくことをイメージすれば、その先に見えてくるのはどんな世界だろう?

 

誰もがそれぞれの持つ素敵な ’’一滴’’ から始められたら、きっと、立場も思想も越えて笑顔こそが広がってゆくだろうに。

 

le 20 Avril 2022


自分にとっては不自由で、居心地が悪くてしっくりこないことでも、他人も同じとは限らない。

 

案外、その状況を面白がって楽しんでいるのかもしれないし、それどころかそれが好きな場合だってある。

 

意思表示をどんな時も100%しているとは限らないのだから、ちょっとした態度を勝手な解釈で理解したつもりになり、あぁやっぱり自分と同じだ、などと安易に思わない方がいい。

 

人間は本来、個人個人それぞれの価値観を持っている生き物なのだから、同じ現象を見てもどう受け止めるか、どう捉えるか、その上でどういう選択をするのかは千差万別。

 

ある人には悲愴としか思えないことでも、すぐ隣の誰かは全く別の部分を見ていることは実によくあることだからだ。

 

仔犬どうしがじゃれあいながら、どれくらいまでなら相手を噛んでいいのか、どこまでなら怪我をさせず仲良くじゃれあえるのかを集団の中で学びながら育つ。

 

人間だってまったく同じ。

自分以外の全ての人との接触の中で起きる事は、全て ’’学び’’ だ。

 

「『自分以外の存在は自分とはきっと違うんだろう』と思っているぐらいで丁度いい」をベースにしておく方がいい。

 

le 24 Avril 2022


自分の感覚に焦点を合わせ、その日の気分に忠実に従おう。

耳を澄ましてその声を聴くのだ。

 

’’今日’’、’’今’’、自分の本当にやりたいことは何なのか。

自分の魂が歓びで震えたがっているのはどんなことだろう?

 

行きたい場所があればぐずぐずしていないですぐに飛び出そう!

会いたい人がいればすぐ連絡しよう!

 

知りたいことは自分でとことん調べよう。

ずっとやりたかったことを躊躇せず始めよう。

 

そして、やりたくないことは淡々と断る。

納得できないことには、毅然とした態度で「従わない」という選択をしていい。

 

自分軸をしっかり持ち、アンテナの指す方向へ足を進めるのだ。

 

優しいカーブを描く道が目の前にあらわれる。

足元の可愛らしい花々が歓迎の微笑みを向けてくれている。

進む先にはなにやら心躍る場所がありそうじゃないか!

 

内なる声こそが、自分を、一番行きたいところへ連れていってくれるのだ。

 

le 1 Mai 2022


お気に入りのジャケットや靴、腕時計などには、身につけているうちに自分の波動が移っていくものなのだろうなぁ、と思う。

愛用のペンや毎日使うカップにしてもそうだ。

馴染んでいくにつれ、自分の味方でいてくれる気がするのは、誰もが感じたことのある感覚ではないだろうか。

 

同じように、お気に入りの場所をいくつか持っているのも、自分の人生を豊かに紡いでゆくには欠かせないことだと思う。

名もなき浜辺、好きな風景が一望できる山間のちょっとした場所、もしくは家の近くの何の変哲もない小さな公園であっても。

 

そこに身を置くと、心が澄んできて思わず深呼吸がしたくなる。

無意識のうちに身体中の筋肉がほぐれ、開放され、自分が整う。

 

’’なぜか好きな場所’’、’’落ち着く場所’’ を持てていること、そのことじたいを大切に思いたい。

目に見えない「磁場」のパワーは、頭で考える域を超えてものすごく強力で、本人にしか分からないその感覚は、だからこそ本人に大きなエネルギーを与えてくれる。

 

そういうものに出会えたことに感謝し、「すべては当たり前ではない」ということをいつも忘れずにいたい。

’’今’’、’’ここ’’ に在るということの重み、その奇跡を。

 

le 17 Mai 2022


’’聞きたいと思うラジオ番組の周波数にチャンネルを合わせるように、人生において、見聞きし体験することはすべて自分がチャンネルを合わせたものばかりだ’’

その道の賢者たちは、こんな例えで分かりやすく説いてくれる。

 

確かにラジオの例でいうと、聞きたい番組にチャンネルを合わせるからこそそれが聞けるのだし、聞きたくもないものには合わせないのだから自分の現実には入ってこない。

 

この、ものすごく当たり前の事が、実は日常的に起きているということなどにわかには信じられないだろう。

だが、試しにそう意識して過ごしてみると驚くほど納得できる。

但し! 自分が望むもの / 望まないものを、’’魂の芯から意識’’ しない限り、そうはならない。

 

巷に溢れる不安や恐怖心を掻き立てるものに、無意識のうちにチャンネルを合わせてしまってはいまいか?

 

目を覚まそう。

暗澹とした気分になり、不安が湧いてくるようなものには、単にチャンネルを合わせなければよいだけの話なのだ。

 

’’自分自身の望む番組を選び、しっかり周波数を合わせることで、各々が幸せな現実を創造してゆける’’

 

この世の本当の仕組みを使わない手はない!

 

le 21 Mai 2022


この世に生まれてきて経験することに ’’善し悪し’’ はないらしい。

そもそも、我々の魂は色々なことを経験したくてこの世に生まれてくるんだそうだ。

 

もちろん自分が周波数を合わせたものが自分の現実となり、合わせないものは自分の現実にはならないが、この二年余りの出来事は、もしかして地球さんが経験したかった事なのかもしれない。

地球上のすべての人間に、一切の選択肢はなかったのだから。

 

そんな日々も確実に ’’過去’’ となりつつある。

一時の異常な状況を、今や俯瞰で味わうところまでやってきた。

 

何が起きようとも結局は大丈夫なんだ、とハラの底から思えていれば、願う現実がより早く手に入る。

一抹の不安が混じっている限り、いつまでも不安な現実に身を置くことになる...  ということをこれ以上ないくらい ’’経験’’ した。

 

長い嵐の航海を経て、健やかな風を含んだ帆がいっぱいに膨らんできた今、目を開けてしっかり自分の意識に舵をとらせよう!

 

枷(かせ)を外し、胸いっぱいに新鮮な空気を吸いこむのだ!

 

le 23 Mai 2022


私がパリという街に住み始めた頃には既に風格ある店構えだったが、初めて訪れた時から三十余年、全くと言ってよいほど雰囲気が変わらぬ、この、ワインの樽の並べられた店先の風景は、いつもどこかノスタルジックな気持ちにさせられる。

 

赤ワインになる葡萄の品種のひとつ、ガメイ種のルビー色に由来するこの店名が示すとおり、ビストロの中でもワインにこだわり抜いたお店で、カウンターでワインとつまみを引っかけながら居合わせた客どうしが話している風景は何十年も変わらない。

私自身、食事するというよりグラスで好きなワインを飲む機会の方が多く、そういう気さくさに誰もが惹かれているように思う。

 

この写真のように、朝は出勤前のカフェを飲みながら、やっぱり居合わせた人と世間話に興じるのがフランス人の常だ。

 

ある男性が二十歳の時、バックパッカーとしてパリを訪れた際のここで飲んだ一杯のサンセールとの出逢いが、その後の彼の人生を決定づけたのだと聞いたことがある。

 

ソムリエとなり、ワインに合う料理の腕前も見事開花させ、今では自身の素敵なワインバー(美味しい料理の品揃えといいまさに LE RUBIS  のような!)を大繁盛させている彼の人生そのものが、例えどんな困難があろうとも、この店のように豊かな風合いを重ね、ワインの如き熟成が増していくことを願ってやまない。

 

le 26 Mai 2022


隣に座った時の、’’言葉に変換できない感触’’ といえばいいだろうか・・・なんとも言えない温かさや安心感、やすらぎ、といったようなものがほわっと自分の中に生まれてくる、それに満たされてゆく幸せを感じる... そういう相性の人がいる。

 

性別や年齢に関係なく。

当然ながら国籍や職業なんかも全く関係ないし、極端な言い方かもしれないがその人との関係性すら関係ない。

 

「相性」というものは、自分でどうこうできるものじゃないところがとても不思議で、面白くもあり、時には厄介だったりもするのだが、この歳になってくるとその ’’厄介’’ な方の相手への自分なりの対処法も身についてくるというもの。

究極は、’’そっと離れる’’、これが最善なのだとわかってくる。

そして、その相手の幸せを静かに祈れればお互いにとっていいことしかない、ということも。

 

とてもシンプルなことなのだ。

温かなものが生まれてくる状況に自分を置きたい。

 

たぶん頭で考えてもわからない。

自分であり、自分でないところの ’’なにか’’ が教えてくれること。

 

生き物として、本能の部分でわかること。

実はとても大切なこと。

 

le 28 Mai 2022


まず根元から3分の2ほどの皮をピーラーで丁寧に剥いていく。

その間に大きめのお鍋にお湯を沸かし始めておくのがよい。

全体をだいたい3等分にし、根元に近いところから湯がき始めるのだが、この時に、剥いた皮も一緒にお鍋に放り込む。

そのためには最初に綺麗に洗うことも忘れてはいけない。

 

春から夏にかけてのほんの一時期しか出回らない白アスパラは、まるで日本の筍のようだと私は密かに位置づけている。

こう見えてなかなか火が入り難いのもそうだし、よく見ると ’’ハカマ’’ と呼ばれる部分がいかにも筍に似てはいまいか。

 

湯がいている間、私は必ず ’’お鍋の様子を気にかけていられる距離’’ で本を読むことにしている。

時々様子を見ては、次の3分の1を投入するベストタイミングを計らなければならないからだ。

最後の穂先部分を投入してからは思ったほど時間はかからない。

 

湯がきあがったら全て取り出し、この茹で汁もしっかり使う。

その日冷蔵庫にある野菜を、火の通り難い順に入れてゆくだけ。

湯がく時に入れた岩塩と大地の栄養を吸った様々な野菜たちが、この時期だけの美味しいハーモニーを作り出してくれる。

 

季節の恵みを、ヴァリエーション豊かに堪能する幸せよ!

 

le 30 Mai 2022


♪ 君の行(ゆ)く道は 果てしなく遠い

だのになぜ 歯をくいしばり

君は行くのか そんなにしてまで ♪

 

『若者たち』(藤田敏雄 作曲・佐藤勝 作曲)は、実際に自分が ’’若者’’ だった頃は爽やかな印象の方が強い歌だったが、はるか歳を重ねてきてからはずっしりと響いてくるものがある。

 

歯をくいしばってでも手に入れたいものがあるからこそ、守られた場所で安心して寝転がっているよりも、切り立つ険しい山脈への道を行くという選択をする。

 

’’若者’’ 時代はその山頂へ登りつめることこそが最大の関心事で、多くの人がそのことに躍起になり、夢中にもなる。

 

けれど本当は、その過程でしか見られない風景、出逢うすべてのご縁こそが人生を豊かに彩ってくれ、自分に幸せをもたらしてくれるということに気づくのはもっと後になってからだ。

 

更にまた、 ’’若者’’ とは本当の意味では肉体や年齢のことをさすのではなく、心持ち次第では、この身体を脱ぐその時までずっと続けられる状態なのだということも知る。

 

le 1 Juin 2022


どんな場所にも、快適さや便利さもあれば、不自由なこと不便な点だって同じくらいあるものだ。

 

自分にとって少しでも居心地の良い場所が、すなわち自分が自分らしく呼吸できる場所なんだろう。

もっと言えば、『自分の ’’より大切なもの’’ に対してどれだけのプラス要素があるか』ということになるのかもしれない。

 

価値観、つまり ’’生き方’’ は本当に様々で、何を善しとし、何を優先順位の高いところにもってくるのかは本人にしかわからない。

親子であっても夫婦であっても、違って当たり前なのだ。

 

人は、ひとりひとり、ことごとく違う。

この事を一体どれだけの人が理解しているだろうか。

この、これほどまでに当たり前のことを。

 

相手へのリスペクトはそこが分かっていればおのずと生まれる。

批判も非難もわいてきようがない。

憎しみや恨みつらみ、嫉妬心...  負の感情など持ちようもない。

 

皆が揃ってお行儀よく同じ方向を見ている必要などないのだ。

 

何を優先させたいのかは、胸の奥にあるものを、まず自分自身がそのまま受けとめるところから始まる。

 

le 3 Juin 2022


一瞬前まで、確実にそこには二人の姿があった・・・そんな気配が濃厚に漂っている。

 

グラスのひとつは飲み干され、もうひとつはほんの二、三口をつけただけ。

彼らはいったいどこに消えたのだろう?

煙草もライターもここに置いたままで。

 

さっきまでどんな会話が繰り広げられていたのか。

灰皿に残る吸い殻がそこにあった空気を様々に連想させる。

 

日が長くなり夕方の柔らかい光をゆっくり味わえる季節、アペリティフ代わりに軽くひっかけながら、なんとはない今日の出来事を報告しあっていたのだろうか。

 

もしくは、ひとりがもう片方を呼び出し、言い出し難いことを切り出すにはビールの応援が必要だったのだろうか。

 

グラスの中身の減り方は、二人の関係性をも様々に連想させる。

 

あるいは・・・

私にはその姿が見えていないだけで、楽しそうに語らう ’’インヴィジブルマン’’ 達が今の瞬間もここに存在するのかもしれない。

 

街は、様々なドラマを抱え、黙って受け留めながら今日という日の仕舞い支度にかかり、夜の帳(とばり)を下ろす準備に入ってゆく。

 

le 5 Juin 2022


それぞれの花に対してなんとなく持つ自分のイメージがある。

薔薇、チューリップ、ひまわり etc.  それを見た時、もしくはその花が頭の中で映像として浮かび上がってきた時、自分の中の様々な年代の記憶 / 思い出を呼び起こすからかもしれない。

 

例えば私なら、「チューリップ」は小学校の花壇が思い浮かび、低学年の頃を思い出すが、もしかしたらそれは「♪ 咲いた  咲いた チューリップの花が〜 ♪」という童謡を幼少期に習うこととも関係していそうな気もする。

 

「朝顔」なら、さしずめ夏休みの絵日記や自由研究、あるいは花火大会や縁日などの非日常に味わう特別な華やぎ。

 

「コスモス」と聞くと、秋の夕暮れに眺めた自生の群れを思い出し、手足ばかりひょろひょろとしていた時分の、まだ輪郭のはっきり見えない自分の未来に思いを馳せていた心諸が蘇る。

 

「紫陽花」は日本の梅雨を思い出し、「ラベンダー」は真夏の太陽の下どこまでも広がる南仏の景色、その乾いた風につながる。

 

日常の他愛無い経験を通して ’’記憶’’ として自分の中にあるものは、普段は思い出さなくともおそらく膨大な量になるだろう。

そういうものが自分たらしめていると思えば、生まれてから遭遇してきた全ての事柄に、得も言えぬ愛おしさが湧いてくる。

 

le 7 Juin 2022


眠っている間、私たちの意識していないところで身体中の細胞はクリーニングされ、傷ついた箇所は修復され、活力がチャージされているらしい。

’’らしい’’ としか言いようがない位、我々は呑気に睡眠を貪り、夢の世界で何やら不思議な体験をしていたりする。

 

よく考えると、とてつもなく凄い仕組みだとしみじみ思う。

生まれてからこのかた、「眠っている間アレをこうして、コレをそうして〜」などと一度も教わったこともなければ、当然ながら意識したこともないのだから。

 

夜が明けて、新しい一日が始まったばかりの余韻が残っている時間帯は、街の空気も澄んでいて美味しい。

世界中からの観光客が放出するものを、名だたる観光地の、それもひとつの仕事として街は覚悟しているのだろうか、黙って受け取り、そして夜の間、自らクリーニングしているのだろう。

まるで大きな生命体のように。

 

平然と、何事もなかったかのようにまた朝日を迎えた街の、空は晴れ渡り、心地よく風は吹く。

そして今日も、この街に魅せられて訪れる人たちを懐深く受け入れる。

 

私も受け入れてもらっているうちのひとりだと思うと、感慨深い思いとともに感謝で胸がいっぱいになる。

 

le 10 Juin 2022


営む人、訪れる人、季節ごとの風、刻まれる時。

笑顔や挨拶、時には論議(ここはフランスだ)。

色んなものが混ざり合い、絵の具が重なって一枚の絵になっていくかのごとく、静かに育っていく場所。

 

初めて訪れる者にさえ、その空間の放つ癒しは、「おかえり」と自然な微笑みを投げかける。

 

ここに立ち寄るのになんの理由が要るだろう。

 

喉の渇きと心の渇きはほんの小さなもので潤うこともある。

人の持つ温かみを伴うものでありさえすれば、必ず。

 

le 12 Juin 2022


法律であれ、校則であれ、どんな「規則」や「決め事」も ’’それ在りき’’ になってはダメなんだ。

それを ’’守ること’’ が目的になってしまうと、本質の部分がおかしなことになってしまう。

 

そんなものに頼らずとも、良識、...もっとシンプルに言えば、愛を以って判断すればたいていのことはうまくいく。

もちろん机上の空論だと一蹴されてしまえばそれまでだが。

 

ただ、知っておいた方がいい。

規則に主導権を握らせてしまうことの愚かしさを。

 

寄り添い、歩調を合わせ、相手 / 対象への信頼と尊敬を忘れなければ、そもそも規則なんぞの出番はなくなることを。

 

le 13 Juin 2022


『他者は己を映す鏡』という言葉を初めて聞いて、「全くそのとおり!」と瞬時に納得できる人はどれ位いるのだろう。

 

たいがいの人が「えっ?そんなはずない!」と反発したくなるのではないだろうか。何を隠そう、私がそうだった。

 

だが、この言葉の意味に真剣に向き合いながら、日常の様々なシーンを冷静に観察しているとわかってくる。

 

まさにそのとおりだ、と。

 

目の前の人にただ腹を立ててオワリ、ではなく、その人を通して自分を見るようになる。

’’鏡’’ に映った自分へとだんだん焦点が合ってくる。

 

その先に、展開が全く変わってくる体感を得るのだ。

 

le 14 Juin 2022


夏の光に戯れる水しぶき。

 

視覚や聴覚に飛び込んでくるやいなや、感覚の扉を優しくノックしてくる。

 

その一連の間(ま)に身を委ねていると、樹々の葉擦れや風のざわめきに遠く喧噪の混じっていることに気づく。

 

これらが、まるで血管や神経細胞、ひとつひとつの臓器のように、街という生命体を生かしているかのようだ。

 

都会の小さなオアシスは、そこに住む我々だけでなく、街そのもの、つまり己自身にも浄化のエネルギーを送っているのだろう。

 

le 16 Juin 2022


そこまでの必要があるのかどうか、現代人はとかく情報収集に大忙しらしく、そのうえ四六時中 ’’発信 / 受信’’ に追われるがゆえに手元から目が離せないようだ。

 

数々の名画だけでなく多くの名言も残した稀代の喜劇俳優なら、思わず嘆きの表情でこうつぶやくかもしれない。

 

You'll never find a rainbow if you're looking down.

〔Charles Chaplin 1889-1977〕

 

彼の本当に伝えたいことの核心は ’’虹’’ という単語に集約されていて、巧まずして、昨今のこの情景に深い意味をもって響いてくる気がするのは私だけだろうか。

 

le 18 Juin 2022


骨董市で出会う世界中のありとあらゆる物の中に、母国の、しかも百年ほども前の物を見つけると、話にだけ聞いていた遠い親戚にやっと会えたかのような錯覚を覚える。

 

食器、衣装、道具、産物  etc. ・・・太古の昔から陸を行き交い、海を渡り、果てしなく異国の地に広まってゆく物たち。

 

形あるものだけでなく、思想、発想、技術、哲学 etc.

’’人’’ もまた然り。

全てを「文化」だと言ってしまうのは乱暴だろうか。

 

感性の違いを交換しあい、好奇心旺盛に取り入れていくことの面白さは、いつの時代でも我々の変化と成長を促してくれる決して古びないもののひとつだ。

 

le 21 Juin 2022


様々な『贈り物』によって私たちは今日も生かされている。

 

朝、気持ちよい目覚めを迎えられること。

季節ごとの地球の恵みを美味しくいただけること。

雨風凌げる場所を持ち、思いをかけあえ、気持ちを贈りあえる大切な人たちがいて。

 

陽の光を浴び、頬に風を受け、大地と空に見守られながら、’’今’’、’’ここ’’ で、日常の全ての経験を味わっている。

 

と同時に、映画やドラマ、小説という ’’並行世界’’ の中でも心揺さぶられる体験を得られ。

 

哀しみに沈むこともあれば時に激昂し、悔いたり嘆いたり、でも多分それ以上に喜びに包まれ、感動と感謝の涙を手にすることが出来るのは、ただただ生きていてこそ。

 

あらゆることを存分に体験できるのは、『贈り物』を受け取れるこの肉体を持たせてもらえていてこそ。

 

le 25 Juin 2022


ニュースの中で繰り返し聞かされる、遠いところで起きている惨事を案じ続けてみたところでどうなるのだろう。

来年は、再来年は、十年後は...  と手を替え品を替え煽(あお)られる不安にあたふたしてみたところで、どうなるというのだろう。

むしろ、「今現在を不安まみれで過ごす」という皮肉な現実にドップリ浸かるばかりではないか。

 

すべての情報から距離をおき、身ひとつで外へ出てみよう。

空を見上げるのに小銭もスマホも何も要らない。

 

身すがら、自然界のエネルギーにしっかり触れよう。

今、何に焦点を合わせればよいのかを知るために。

 

le 28 Juin 2022