過去のつぶやき

2023年(7月〜10月)

「珈琲にしようか紅茶にしようか」、そんな悩みならともかく、自分にとって決して小さくはない決断を迫られる時、大事なのは ’’慌てない’’ ことだ。

 

なかなか答えが出せず、どうすればよいのか悶々とする時、そんな時ほど増々気が急くし、だから余計、つい頭でばかり考えて無理やりにでも答えを導き出そうと焦ってしまう。

しかも「普通だったらこうだ」というような、世間一般でなされる選択ばかりが、さも正しい道であるかのような顔をして目の前をウロチョロするものだから、尚さら惑わされることになる。

 

そんな時、’’いったん離れてみること’’ が最善策だ。

 

とかく沢山のものが重なりあって物事がよく見えない時ほど不安になり、本能から、より近づいていこうとするものだが、逆に、十分な距離を置けば細部までしっかり見えてくるというもの。

 

そうこうしながら、焦っている自分の姿を客観視できたなら、’’いったい何に’’ 焦っているのかも見えてくる。

 

大抵の場合その対象は、その事柄の本質から遠いところにあり、あたかも己の影を、何かとてつもなく恐ろしい(例えば幽霊のような)もののように勘違いしているにすぎない、と気づく。

 

自分の目線を思い切って宇宙まで飛ばしてみよう。

あたかも迷路ゲームの全体を上から眺めるように、案外シンプルに、心から納得できる決断への道筋が見えてくるから。

 

le 1 Juillet 2023


夜のうちに浄化され、朝日とともにまた始まる新しい一日。

 

その新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、身体中の細胞を目覚めさせる時、自分の中に改めて新鮮なものが立ち上がってくる。

 

それは「希望」と言ってもいいし、「信条」と言ってもいい。

色々な言葉で言い表すことができるが、いずれにしても「ポジティヴ positive」なものであることは確かだ。

 

まだ皆が起ききってしまう前、静けさに包まれた澄み切った時間にだけ流れる空気が用意されていて、その束の間に身を置き、自分の中をそういうもので満たせた時に自ずとわかることがある。

 

波動の合わない人との接触で濁ってしまった感覚は、新しい朝が一新してくれようし、頭でこねくり回して無理やり出した考えは、実は夜の闇が食い尽くしてくれたことを知る。

 

大いなるものの循環の中で、我々は健やかに生かされていることを信じられれば、いつでも自分自身を本来の状態に戻せるのだ。

 

誰の指図も受けず、圧力も受けず、惑わされず、コントロールも受けない、そんな揺るぎない自分にきちんと戻れる。

 

祈り、信じ、そして待つ。

 

自分の力で深いところからそれが出来れば、’’すべてはうまくいっている’’、そのことを魂レヴェルで確信できるだろう。

 

le 5 Juillet 2023


街並みを保存することが法律で決められているフランスでは、旧建築のアパルトマンの窓は今でもこういう鎧戸をそのまま使っていて、それがパリの景観のひとつともなっている。

 

日本家屋の雨戸とは違い、こちらの鎧戸は遮光と目隠しの為のものなので、風も音も、そのまま通り抜ける造りだ。

 

日常生活の中で、「隔(へだ)てる」という動作は時に必要で、それが有るか無いかで物事が大きく違ってくる。

 

よく居酒屋や小料理屋などで、ちょっとしたもので席を区切ってあったりするが、たとえ声が筒抜けでも居心地がずいぶん違う。

 

でもそこに全てを遮断する壁を作ってしまうとどうなるだろう。

 

人間関係でも同じで、金輪際一切関わるな、とばかりに鉄の壁を作ってしまうのは、長い目で見た時に少々残念なようにも思う。

 

人は変わるものだ。

日々を生きる中で、様々なものから影響を受け、学び続けている限り、人は変わるし、変わることができる。

 

日本にも、古くからの「格子戸」という美しい建具がある。

隔てる役目がありながら、風が通り抜け、ものごとが循環する造りは、白か黒か、敵か味方か、ではなく、我々が程よい塩梅(あんばい)を見つけられる生き物であるからこその素敵な発想だ。

 

le 8 Juillet 2023


’’思い’’ は色んな形で表すことができる、それを忘れずにいたい。

 

羽布団のような柔らかい心で相手の話に耳を傾け、微笑みとともに、相手の目を見て穏やかな頷きを返したり。

相手の装いに関心を向けたり、頑張りを讃えることだって、相手に対する思いのアンテナが働いていてこそ自然にできること。

 

ちょっとした受け応えの中に「ありがとう」のひとことを付け加えるのも、豊かな関係を育み続けたいなら大切にしたいことだ。

 

それをしなかったからといって、罪に問われたり罰せられたりするわけでもなく、人間失格の烙印を押されるわけでもない、そういうことは日常の中でものすごく沢山ある。

 

そしてそういうものは、学校や家庭で必ずしも教えてもらえるとは限らず、知らないまま大人になる場合も少なくない。

 

もちろん、人の機嫌をとる必要はないし、人当たりよい人間になる必要もない。

 

けれど、細やかな心遣いができ、温かな '’思い’’ を様々なシーンで発していける人は、内側から輝いていて、やっぱり素敵だ。

 

季節にとけ込むテーブルの設(しつら)えが、それだけで「ウェルカム」という優しさ溢れるメッセージを発しているように。

 

le 10 Juillet 2023


昔から私は「曲線」というものに強く惹かれる。

 

バロック時代を象徴する特徴のひとつでもあり(美術のみならず音楽でもそうだと確信している)、世紀を経て、アール・ヌーヴォー Art Nouveau の美意識も根源は同じだと私は認識している。

 

「曲線」が、単なる「直線」の対極に位置するのではなく、その揺らぎ、うねりは、とことん研ぎ澄まされた先の美しさだ。

 

バロック彫刻にしても、ガレ E. Gallé のガラス工芸品にしても、その美を生み出すための法則があるのかもしれないが、最終的には創り手のセンス / 感覚、ただそこに集結されたもの。

 

究極のところ、自然界への畏怖 / 大いなる憧れが創り手を突き動かし、とうてい数字や言葉、データ云々では表すことなど出来ない域、そこにこそ真髄が潜んでいるからこそたまらなく美しい。

 

『自然界のものには直線が存在しない』

この事実の中には、我々ニンゲンも含まれている。

だとすれば、我々の中のデータ化できない部分にこそ、我々の本質があるのではないか。

 

ありとあらゆる分野で ’’デジタル’’ がますます加速する今の時代。

果たしてそれは、我々にとって幸福な道行きなのだろうか。

 

どんなに時代が進んでも、我々じたいは ’’アナログ’’ な存在だ。

動かしようのないその事実を、もっと強く意識していきたい。

 

le 12 Juillet 2023


とりどりに咲き誇る紫陽花(アジサイ)。

 

それぞれの色で伸びやかに花ひらき、別にそうしているわけでもないだろうに、お互いを引き立てあっている。

 

どの色も良し悪しなく、優劣もなく、各々が、ただ自分自身であることで精一杯 ’’生きる’’ ことを全うしようとしている。

 

他者を、己と同じ色でないからといって非難や攻撃などもせず、己と同じ色に染めさせようともせず、もちろん嫉妬もしない。

 

言うまでもなく、己自身の色を卑下する発想すらないだろう。

 

花の中でも紫陽花は、たとえ同じ株でも土壌の特性によって色が異なる珍しい植物で、しかも、咲いてから後に色が変わることもあるという、なんとも素敵な特徴をもっている。

 

万人が共通認識として「〜でなければならない」と持つ縛りなど、本来、我々を含めた全ての生き物にとって不要のものだ。

 

自分の正義がそのまま他者にとっての正義であるはずがない。

他者を傷つけない限り、それぞれであっていいのだ。

 

自分の色で堂々と咲く花々の、その気高さは美しく尊い。

 

ニンゲンは、一体いつになればその域に辿り着けるのだろうか。

 

le 13 Juillet 2023


太陽が当たり、反射した光が我々の目に入って初めて「キラキラと光る水面(みなも)」となる。

 

月も星も雲に隠れた真っ暗な夜、同じようにセーヌは流れてはいても、この煌めきは得られない。

川じたいが光るのではなく、光が当たってこその輝きだからだ。

 

自然界には、例えば天然のダイヤモンドの中に肉眼には見えない特殊な光を受けて光を発するものがあるが、それですら自らの力で光るのではなく、発光生物も酸素があって初めて発光できる。

 

そんなふうに、何かの力を得てこそ光るのなら、例えば私たちの場合、’’互いが互いの光になる’’ というのはどうだろうか。

 

人はそれぞれ異なる能力を持っていて、自分の得手は誰かにとっては不得手だったり、自分の不得手は誰かの得手だったりする。

 

誰もが均一に、どんな事でも高いレヴェルでこなそうとする必要などなく、否それどころか、そもそもそんなことは不可能だ!

 

ならば、自分が不得意なことを得意な人に任せることでその人が輝き、反対に、不得意な誰かに代わって得意な自分が力を発揮することで自分もまた輝けるということになりはしないだろうか。

 

様々な人がいるからこそ、この世はヴァラエティーに富む素晴らしい場所、彩り豊かなハーモニーを創り出せる場所なのだ。

’’互いに輝かせ合うことで皆が輝く’’ 、こんな素敵なことはない。

 

le 15 Juillet 2023


パリ市内の住居は九割がアパルトマンで、番地が示す所には分厚く大きな扉があり、暗証番号でセキュリティが確保されている。

 

珍しく、文庫本ほどの面積の、こんな小窓のある扉があった。

お行儀のよい行為ではないが、何かに誘われるように顔を近づけて覗いてみると、植木鉢が並べられた中庭が見え、そこには、通りの喧騒からは想像できない落ち着いた空間が広がっていた。

 

どんな事でもそうだが、日常、身の回りには、表面だけしか見えていないものの方が多く、意識して自分の力でその先を見ようとして初めて、上っ面とは異なる内実に近づくことができる。

 

全貌を見るのは簡単なことではないし、何でもかんでも知る必要もなく、そう頑張ったところでなかなか叶うものでもない。

 

ただ、’’パッと見ただけでは本当の事はわからない’’、ということだけは、いつも意識しておいた方がよさそうだ。

 

というより、簡単に目に入ってくるもの、洪水のように耳に入ってくる情報ほど、もしかしたら事実 / 真実からはほど遠く、更に言えば真実とは正反対の内容かもしれない。

 

「何でも疑え」というのではなく、自分の感覚、勘、嗅覚のようなものにもっと重きをおいて日常を送った方がいい気がする。

 

意図的に ’’見せられている’’ ものによって、知らず知らずのうちに崖っぷちへと誘導されている場合だって十分あり得るのだから。

 

le 18 Juillet 2023


予め調べたいものが決まっていて、それをインターネットなりスマホなりで細かく調べる分にはものすごく便利な時代になった。

ただそれは、あくまでも自分が予めセレクトしている場合だ。

 

私は、思ってもみないところから、思ってもいないタイミングで降ってくる、全く知らなかった情報を受け取るのが好きだ。

自分の知っているものなんてたかが知れていて、それがどれだけちっぽけな、狭い世界からのものでしかないか、この歳になるとそれをよく知っているからだ。

 

だからできるだけ窓を大きく開き、自分の感性がそれをキャッチしやすいようにしていたい、常々そう思いながら過ごしている。

そう思っていてさえ、言葉ほどには大したことができないことも、この歳になるとよくわかっているからこそ余計に...。

 

そして、思ってもみないところから思ってもいないタイミングでもたらされた情報は、「ま、いつでもいいか」「そのうち時間ができてから...」と保留にしてしまわず、できるだけ自分がそのものの温度を高く感じとれているうちに、熱量高く行動に移すことを心がけたいと思っている。

 

何故ならそれは、実は大きなギフト、’’導き’’ なのだから。

 

心当たりがなくとも、それは ’’自分が引き寄せた’’ 自分に必要な情報だということも、この歳になると経験から知っている。

 

アンテナに引っかかってきたものにはちゃんと意味がある。

頭では理解しようのない、人知の及ばぬこの世の仕組みだ。

 

le 19 Juillet 2023


先のわかる台本のようなものを予め受け取っておけるのではなく、日常の中で自分に起きることは、瞬間瞬間に自分が何を選択し、どう行動するかによって驚くほど変わってくる。

つまり、先の展開は、無限に用意されているということだ。

 

ほんの小さな情報でも、自分のアンテナがビビッときたのなら、その ’’ビビッ’’ を大きなこととして受け止めた方がいい。

 

後回しにせず、すぐにそれを生かす行動をとってみると、面白いことに、その先にまた思わぬ ’’ビビッ’’ が用意されていたりする。

 

流れに導かれるまま、風が後押しをしてくれるままに、その先へと歩を進めてみると、自分の『核』に共鳴するびっくりするような事柄が、満面の笑みで出迎えてくれる。

 

そんな、あたかも綿密に準備をされていたかのような出会いの連鎖は、後から振り返ると、自分が何の縛(しば)りも捉(とら)われもなく、もっと言えば、ギラギラした野望のようなものからも遠い心情でいる時にもたらされることが多いと気づく。

 

心ときめく連鎖は、どうやら、意図して手繰(たぐ)り寄せられるものではないようだ。

やはりこれも『ご縁』という括(くく)りに入るのだとすれば、自分の力でどうにか出来るものではないということがわかる。

 

だからこそ、’’ビビッ’’ についていこう!

ひとつの扉が、その先の複数の扉につながっているのだから。

 

le 22 Juillet 2023


働く人、ヴァカンスに出かける人。

彼らの並存期間もそろそろ仕上げの時期に差し掛かってきた。

 

フランスでは、毎年五月後半に、あたかも夏の到来を知らせるが如く、南仏のカンヌ国際映画祭が華々しく開催される。

その授賞式で盛り上がる頃、今度は全仏テニス・オープン ’’ローラン・ギャロス’’ が六月を湧かせる主役のバトンを引き継ぐ。

七月上旬にはパリコレのオートクチュールコレクションで街が賑わい、続いて革命記念日、そして三週間にわたる自転車のツール・ド・フランスが終わるといよいよ本格的なヴァカンス期だ。

 

実際には、子供たちの学校休みは七月初旬から始まっているし、各職場でも同僚とのシフトの関係などで早めに休暇に入っている人もいて、ヴァカンスムードはかなり前から始まってはいる。

 

けれど、各お役所はじめ、レストランやカフェ、パン屋さんや花屋さん、肉屋さんに魚屋さん(勿論八百屋さんも)、薬局や雑貨店に至るまで、見事に長期休暇に入り出すのが七月最後の週だ。

 

パリ住民と観光客とが、まさに総入れ替えと言ってもいいほどにゴッソリ入れ替わり始める時期でもある。

 

時間の流れ方、風の重力が変わり、人々の放つ波動があらゆるものの輪郭までをも替えていく様は、ここに何年住んでいても、毎夏、とても言葉には変換できない深い心情を湧き上がらせる。

 

le 23 Juillet 2023


【パリ・コレクション備忘録 1】

 

長くこの街に住んではいても、業界が違えば、キッカケがない限り永遠にその詳細を知ることはないままだ。

 

いわゆる「パリコレ」の世界も、そもそも有名ファッションブランドに全く興味のない私には一切なんの接点もなかったが、昨年、偶然その開催会場での喧騒に遭遇したことをキッカケに、その行事を隙間から垣間見る経験を得たのが始まりだった。

 

パリ在住三十余年にして実に初めてのことだったが、逆に、今まで一度もそんな機会がなかったことにも改めて驚いている。

 

「パリコレ(パリ・コレクション)」。

正式な用語ではなく、あくまで和製英語、むしろ日本語だ。

 

正式名称は Semaine de la mode à Paris。

直訳するところのいわゆる「パリ・ファッション・ウィーク」で、高級ファッションブランドの新作発表会である。

 

FENDI のショー会場に遭遇した記録を残しておこうと思う。

 

(この女性はおそらく女優さんかモデルさんだろう、フランス人か、もしくはどこかの国の FENDI のアンバサダーのようだ)

 

le 26 Juillet 2023


【パリ・コレクション備忘録 2】

 

今月上旬、パリ・オートクチュール・ウィーク 2023年 ー 2024年コレクションが開催され、今回は32のブランドがパリ市内及びパリ近郊の各所で、四日間にわたりランウェイショーとプレゼンテーションを行った。

 

今回も、特に狙ったわけではなく、たまたま偶然に居合わせただけなのだが、この業界ならではの雰囲気を、例によって隙間からご相伴させてもらった。

 

ショーが開催される会場の「内側」だけでなく、会場の「外」をも含めた賑やかな催し。

 

「内側」は実際には見たことはないけれど、「外」で展開する ’’ドラマ’’ は、当たり前だが台本があるわけでもなく、打ち合わせもリハーサルも何もないぶっつけ本番。

 

そこに集うすべての人々が出演者となり、即興的に時間が進む。

 

パリのファッション業界独特の空気感。

お祭りのような ’’非日常’’  に、人々の発する熱気はとても興味深いものがあった。

 

(この人も有名人のようで、多くのプロカメラマンの撮影に応じていた)

 

le 27 Juillet 2023


【パリ・コレクション備忘録 3】

 

ショーに招かれる人たちは、バイヤーを含め業界関係者はもちろん、各界の有名人、セレブ、俳優、ジャーナリスト etc. 世界中から集まる様々な人たちがいる。

一般人も、おそらく何らかのルートで入場資格を入手すれば観客になれるのだろうが、私にはその仕組みはよくわからない。

 

興味深いのは、私の業界(クラシック音楽)ではコンサート会場 / 劇場の「内側」だけがその ’’舞台’’ だが、ファッション業界は開催会場の「外」まで含めてこの派手な催し物の ’’舞台’’ なのだ。

 

驚くほど多くのプロのカメラマンが会場の外にもいるのだが、どうやら彼らは、来場するあらゆる有名人を狙って、その姿をカメラにおさめるのが仕事のようだ。

何せそこは、各界の大御所、スター達が訪れる場所なのだから。

 

彼ら以外にも色々な人がいて、おそらく売れっ子になる前のモデルもいれば、ファッショニスタと呼ばれる人たち、そんな彼らを取り巻く人たち、見物人 etc. とにかくごった返している。

 

そのブランドのアンバサダーと呼ばれる各国の有名人が乗りつけるリムジンやハイヤーの為に、周囲の道路には交通規制も敷かれ、警備の為のポリスも大勢駆り出されている。

 

真夏の太陽の下、ただならぬ喧騒が熱気を帯び続ける、実に大掛かりな非日常の数時間、これもパリのひとつの顔なのだ。

 

(日差しも強く気温も高い日だったが、こんなに重ね着をし、手袋まで填(は)めていてさえ、汗ひとつ流さずプロカメラマンたちの注文に応えてポーズをとっていた黒人男性モデル)

 

le 28 Juillet 2023


【パリ・コレクション備忘録 4】

 

もっとも古い歴史を持ち、高い芸術性を求められるという「パリコレ」は、1910年頃にスタートしたのだそうだ。

 

ファッション業界で「四大コレクション」と呼ばれる、パリ、ミラノ、ニューヨーク、そしてロンドンでの開催。

それぞれ年に2回開催されている。

 

当然ながら「美しいなぁ!」「カッコいいなぁ!」と目を奪われる服もたくさんあるが、中には「えっ...。こんな服、一体どこで着るん??」と思わずツッコミを入れたくなってしまうのは、私がこの世界をまだまだ知らないからなのだろう。

 

観察しているうちになんとなくわかりかけてきたこともあれば驚く事も多く、いずれにせよ独特の世界であることは間違いない。

 

会場となるのは毎年様々な場所で、美術館や歴史的建造物、時には大きな倉庫や廃墟など、「え?こんな場所で?」と思うような所でも開催され、その「場所 / 空間」も含めてのショーだ。

 

ショーに使われる音楽や照明、演出も当然大事な要素となる。

 

私の業界でいうところの「リサイタル」。

服だけでなく、その時間を創る全ての要素を含め、つくづくデザイナーの独創性、さらに言えば ’’自らの生き様’’ を世に問う場なのだなぁ、と思う。

 

le 29 Juillet 2023


【パリ・コレクション備忘録 5】

 

ショーの開催会場の「外」にいる人たちの中には、プロのモデルさんもいれば、プロかと見紛う人も結構まざっている。

デビュー前のモデルの卵も紛れているのは間違いない。

「モデル」とひと口に言えど、きっと様々な括りがあるだろう。

 

また、奇抜なファッションで注目を集めようと、こういう場に集う人も少なくはない。

じっくり観察していると、服装はプロのモデルばりだが、全身から醸し出されるものから、どうもそうではないとわかってくる。

 

こういう人たちのことを「ファッショニスタ」と呼ぶようだ。

 

注目を浴び、写真に撮られるのを意識していて、そういう彼らの自意識を観察するのも実はなかなか興味深い。

 

そんな中、有名人の乗ったリムジンが到着し、ドアが開く度にものすごい歓声があがり、人だかりの温度がググッと上昇する。

 

警備の為に駆り出された警官たちも、ピリピリした雰囲気ではなく、結構楽しんでいるように見受けられるのがフランスっぽい。

 

あちこちで、大きく小さく様々なドラマの渦が起き、人々の感情が波となってそこをうねり、流れる。

 

ファッションそのものに焦点をあてずとも、あらゆる角度から人間観察ができるのも、この催し物ならではの面白みのひとつだ。

 

le 30 Juillet 2023


【パリ・コレクション備忘録 6】

 

身体つきから見ても、彼女はプロのモデルさんに間違いない。

 

それにしても、この大胆すぎるファッションが、かなり多くの人の注目を集めていた。

 

たくさんのプロカメラマンに囲まれながら広場のあちこちで様々なポーズをとっていて、私もそのお相伴に与ったわけだが、誰もがこの裸同然の格好に「す...すごいな...」と驚きつつそれを態度に出せずにいるのに、まるでそんな大人たちの気持ちを代弁してくれるかのようなこの少女の姿がとても印象的だった。

 

おそらく生まれて初めて見るのだろう(いや、私だって頻繁に遭遇するわけじゃない!)。

人混みの中、突如として出現した不思議な生き物を前に、呆然と立ち尽くし、全感覚を集中させて凝視し続ける少女。

 

純真無垢なこの少女の、全身から放たれる直球の感情に、改めて様々なことを考えさせられた一瞬でもあった。

 

このモデルさんにしてみれば、撮影されながらさぞかし居心地が悪かったに違いないが、それでもポーズをとり続けるプロの仕事ぶりもまた素晴らしかった。

 

’’ファッション’’ を媒体とした、人間たちの「創造」という行為。

その時代に息づく、どこまでも ’’生もの’’ であることの勢いや凄み、そのエネルギーの一端に触れられた数時間だった気がする。

 

le 31 Juillet 2023


どれくらい前からだろう。

起床してひと通りのルーティーンを終えた後、その日最初に身体の中に入れるのは、マグカップ一杯の「お白湯」と決めている。

 

江戸時代を舞台にした歴史小説の影響もあるかもしれない。

以前は「目覚めてすぐのコップ一杯の水」だったのを、「お白湯」に切り替えてからもう何年にもなる。

 

温度は季節によって、その日の気分によっても微妙に異なる。

 

最初の頃こそ味気なかったが、「美味しい!」と感じるようになるまでさほどかからず、今では、毎朝の一杯はまさに ’’甘露’’ だ。

 

ソファーに座り、身体全体に沁み渡らせていくイメージでひと口ずつ丁寧に飲む、その数分はとても心地よい時間でもある。

 

カップが空になるまでの間、せっかく温もっているカップを、おなかや肩、首筋、時には腰などに当てて、束の間の温灸がわりにしてみたりもするのだが、これがまた実に気持ちがいい。

 

一日の始まりに、自然界により近い一番ピュアなものを身体に入れることで、身体がなんだか喜んでいるような気がする。

もしかしてそれは、細胞レヴェルで本来の在り方を思い出すからなのかもしれない、などと思ったりもしている。

 

le 1 Août 2023


必ず観光ガイドに載っていてパリといえば誰もが思い浮かべる場所のひとつ 白亜のサクレクール寺院 Basilique du Sacré-Cœur。

そこに辿り着くまでの道のりは、けっこう長い登り坂だ。

 

お土産物屋さんがひしめく坂道を、売り物のTシャツやキーホルダーなどを物色しながらのんびり登っていく人もいれば、一気にタクシーでてっぺんまで行く人ももちろんいる。

有料のフニクレール Funiculaire(ケーブルカー)を使う人もいるし、観光客を相乗りさせるこんな車を利用する人もいる。

遊園地にあるような汽車の姿をした乗り物(Le Petit Train de Montmartre)は、さらに観光気分を高めてくれるからか、年中人気があるようだ。

 

蛇行しながら登っていく坂道の他に、急な石段も数ヶ所ある。

 

私は、その時々にできるだけ人の少ない道を選びながら、もっぱら徒歩で登っていくのが好きだ。

 

目的地は同じでも、様々な手段があり、見える景色が違う。

たとえ同じ道だとしても、時間帯や季節が違えば趣は変わるし、その日その時の心持ちによっても違ってくるものだ。

 

そう考えると、目的地に着くまでの道のり、それじたいが、とても豊かなものに思えてくる。

 

le 3 Août 2023


ここ数年、パリ中のあちこちの歴史的建造物に、こんなふうに巨大広告が掲げられている光景が珍しくはなくなってきている。

修復のための巨額の費用を担う各界の大手企業が、自社の宣伝も兼ねているというわけだ。

 

国立パリ・オペラ座 ’’ガルニエ宮’’ の正面も、今年の二月から大掛かりな足場が組まれ、大々的な修復工事が続いている。

完成予定は2024年末らしいから、来年のパリ・オリンピック開催期間中も美しいファサードは覆われたままということになる。

 

二十年ほど前、私のオペラ公演出演中に両親を日本から招んだ時もこのオペラ座の正面は工事中だったのだが、歴史ある劇場の堂々たる外観を見せてあげられずに残念だったことを思い出す。

 

あの頃は、味気ない合板が建物を無様に覆い隠していたことを思えば、こういう広告の方がまだ趣があるかもしれない。

この手の目隠しが始まった時、旧建築と斬新な広告との取り合わせに違和感を感じずにはいられなかったが、不思議なもので最近は、頻繁にデザインが変わるのも小さな楽しみになってきた。

因みに、このガルニエ宮の裏手は昨年からの SAMSUNG の広告が変わらないが、ファサード面を請け負っている CHANEL は既に何パターン目かに入っていて、最王手の威力を見せつけている。

 

観光客の方々には本来の姿をご覧いただけないが、これも ’’今’’ しかないパリの顔のひとつ、「どうせなら楽しんでしまえ!」なフランス精神を味わっていただくのもご一興かもしれない。

 

le 5 Août 2023


今年一月、ヴァンドーム広場のルイ・ヴィトンの店舗に、実物大の動く草間彌生さん人形が登場して数日後、シャンゼリゼのヴィトン本店に覆い被さる巨大な草間さんが登場して話題になった。

春には、セーヌ川沿い、ポン・ヌフ近くのヴィトン店と老舗デパート サマリテーヌとの間に、この巨大な草間さん像がドーンと設置され、そこから早くも数ヶ月が経った。

 

現代アート作家として長くご活躍されているのに、私が草間さんのお名前を知ったのはわりと最近で、彼女を象徴する「ドット」が全面に使われた日本でのかぼちゃアートのニュースだった。

 

彼女のインパクトの強いご容貌と、それ自体は別に新しいアイデアでもなく、むしろ王道ともいえるドット柄の取り合わせ。

’’ちょっと変わったおばさんだな’’ というのが、失礼ながら最初の印象だったが、お歳を知って驚いたものだ。

 

草間さんもそうだが、1970年大阪万博『太陽の塔』でも有名な岡本太郎にしても、フランスに帰化した画家  藤田嗣治(レオナール・フジタ Léonard Foujita)にしても、一般的に形容されるいわゆる ’’柔らかい物腰のおとなしい日本人’’ とは随分違う気がする。

 

彼らは確実に、日本国内の '’規格’’ から大きくはみ出るタイプだ。

 

スポーツ界こそわりと最近だが、海外での日本人の活躍は何も最近始まったわけではなく、日本では知られていない素晴らしい方々も含め、各分野で実にたくさんおられる。

そんな先達の存在は、大きな誇り、励み、そして指針でもある。

 

 le 8 Août 2023


今年2023年はパブロ・ピカソ Pablo Picasso 没後50年に当たる。

 

スペインに生まれ、フランスで活躍したこの類い稀なる才能を持つ芸術家の、その名前を知らない人を探す方が難しいだろう。

私ももうずっと前から知っているが故に、ついこの間まで生きていた人なんだ! ということに改めて驚いた。

 

熟年期以降、老年期の顔写真の方がポピュラーなので、こんなに若々しいピカソに出会うと、また興味が深まる。

 

鋭い眼光もさることながら、なかなかの二枚目で、神経質そうな面も伺えるが、どこか型破りな面も持っていそうだ(勿論これらは、彼の残した多くの作品が先入観となっているわけだが!)。

 

私自身スペイン系や南仏系の黒髪男性が好みなこともあるが、この才気溢れる画家が多くの女性と浮名を流したことも頷ける。

 

この写真は、いわゆる『青の時代』から、次の『薔薇色の時代』へと移行する時期、パリのモンマルトルに居を構えた頃の写真のようで、照らし合わせると、ピカソ23歳のポートレートだ。

 

十代の、深い悲しみを抱えながらの芸術活動が、様々な出会いによって文字通り薔薇色の人生へと変化し始めた頃。

 

この強い意志を宿した青年の瞳に、20世紀初頭のパリという街が、とてつもないエネルギーの源として映っていたに違いない。

 

le 10 Août 2023


スペインにはもちろんだが、フランス国内にも、南仏アンティーブ Antibes、カンヌ近郊ヴァロリス Vallauris、そしてパリ Paris、 と、なんと三つものピカソ美術館 Musée Picasso がある。

 

現在パリのピカソ美術館では、デザイナー ポール・スミス Paul  Smith のキュレーションによる特別展が開催中で、各部屋ごとに趣向を凝らしたなかなか斬新な設(しつらえ)となっている。

 

ピカソがジョルジュ・ブラック George Braque と共に生み出した ’’キュビズム Cubisme’’、その手法によって描かれた彼の絵を、誰でも一度は目にしたことがあるだろう。

 

大人になってあちこちの美術館でピカソの生の絵に接してみて思うが、あれだけインパクトの強いピカソのキュビズム絵画は、印刷物ではその奇怪な部分にばかり目がいってしまうのに対し、本物の前に立つと、ピカソの息吹と共に、その対象物の信憑性が圧倒的な熱量でこちらに向かってくることに毎回驚く。

 

最近、どの美術館に行っても思ってしまうことがある。

せっかく目の前に本物があるのに、どうして多くの人々は、スマホの画面越しに見ることばかり、手元に記録することばかりに躍起になるのだろう。

 

「本物」だけが持つパワー、「ナマ」に接することでしか得られないものがこの世にはたくさんある(実は全てがそうだ)。

自分の「眼」「感覚」をフルに使ってこそその真髄に触れられるということ、代替などないことを、いつも肝に銘じていたい。

 

le 11 Août 2023


森の中、着衣の男性二人と何故か全裸の女性が、くつろいだ雰囲気でピクニックを楽しんでいる場面を描いたエドゥアール・マネ Edouard Manet の『草上の昼食』(1863年)という絵がある。

濃い緑色の画面の中に、こちらに視線を向けている女性の裸体が白くくっきりと浮かび上がっているこの絵は、絵画好きな人でなくともどこかで目にしたことがあるはずだ。

 

ピカソは晩年、自分にかつて大きな影響をもたらしたマネの、中でも彼の代表作といわれるこの作品を、1960年頃から数年にわたってしつこいほど様々なヴァージョンで描いている。

タイトルもズバリ『Le Déjeuner sur l'herbe d'après Manet  マネに基づく草上の昼食』で、その数は140点にものぼると言われており、そのうちの数枚がパリのピカソ美術館に所蔵されている。

 

80歳になって尚、半世紀年上の先輩画家の作品を題材に、精力的に作品を生み出すパワーはどこからくるのだろうか。

 

美術教師だった父の指導を幼少期から受け、早くから才能を開花させていったピカソは、二十代後半には芸術家として成功し始め、晩年にはあらゆる意味での成功をおさめていたようだ。

 

とすれば『草上の昼食』にこだわり続けた日々は、とことん純粋に ’’描くこと’’ への情熱が彼に筆を握らせていたと想像できる。

 

子供のごとき純真さで、尚も高みを目指し続けたのだろう。

いや、もはやそんな域すら超えたところで、あの大きな目を輝かせながらキャンバスに向かい続けていたような気がする。

 

le 12 Août 2023


一般的に、観光旅行には美術館訪問がつきものだが、旅先で様々な文化の違いに朝から晩までどっぷり浸かり、その上に美術鑑賞ともなると、相当のエネルギーが要るものだ。

 

ホテルで摂る朝食にも違いがあり、そういうレヴェルまで含んだ ’’文化の違い’’ を数えていけば、旅行中の体験量は凄まじい。

交通機関ひとつ利用するにも、異国では戸惑いもつきまとうし、何かと普段の生活とは違う緊張感が求められる。

言葉も違えば、ルールもマナーも違う。

四半世紀ほど前までは、各国ごとに通貨が違ったから(同じ西欧内であれ、今でもスイスやイギリスは違うが)、国境を越えるたびに両替をし、頭の中の計算機もフル回転させたものだ。

 

言うまでもなく、そういうひとつひとつが全て「旅の醍醐味」であり、ひいては人生の「糧」「自分の血肉」となる。

だがその真っ只中では、楽しさばかりではなかったりもする。

 

パンパンに予定を詰め込む観光旅行は、大人でさえぐったり疲れるほどだから、まだ小さい子供にとってはかなりのものだろう。

 

そもそも芸術作品には、作家の『魂』が込められている。

鑑賞する側も全力で対峙してこそやっとその作品に向き合える。

美術館という場所は、そんな ’’エネルギーの塊’’ が大量に押し寄せてくるのだから、見て回るだけでもくたくたになって当然だ。

 

でも、自分のペースで休み休み味わっていけばいい。

そう、まさにそれは、人生と同じだ。

 

le 13 Août 2023


かれこれ40年近く前、初めて訪れたパリでその建造物を見た時、「まだ工事中なんやなぁ〜」と全く疑いもしなかった。

後から思えば、落成からそれほど年月の経っていない時だったから、尚さらその空気を強く感じたのかもしれない。

 

近代芸術の愛好家 ジョルジュ・ポンピドゥー(1911-1974)が大統領職にあった1969年、ある総合文化施設の構想を発表。

1977年、造形芸術、デザイン、音楽、映画関連の施設および図書館を含む近現代芸術の拠点として、パリのド真ん中にその斬新な姿を現した時、一部の市民からは大きな避難を浴びたそうだ。

 

建物全体を覆う無数の配管、工事現場の足場さながらの外観は、旧いパリの街並みに溶け込みようがなかっただろう。

「工事中」だと疑わなかった私もそれが「完成形」だと知った時に心底驚いたように、当時、1889年のパリ万博でエッフェル塔が登場した時のような拒否反応が起きたことは容易に想像できる。

 

ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター Centre national d'art et culture George Pompidou。

通称 ポンピドゥー・センター Centre Pompidou と呼ばれるこの施設には、国立音響音楽研究所、通称 イルカム IRCAM と呼ばれるコンピューター音楽の研究 / 制作 / 教育機関も入っている。

 

構想が練られる中、フランスの世界的な現代作曲家 ピエール・ブーレーズ Pierre Boulez(1925-2016)の存在も大きかったからに違いなく、新しいものが生まれる中でどんな人物が関わることになるのか、まさに歴史は、人と人との「ご縁」で紡がれてゆく。

 

le 15 Août 2023


絵画は、美術館の中だけにあるとは限らない。

 

’’落書き’’ というレヴェルのものから、誰が見ても ’’芸術作品’’  と呼ぶに値いするもの、その間に位置するものも含め、パリの街を歩いているとあちこちで様々な ’’アート’’ に出会える。

 

現代アートの宝庫 ポンピドゥー・センターのほど近く、ジェフ・アエロソル Jéf Aérosol というナント生まれのフランス人が描いた壁画は、いつ見てもものすごい迫力だ。

 

1960年代にフランス南部で始まった ''ステンシル・グラフィティ’’ という手法で描かれており、この手法が1980年初頭にストリート・アートに登場して以来、彼はその第一人者として実に40年以上、欧州のみならず世界各国の街の壁に作品を描き続けている。

 

世界中に神出鬼没の、イギリスを拠点とする素性不明のアーティスト、バンクシー Banksy による壁画もこの手法だそうだ。

 

2011年制作のこの壁画のモデルを、私はずっとカタルーニャ生まれの芸術家 ダリだと思い込んでいたのだが、今回詳しく調べてみて、ジェフ・エアロソルの自画像だと初めて知った。

 

この作品のタイトル ’’Chuuuuttt !!!’’(日本語で「しーっ!」)のままに、街に溢れる些細な音に耳を傾けてみようではないか。

喧騒の彼方に、街の鼓動、息吹が、ほら... 確かに聴こえる... !!!

 

le 18 Août 2023


フランスに来た当初、こちらの人たちは何かというとすぐ ’’水辺に行きたがる’’ ことが不思議だった。

演奏旅行地が海の近くだったりすると、無理やりにでも時間を作って海へ繰り出そうとする、季節を問わず、そう、真冬でさえ。

 

周りを海に囲まれ、山も多いから川も多く、とても「水」に恵まれている日本の国土。

生まれた時から何らかの ’’水辺’’ が身近にある日本人にとって、「水」は常にあるもの、当然あるものという認識が、その有り難さを気づきにくくしているのかもしれない。

 

地球は『水の惑星』と言われるように、表面積の7割が水で覆われていることはよく知られている。

人間の身体も、年齢によって多少の違いはあるが、概ね7割が水でできているという。

 

これほど「水」というものの割合の高い環境で生かされていることを思うと、本能なのか、潜在意識という部分なのかはわからないが、何故か ’’水辺’’ に惹かれるのは、もしかしたら生命体として無意識に「水」に呼応しようとしているからかもしれない。

 

パリは海までは距離があるが、街の真ん中を流れるセーヌ川と共に、サン・マルタン運河 Canal Saint-Martin も、気軽な ’’水辺’’ として一年を通して多くの市民が集う場所だ。

 

人々はそこでくつろぎ、夢を、愛を語り、時に人生を考える。

普段着のパリ、パリの日常がそこにある。

 

le 22 Août 2023


「旅」という言葉の意味を調べると、以下のように出てくる。

「住む土地を離れて、一時、他の離れた土地にいること。また、住居から離れた土地に移動すること。」「自宅以外の所に、臨時にいること。」

 

よく語られる例にこういうものがある:「あなたは一週間、常夏の美しく平和な島に旅行できるとしたら、その間、多少の無理をしてでも、その一週間を全力で満喫しようとしませんか?」

大多数の人は、「もちろんそうする!」と答えるだろう。

一週間したら自宅に帰ることがわかっているから、その貴重な時間を、目一杯、限界まで味わい尽くそうとする。

 

ところで、視点をちょっと遠く、...そうだなぁ、宇宙のあたりまで持っていってみるとしようか。

そして、イメージしながら自分自身に問うてみるのだ。

己の人生、そのものが「旅」なのだとしたら・・・

___ ___ ___

 

背中に大きなバックパック、前にはリュック、キャリーバックを引きずり、照りつける真夏の太陽の下をカップルが行く。

パリ旅行を選んだ二人は、この重い荷物を背負いながら、へとへとになってでもこの期間を楽しもうとしているに違いない。

 

人生も全く同じことだと言えはしまいか。

自分の荷物を背負って、この時代の地球に生まれてきた。

あらゆることを、すべて自分で決めて。

いつか還るその時まで、全力で楽しみ、味わい尽くす為に・・・

 

le 23 Août 2023


18世紀末より、かつてパリ市内に、多い時には100を超えるパッサージュ Passage が作られたのだそうだ。

 

歩行者専用の商店街として雨を避ける屋根があり、舗装されていない泥だらけの通りに比べ、タイル貼りの床はご婦人方が長い洋服の裾を気にせずともよく、一斉に注目され始めたに違いない。

 

時代と共に今ではかなり数が減ってしまったが、とはいえ個性的なパッサージュが数十は残っており、どこも私のお気に入りだ。

 

そのひとつ、この、モザイクタイルが美しいパッサージュ、ギャルリー・ヴィヴィエンヌ Galerie Vivienne は、1823年に建設されたそうなので、まさに今年で200年を迎えることになる。

 

ガラス張りの天井からは四季を問わず自然光が差し込み、特に今の季節、強い日差しが床の模様をくっきりと浮かび上がらせる様は、いつ見ても惹きつけられる。

 

まるで、大宇宙を想像させるかのようなこのデザイン。

曲線は、太古の昔から連綿と続く全ての生命体の連なりを表しているかのようにも見え、いくつもの輪廻を繰り返した魂同士が、今、この時代にご縁を受けて出会うことになる・・・

 

きっと我々は大昔から、大きな理(ことわり)の中、人智を超えた大きな力によって守られ、導かれ、生かされてきたのだろう。

ふと、そんな想いが眩しい光と共に降ってきた。

 

le 25 Août 2023


早朝のチュイルリー公園 Jardin des Tuileries。

西の方角には、コンコルド広場 Place de la Concorde にそびえるエジプトから贈られたオペリスク Obélisque、その向こうには言わずと知れたエトワール凱旋門 Arc de Triomphe de l'Etoile。

更にその向こう、知っている人しか気づけないほど微(かす)かに写っているのがデファンスの凱旋門 Arche de la Défense だ。

 

実は撮影している私の背面にはカルーゼル凱旋門 Arc de Triomphe du Carrousel があり、それを含め、これらは一本の線で真っ直ぐにつながる位置関係に建てられている。

約8km に及ぶこの直線は ''凱旋路 la voie triomphe’’、’’王の道 la voie royal’’ などと呼ばれ、計算し尽くされた造形となっている。

 

エジプトの三大ピラミッドの位置関係もそうだが、もっと身近に感じられるのは日本の神社、そして霊山との位置関係がそうだ。

 

東の鹿島神社と西の出雲大社をつなぐライン。

伊勢神宮と出雲大社の関係性。

淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神社を中心に、伊勢、出雲、諏訪、高千穂、熊野の各地がつながる「陽のみちしるべ」、等等。

 

緯度や経度、距離、点と点をつないだ時の形 etc.  ’’結界’’ というものもこの考え方に含まれると思うが、何れにせよ古(いにしえ)の人々は、ニンゲン目線の世界観ではなく、自然界や大宇宙とつながった大きな世界観の中で物事を進めてきたように思う。

大いなるものへの畏怖、ニンゲンが非力であることを十分理解しているが故の思想に、強いパワーを感じるのは私だけだろうか。

 

le 27 Août 2023


インターネットが出始めた当初、接続には時間と共に料金が加算されていくシステムで、それなりの敷居の高さがあった。

 

その後、誰もが携帯電話を持ち、地球上のどこにいても、余程のことがない限り気軽に使える世界になって何年経つだろう。

 

TV 電話が完全に SF の中の夢物語でしかなかった時代を経験していると、今でもふと SF 世界にワープしたような錯覚を抱く時があるし、郵便と電話、せいぜい FAX だった連絡手段が、電子メールに始まり、次から次へと新しいツールが登場する昨今。

芸能人や政治家でなくとも、文字通り誰でも自己発信の場を持て、会ったこともない者同士が自由にコミュニティを作り、ボタンひとつで際限なくつながることが可能な世の中となった。

 

ただ、たとえ人間が知恵を振り絞り、その類いの便利さをとことんまで発展させたとしても、絶対に届かない領域がある。

 

そしてそこにこそ、本来の人と人とのつながりの ’’本質’’ に触れられるものが在るのだと思う。

 

だから私たちは、手と手をつなぐのだろう。

 

その手段でしか伝わらない、得られない、とても大切なものがあるということを  ’’本能’’ が憶えている限り、私たちはまだ生身の ’’人間’’ でいられる気がする。

 

le 1 Septembre 2023


明治生まれの私の祖父母の時代には、祝言を挙げる当日になって、初めて自分の夫となる / 妻となる人と顔を合わせることも珍しいことではなかったそうだ。

 

または、幼少期に、両親たち、つまり両家の間で約束が交わされた ’’許婚(いいなずけ)’’ 同士が、適齢期を迎えて夫婦(めおと)になるというケースも少なくなかったようだし、昭和になると、年齢や様々な条件を照らし合わせて ’’お見合い’’ によって二人を結びつける ’’仲人(なこうど)’’ が大いに活躍した時代だった。

 

恋愛の場合、’’あの時たまたまあの場所に行ったからこそ、あのタイミングで出会えた’’ というようなことも多くの人が体験しているだろう、それがたとえ人を介したものだとしても。

 

どんな形で出会うにせよ、人生の伴侶は、自分の意思や思惑を越えたところからもたらされるもののような気がする。

 

これからの道のりが、決して楽しいことばかりでなくとも、互いへの信頼を失わず、支え合い、励まし合える相手なのかどうか。

手をとりあい、互いに微笑みを交わしながら、続く道を一緒に歩いていける相手なのかどうか。

 

若い頃ならロマンチックな考えに酔ったかもしれないが、思うに、ごく一部のカップルを除いて、究極的な答えは「わからない」、これが一番核心に近いのではないかという気がする。

 

その御縁を自分がどう捉えるか、結局はそこなのだろうから。

 

le 2 Septembre 2023


私たちは本能的に「手」に様々な能力があることを知っている。

まだ寝返りも打てない赤子が何にでも触ろうとするのは、興味と共に、己の周囲の安全性を的確に知ろうとする本能からだろう。

 

大人になっても私たちは、視覚や聴覚、嗅覚を使うのと同じように、日常的に手を使って物事を判断しようとする。

八百屋で野菜を選ぶ時も、新しい服、靴を選ぶ時だってそうだ。

 

また私たちは、目には見えなくとも、手に不思議なエネルギーが宿っていることも潜在的に知っている。

無意識に身体の痛む箇所に手を当てている経験は誰にでもあり、実際「手当て」という言葉があることでもよく知られている。

 

何かや、誰かを慈しむ時に、優しく手で撫でることもする。

大切な人が哀しんでいたら、思わず寄り添って背中を摩るだろうし、場合によっては相手の手を自分の両手で包み込むだろう。

 

掌(てのひら)から限りないパワー / エネルギーが溢れていることは、東洋医学の整体治療の例をみても明らかだ。

 

『胸に手を当てて考える』という言葉があるが、実際にそのポーズで考え事をする人はどれくらいいるだろうか。

おそらく「胸」も「手」も、小細工のきかない、嘘偽りのないものだけを発する部位だからこそ、こういう表現をするのだろう。

 

見つめ合うより、語り合うより、真に深く相手と繋がりたいと思う、その本能の表れが「手をつなぐ」動作をとらせるように。

 

le 5 Septembre 2023


夏らしいボーダー柄のポロシャツ。

足元はマリンブルーの若々しいデッキシューズ。

俳優さんだったかただろうか、若かりし頃はさぞ二枚目のムッシュだったに違いない。

...などと過去形で書くのが失礼なほど、今も尚、全身から溢れる ‘’二枚目ぶり’’ が健在でいらっしゃる。

柔らかい日差しの中、奥様とお散歩されるお姿から、幸せのお裾分けをいただけたような気持ちになった。

 

伴侶に限らず、人は、一生の間に沢山の人との御縁をいただく。

ある一時期とても濃い関係を結ぶ友人、恋人、そして師弟関係にもそういうものがある。

意図せずとも、人生の節目節目で、必ず何度も御縁が巡ってくる人もいる。

途切れたと思っていたのに水面下ではずっとつながっていて、実は一度も切れたことのない御縁に感謝が溢れる時もある。

 

ほんの少し何かがズレていたら一生出会うことなどなかった、そういう御縁もあることを思えば、何かがズレていたかどうかに関わらず、一生出会うことなどない人が大勢いるのも事実だ。

 

今、御縁ある人と、かけがえのない大切な人と、お互いに肉体を持って生きている間に沢山のことを共有しあおう。

積極的に共振し、共感しあえ、共鳴しあえる時を持とう。

 

お互いが、この世で肉体というものを持てている時間は、限りあるものなのだ、誰ひとり例外などなく。

 

le 6 Septembre 2023


この先一週間の予定、来月再来月の予定や段取りを考えるその同じ脳で、数時間後の明日のこと、逆にもっと長期的な、しかも複数の事柄を抱えながら同時に ’’今’’ を生きるなんて、人間はなかなかすごいことをやっているのだなぁと感心してしまう。

 

しかも小さい子供でない限り、自分ひとりだけでなく、家族に関するあれこれにも対応しながら、日々の仕事や生活の諸々に向き合っているのは、実は相当すごいことだと思う。

 

なんとなく心がざわざわする日、体調がどうも思わしくない日、それはもしかしたら、「ちょっとスピードを落とそうよ」「少し休んでもいいんだよ」というサインかもしれない。

 

体力氣力があるとつい頑張ってしまうのが私たちだから、身体さんや心さんがうまく調整してくれているのではないだろうか。

 

ただでさえ暑かった夏の疲れが溜まってきているこの時期。

そんなサインを受け取ったら、自分のタイミングでいったん OFF にしてみることを自分自身に許可しよう。

 

澄んだ空気の中に身を置いて、身体も心も手ぶらの状態になり、ふーっと深呼吸しながら周りをゆったり見渡してみるんだ。

 

客観的に自分を観察できたらきっと自分を褒めたくなってくる。

’’すべてはうまくいっている’’、そのことも、しっかり思い出せるはずだから。

 

le 8 Septembre 2023


情報の時代となった今、すぐ手の届くところに、ありとあらゆる情報が転がっている状態を誰しも当たり前だと思っている。

 

手軽に入手できることからの気軽に信じてしまう安直さや、多くの人が評価 / 同調しているというだけで何の疑いもなく鵜呑みにする傾向に、危機感を抱いているのは私だけだろうか。

 

加齢を防ぐ食材はこれこれです、とあれば翌日にはスーパーの棚が空になり、見ず知らずの人々の、あるいは操作されているかもしれない「いいね!」の数にまんまと煽(あお)られる。

 

断捨離という言葉が尤(もっと)もらしく流行れば、誰も彼もが「物を捨てる行為こそ精神性の高い者のとる行動だ」と傲慢な心得違いをし、本来の意味も理解せぬままその行動へと暴走する。

 

我々は、異なる肉体と、それ以上に異なる精神を持っている上に、育った環境、生きている環境も違えば、究極のところ「生き様」によって、各々が必要なものは大きく変わってきて当然だ。

 

時間の経過に従って、日差しの照らす場所が少しずつ移動していくように、何事も、一箇所にとどまり続けることはない。

 

すべてが移ろいゆく中で、今の自分にしか分かり得ない今の自分に必要なものを、今の自分がしっかり取捨選択していく。

 

その為には、山ほどある情報の中から、自分にとっての大切なものを見極める能力、そここそが問われるのだと思う。

 

le 10 Septembre 2023


同居する祖父母が数十人の団体旅行でフランス観光をしたのは、数えてみると彼らが還暦をとうに過ぎた年齢だったことになる。

 

海の向こうの遠い国のことなどなかなか知る術もなかった時代。

既に ’’西洋音楽’’ を専門に勉強し始めていた私は、祖父母が持ち帰った美術館や ’’リド’’ のパンフレットに目を輝かせながらお土産話をせがんだ、その時の心境を昨日のことのように憶えている。

 

私へのお土産が「フランス人形」だったこともよく憶えている。

正直、あの年齢の私にとっては飛び上がるほど嬉しい物ではなかったのだが、昭和の当時、明治生まれの祖父母が、孫娘への異国土産にと「フランス人形」を選択した心理、その背景にあるものを、漠然とながら理解できる年齢には達していた。

 

童謡『青い眼の人形』の登場が1921年(大正10年)。

祖父母たち世代が物資不足の困難な時代を生きた後、見たこともないものがものすごい勢いで日本に入ってくるようになる。

’’舶来品’’ という言葉は、「外国製の上等な物」「滅多に手に入らない有り難い物」という意味合いを含む特別な響きがあった。

今からは考えられないほど、高度成長期の日本では誰もが  ’’舶来品’’ に、それこそ目の色を変えていた時代だったように思う。

 

「フランス人形」を見ると、懐かしい祖父母のこと、あの時代、そして遥か海の彼方へ思いを馳せていた頃の...  大人になっていくことを少し持て余していた頃の...  あの頃の私自身を思い出す。

 

le 11 Septembre 2023


とあるパン屋さんの店先。

風車で粉を挽いていた時代に思いを馳せてみる。

村人が、今日は風があるなと思うと小麦の袋をかついで風車小屋にやってくる。風のない日は別の日を待つ。 --- そんなふうに、風の力を借りながらうまく貯蔵していくものだったらしい。

 

人口も消費量も格段に異なる21世紀にそんな悠長なことは言っていられないのだろうが、現代のように電動で高速製粉するよりも、風車による低速製粉したものの方がはるかに美味である、という研究文もあり、さもありなんと思う。

 

ともあれ、’’自然界の力を有り難く使わせていただく’’ という在り方、生き方に、本能的な心地よさを感じるのは私だけだろうか。

 

この地球という星は本来とても豊かな星で、その豊かさが絶妙なバランスで成り立ち、うまく循環するように出来ているという。

 

そんなにも有り難いところに住まわせていただいていることを、いつからニンゲンは忘れてしまったのだろう。

見渡してみると、動物さん、植物さん、鉱物も生物も、つまりニンゲン以外の存在は自然界とちゃんと共存しながら生きている。

 

空も、海も、大地も、元来とても豊かな状態のものを、わざわざ余計な手を加えては汚し、破壊しているのはニンゲンだけだ。

 

世界中の気象を操作し、種を操作し、いったいどこへ向かおうとしているのか、ニンゲンどもよ・・・

 

le 15 Septembre 2023


旧約聖書『創世記』に記される大洪水にまつわるノアの方舟のくだりで、洪水の水が退いたかどうかを確かめるために鳩を放ち、オリーヴの枝を咥(くわ)えて戻ってきたことでそれを知った、というエピソードから ’’鳩は平和の象徴’’ とキリスト教信者の間では信じられてきた。

それを世界中に浸透させるきっかけを作ったのは、今年没後50年を迎えたパブロ・ピカソ Pablo Picasso なのだそう。

 

1949年4月、第1回世界平和擁護大会がパリで開催され、そのポスターにピカソの描いた白い鳩が使用された。

’’使用された’’ というのには訳がある。

ピカソは、この大会のためのポスターデザインを依頼されていたにもかかわらず、こともあろうにすっかり忘れていたらしい。

期日ギリギリに、共和党員の詩人、小説家でもあるルイ・アラゴン Louis Aragon が、ピカソのアトリエで見た鳩の絵のことを思い出して大慌てでアトリエに駆け込み、まだそこにあった白い鳩の絵を持って印刷所に走った、という逸話が残っている。

 

それは『鳩』というタイトルの1949年1月に制作されたモノクロのリトグラフで、モデルになったのは、ピカソの友人である画家アンリ・マチス Henri Matisse から贈られたミラノ鳩。

大の鳩好きのピカソのためにマチスが贈ったのだろう。

まさかそれが、後の時代にまで ’’平和の象徴’’ と語られ続けるきっかけになろうとは思いもしなかっただろうけれど。

 

le 18 Septembre 2023


まだ年齢的にはかなり小さいこの少女が、早くも大人の女性の色気のようなものを潜在的に身につけていることに驚く。

けれどそれ以上に、この少女が、半世紀ほど前の古いフランス映画に出てきそうな雰囲気を放っていることが印象的だった。

 

そういえば、実家にある古いアルバムに、会ったこともない遠いご先祖様たちの写真を見つけては、「今の人たちとずいぶん顔つきが違うなぁ」と子供心に思ったものだ。

祖父母や両親たちの若かりし頃の、一緒に写っている人たちの顔つき / 顔立ち、昔の日本映画の俳優さんにも同じことを感じる。

決して髪型や服装に引きずられた印象なんかではない。

お化粧でもなく、顔つきそのものが時代ごとに微妙に違うのだ。

 

身体つきなら、シンプルに「食べ物」や「生活習慣」が関係していそうだと思いつくが、顔つきそのもの、もっと言えば、全身から漂ってくる雰囲気が、時代によってかなり違うように思う。

 

日常をとりまく環境なのか、風習や習慣からくるのか。

時代ごとの文化そのものも、当然大きく関係しているだろう。

 

21世紀の今、AI 型ロボットや、見分けがつかないほどソックリなゴムマスクの開発に余念がない、ちょっとおかしな時代だ。

 

百年後、二百年後、どんな雰囲気の、どんな顔つきの人間たちが、どんな生活を営んでいるのだろう。

その頃の地球は、本来の豊かさをどの程度保てているだろうか。

 

le 21 Septembre 2023


パリは、年間を通して観光客で賑わう街のひとつだが、中でも観光シーズンたけなわの夏の数ヶ月、様々な姿形の観光船がセーヌを賑わわせる。

 

この、モダンなデザインでもあり、見方によっては半世紀ほど前の、どこかレトロな電化製品を思わせる雰囲気の船が、来年のオリンピックに向けて大工事中のグランパレを背に、今日もたくさんの観光客を乗せて軽やかに川面(かわも)を滑っていく。

 

何十年も昔、パリに来たばかりの頃、おのぼりさんよろしくセーヌの観光船に乗った記憶があるが、その後といえば、日本からの知人の案内で乗ったのが、やはり数十年も前のことだ。

 

ルーヴルやオルセー美術館、ノートルダム寺院やコンシェルジュリー、エッフェル塔など、多くの歴史的建造物の川からの眺めは、地上で見るのとは当然ながら違ってくる。

 

日常的に、見ているようで案外よく見ていない、ということが、思った以上に頻繁に起こっているかもしれない、とふと思う。

見る角度が異なれば見え方も異なり、なかなか ’’全てを見たことにはならない’’ のに、自分ではしっかり見ているつもりでいるから、それに気づかず過ごしてしまうことが多いはず。

そもそも、全てを見ることなど出来ないのかもしれないのだ。

 

どこかでそれを自覚しながら、日々を過ごせたらいいなと思う。

その方がきっと、人や物事、あらゆるものに、優しい気持ちで寄り添える気がするから。

 

le 22 Septembre 2023


『おとなはだれしも、はじめは子供だった。けれど、そのことを忘れずにいるおとなは、ほとんどいない。』

子供向けに書かれた本のような体裁をとっているが、あくまで ’’かつて子供だった大人たち’’ に向けて書かれた永遠の名作 『星の王子さま Le Petit Prince』、その冒頭の献辞の中に、作者サン=テグジュペリ Antoine de Saint-Exupéry はそう書いている。

 

私たちは大人になってゆくにつれ、世間体や大人の世界の価値観に押し潰されるようにして、もともと持っていた伸びやかな、柔軟な感性を、無意識のうちに手放してしまうのかもしれない。

 

そういう ’’かつて子供だった大人たち’’ を憂い、サン=テグジュペリは、’’象を飲み込んだウワバミの絵’’ や ’’一日に日の入りを43回も眺めた’’ 様子、’’夕方には覆いガラスを被せてあげないといけない花’’ など沢山のエピソードを登場させ、ひとりひとりが子供だった頃の自分と対話する機会を促してくれている気がする。

 

お転婆娘たちの、’’今’’ を全力で遊ぶ姿のなんと眩しいこと!

本来の乗り方などどこへやら、’’今、この瞬間’’ を、好きなように最大限に楽しむべく、自分の持つパワーをフル作動させる。

 

魂から湧き出るピュアな発想は、大人になったからといって無理やり封じ込めなければいけないものなんかではない。

我々はひとりの例外もなく、年齢による肉体の変化と向き合わねばならないが、精神は、好奇心は、本来の自分のままでいい。

 

... けれど、そのことを分かっている大人は、なかなかいない。

 

le 25 Septembre 2023


フランスの公立の小学校は、日本とはかなり違い、入学式もなければ卒業式も、運動会のような催し物もないのだそう。

ただ、年度末の校外学習があるようで、八月末のある日、街で賑やかな子供たちに遭遇した。

学校以外の場所に、クラスメイトたちと出かける貴重な機会とあらば興奮は計り知れず、全身から喜びを溢れさせている様子に、ついこちらまで笑顔がこぼれる。

 

誰もが子供の頃、運動会や遠足の前夜は目が冴えまくり、ロクに眠れなかった経験を一度や二度はしているのではないだろうか。

私も例外ではなく、特に運動会や文化祭など、年に一度の「パフォーマンス」をする日が本当に好きだった。

そしてそれは小学校よりも中学校、更に高校、大学へと進むにつれ、どんどんエスカレートしていくことになる。

高校、大学時代に至っては、大げさに聞こえるかもしれないが、その日に燃え尽きる勢いで一年間を過ごし、終わった後の ’’抜け殻状態’’ から復活するやいなや、本業そっちのけでまた翌年の催し物に考えを巡らせる日々が始まる、そんな学生時代だった。

 

大人になってくると、’’特別な日’’ に向けて、準備と緊張の高まりの中で日々を重ねていくには、責任からくるある種の苦労もあるものの、ベースにはやはりなんとも言えないワクワクが伴う。

 

自分の魂がひとつでも多くのワクワク事を経験できるように、いくつになっても、自分をそういうシチュエーションに置きたい。

この肉体を脱ぐその日がくるまで、人は皆、そういうふうに生きる為にこそ生まれてきたのだと、私はそう思っている。

 

le 27 Septembre 2023


真夏の間は、夜の10時頃になってもまだ「夕方」が終わらない。

飲んで食べて喋って笑って...  いつまでも暗くならないから延々と続く、それがこちらの「夏」だ。

 

勢いそのままに、真夜中零時を迎えた瞬間、近くのバーやカフェから聞こえてくる若者たちの「Joyeux Anniversaire 〜♪(いわゆる Happy Birthday to You 〜♪)」の歌声。

 

けれど、何事もずっと同じ状態が続くことがないように、日照時間の長い時期も、そういつまでも続くわけじゃない。

 

九月も末となると日没は7時半すぎ... とだいぶ早まってきた。

 

気温高めのよく晴れた日の夕方。

沢山の思い出と共に去りゆく晩夏の西陽、こんな日差しもそろそろ今年は見納めだろうか。

 

くっきりと、見事な明暗を作るその様は、乾いた空気の中でパリッと潔い表情を作り出す。

高温多湿の日本で見る「影」のニュアンスとは、何かとても違うものを感じる。

 

この国の人たちは、物事の終わりや変わり目を、時として驚くほどカラッと受け入れるように思うのだが、それは気候とも関係しているのかもしれない。

 

le 28 Septembre 2023


エレガンス  élégance:フランス語

 

 

ふっ... とした瞬間に垣間見える、なんとはなしの気品。

 

外側から付けたものではなく、内側から滲み出てくるもの。

 

その佇まいから自然と溢れる優美さ。

 

 

深き森に生息する子鹿の、その瞳が捉えた、夜の湖に映る柔らかい月光。

そんな風景にいきなり飛び込んだかのような不思議。

 

le 29 Septembre 2023


いつかの昔の、

 

あんなことがあったあの時の、

 

言葉にできない気持ちをもてあましていたこと。

 

その時のことが、

 

今では少し甘酸っぱくもあり、

 

ただ懐かしい。

 

誰もが持つ、心の中の秘密の小箱よ。

 

le 30 Septembre 2023


九月の肌寒い日々、「あぁ、このまま季節は先へと進んでいくのか...」と遠ざかる夏を寂しく思ったが、再びの気温上昇で汗ばむ日を味わうと、どこかで少しホッとするのがなんとも不思議だ。

 

小さい頃(それを「学生の頃」という意味合いを込めてもいい)は、無意識に ’’先々’’ に焦点を合わせ、前へ前へという意識の中で日々を過ごしていたように思う。

車窓から眺める景色の、先へ先へと目を向け続けるように、だ。

 

けれどいつの頃からか、列車の後方に流れてゆく景色、それらに名残惜しさのようなものを感じるようになってきた。

 

「過ぎ去る景色を、果たして自分は十分に味わい尽くしたのだろうか」という思いなのかもしれない。

 あるいは・・・

’’過ぎ去りしものへの郷愁’’ なのかもしれないが、これが年齢の増加に正比例するのは、ある意味、理屈にあったことでもある。

 

しかし、物事はその捉(とら)え方によって全く変わってくる。

「コップに残っている水を、『もう半分しかない』と思うのか、『まだ半分ある』と思うのか」というアレだ。

 

十月に入った今、’’今年’’ が4分の3過ぎてしまったと思うのか、まだ4分の1あると思うのか。

 

大丈夫、どんな時も、何も深刻になる必要などない。

捉えたいように捉え、笑顔で進んで行けばいいだけのこと。

 

le 1 Octobre 2023


自宅のリヴィングでくつろぐように、太陽のエネルギーを全身で受けながらの屋外での独り時間。

 

家の中にいる時とは別の、伸びやかな発想が湧いてくる。

 

自分を最大限に肯定し、大切に受け止めた上での発想が。

 

ちょっとした環境の違いは、実は思っている以上に大きく作用するのかもしれない。

 

...と、そのことを意識しているかどうかで、様々なことが大きく違ってくるのだ、実は思っている以上に。

 

le 2 Octobre 2023


出先での暫(しば)しの休憩。

 

どんな場所でも、そこを自分の場所と決めてしまえばいい。

 

さぁ、サンドイッチを取り出して、軽くひと息つくとしよう。

 

周りの目などどこふく風。

 

場所も、時間も、自分のチョイス、自分に一番いいように。

 

いつも、至ってシンプルに。

 

自分の心地の良きように。

 

le 3 Octobre 2023


流るる川

 

浮かぶ雲

 

そよぐ風

 

遠き想い・・・

 

 

あのことも このことも

 

やがて全ては交わり 溶け合い 彼方へと向かう

 

何もかも 全てが贈り物だったと識(し)る深い歓びとともに

 

le 6 Octobre 2023


過ぎ去った夏を懐かしむように、太陽の下に肌を出す。

 

ガクンと気温の下がった九月の後では、まるで映画の本編の後の、思いがけない特別編を見せてもらったかのように、この  ’’オマケ’’ の暖かさが嬉しいものだ。

 

これからの季節に備えるべく、少しでも陽の光を浴びておこうとする気持ちは、こちらの暗く寒い冬を、体感として知れば知るほど深く理解できるようになる。

 

日傘や鍔(つば)の広い帽子、長袖シャツ、夏仕様の手袋まで総動員させて、日焼けから身を守る日本の人たちには驚きだろう。

 

例えばパリは、日本とはだいぶ緯度が違うから、「陽の光」への認識も違ってくる。

 

こちらの常識が、あちらでは非常識。

 

自分の常識は、他人様には非常識。

 

国同士、民族同士、この地球上は相反する「常識」のオンパレードなのだ。

 

’’人の数だけ「常識」がある’’、決して大袈裟ではなく、そう思っている位で丁度いい。

 

le 9 Octobre 2023


ランチの時にワインを頼む人が珍しくないように、こちらでは昼間からのビールも飲み物の選択肢のひとつでしかない。

 

日本から来たばかりの頃は、「真昼間からアルコールを飲むなんて!」と呆れながら驚いたものだが、それも遠い昔。

 

今や私も、仕事のない日の日中、友人とカフェで会う時などに、カフェ(コーヒー)よりもビールを飲むことも少なくない。

 

半世紀ほど前までは、おそらくその位置を ’’ワイン’’ が占めていたと思うが、21世紀の今、大抵どこのカフェでも、それぞれのお店のチョイスで生ビールを数種類置いている。

よっぽど銘柄を指定したい時以外は、「un demi(250ml)」とオーダーすれば、そのお店の一番安い銘柄を出してくれる。

自宅では飲めない ’’生ビール’’ を楽しむ機会でもある。

 

日本のように、日が落ちてからの飲み物という認識でもないし、昼夜問わず、ベロベロになるまで酔っ払っている人も三十年住んでいて一度も見たことはない。

 

ふらっと入ったカフェでの、ひと休みの生ビール。

 

パリの日常のワンシーンだ。

 

le 10 Octobre 2023


気に入った場所があれば、そこに腰を下ろしてみることだ。

 

委ねてみることで、磁場エネルギーと共鳴する。

 

その場所に受け入れてもらえた時、温かい抱擁のようなものを感じるだろう。

 

その時はじめて、リラックスしている自分に気づく。

 

ゆりかごの中で安心しきっている赤子のように、風景に抱(いだ)かれ、一体となったその様子は、辺りに安堵の ’’氣’’ を放つ。

 

大自然のそれとはまた少し違うが、街もそこここに、私たちを受け入れてくれる素敵なエネルギーを秘めている。

 

それを引き出すのは、個々の心の持ちよう、それ次第。

 

とある日の、心弛(こころゆる)びの夕暮れ前。

 

le 11 Octobre 2023


目線の下に空がある、雲が流れる。

 

思わぬところでの意外な遭遇。

 

空は、いつも「上」にあるとは限らなかった。

 

そうだったのか...!

 

日常が、いかに ’’固定観念まみれ’’ かと気づかされる。

 

ふっ... と縛(しば)りや囲いがとれた時、見え方が全然違ってくる。

 

とすれば・・・

 

相手から発される言葉の、その向こうにこそ、本当の気持ちが隠されているかもしれないのだ。

 

「辛い」「しんどい」「助けて」、と言えないだけで。

 

「ありがとう」「大好き」「愛してる」、と言えないだけで。

 

le 12 Octobre 2023


大胆に肩を出したサテンのドレス、首まわりには、葉っぱを模した羽根製のマラボーが揺れる。

 

ふと、かすかな声でシャンソンが聞こえてきた...  ような気がした。

 

妖精や精霊とめったに遭遇できないとしても、雑踏の中、誰ひとり注意を向けないところにさえ、それぞれの素敵な物語は紡がれている...  のかもしれない。

 

そんなあれこれを、’’ありえない’’ と言い切ることができようか。

 

この世は、あまりにも多くの、とうてい人間が把握しきれないたくさんのことで創られている、そのことだけは、何がどう転んでも動かしようのないことなのだから。

 

le 13 Octobre 2023


時には斬新に。

 

型破りに。

 

独自の表現を世に問うてみることだ。

 

但し!

 

『型破り』とは、本来の「型」を十二分に己のものとした上で、それを ’’破る’’ からこそ。

 

型も知らないうちから、むやみに、ただ自分勝手にやることを『形無し』という。

 

先ずは、「型」を知ろうとしなければ、永遠に何も始まらない。

 

そしてその「型」は、いったん自分の身に浸透した暁には、常に自分を本来の位置に正してくれるものでもある。

 

どんな ’’道’’ にも言えること。

 

幾つになっても肝に銘じていたいこと。

 

le 15 Octobre 2023


気温は下がってきているが、穏やかに晴れ、風もほとんどなく優しい陽射しの今日、地下鉄3番線に乗って ’’そこ’’ へ向かう。

 

先客がいて、ヘッドホンで聞いているのは、問うまでもなく ’’彼’’ の作曲した曲に違いない。

左手に小ぶりの手帳、右手にはペンを持ち、時折り、文字を書きつけている。

 

静かに佇んでいる青年は、他の観光客から話しかけられた様子からすると、どうやらスペイン人のようだ。

 

何人もの人々が通り過ぎてゆく間、その青年と並んでお墓の前に立ち、私も静かなる時を過ごす。

 

ほどなくして私の頭の中に流れてきたのは、Op.25 - No.1。

通称 ’’エオリアン・ハープ  Aeolian Harp’’ と呼ばれる曲だ。

 

今日のお天気、その場の空気がその曲を選んだのだとわかった。

まさにピッタリだった。

 

大理石に刻まれた横顔に、柔らかい木漏れ日が降り注ぐ。

彼の左横顔を見つめながら、その宝石のような曲に浸り、やっぱり今年も、心からの感謝を伝えずにはいられなかった。

 

道すがらずっと頭の中で鳴り響いていたその曲を、帰宅してから大好きなコルトー Alfred Cortot の演奏でしみじみ聴いた。

作曲者の指定したテムポに限りなく忠実な、軽やかなるそれを。

 

le 17 Octobre 2023


教会の塔が、まるで生き物のように、晴れた秋空に向かってどこまでも伸びていきそうな勢いで屹立している。

そう見えるのは、空の表情も一役買っているからかもしれない。

 

何事も、目の前にある現象それじたいはひとつなのだが、それをどう受け取り、どう見るかは、人の数だけあるように思う。

そしてさらに、己の目に映るさまは、その時の自分自身がどんな心境なのかにも大きく左右されそうだ。

 

世界は常に、様々な事柄を抱えながら時を重ねていっている。

「マイナス事」にカウントされることが地球上のあちこちで勃発しているが、人類史上、何も今始まったことでもない。

 

大切なのは、おそらくそれ以上にたくさんの「プラス事」が在ることを、いつも、どんな時も、忘れずにいること。

 

自分がどちら側の世界にいたいのか。

そこをしっかり持ってさえいれば、いつもそうあり続けられる。

 

けれどそこに、たった一滴の不安を混じらせてしまうことで、ものすごい力によって望まぬ現実の方へと引っ張られてしまう。

 

この世の仕組みは、いたってシンプル。

自分がどちら側の世界に身を置きたいのか、その意識だけだ。

 

le 18 Octobre 2023


暑い夏の間じゅう、あちこちの路上で歌い続けてきたのだろう。

まんべんなく綺麗に焼けた小麦色の肌が、その日々を思わせる。

 

人間の感覚とは面白いもので、真夏の、30℃を越える猛暑の後の20℃は肌寒く感じるものだし、急に冷え込みをもたらした冷たい秋風を味わった後だと、お日様が照りつける20℃の日中を、汗ばむ陽気だと認識する。

 

行きつ戻りつの、移りゆく季節の間(はざま)。

 

夏の終わりの恋歌を、今、来年までお預けだと名残り惜しむように、情感をこめて歌う彼女。

 

八百屋に魚屋、そして肉屋。

ワイン屋、チーズ屋はいったい何軒あるだろう。

気どらないパン屋やカフェもあれば、チョコレート屋もある。

薬屋にスーパーマーケット、古くからの金物屋。

そして花屋も軒を連ねている。

 

そんな、庶民的なマルシェの、まっすぐな長い通り。

 

その声は、石畳を走り、そぞろ歩きの人々の会話にそっと加わってはまた舞い戻り、小粋な余韻を辺りに残す。

 

思いがけず、’’夏’’ からの忘れ物が届いたかのような午後。

 

le 19 Octobre 2023


雨風しのげる場所がある。

肉体を維持するための食料を手に入れることができる。

 

なんといっても、自分の身体がきちんと機能してくれること。

口からものが食べられ、穏やかな睡眠がとれること。

 

それらがどれだけ有り難いことなのか、つい忘れがちになる。

 

だが、肉体の維持はできたとしても、その中身が渇いてしまったら我々は生きていくことが難しくなる、そのことも忘れがちだ。

 

自分の生活に、自分の人生に、潤いを、豊かさをもたらしてくれるもののことを、決して軽んじてはならない。

 

人それぞれ、それが何かは違う。

だからこそ、自分で知っておかねばならない。

 

己の心ほど、誤魔化すことの出来ないものはないのだ。

騙(だま)すことなど、どんなに頑張ってもできはしないのだ。

 

だから、一見なくてもよさそうに思えたとしても、いつも大切にしていなくてはならず、そのための場所を、他のくだらないもので埋めてしまってはいけない。

 

たいていの場合それは、目に見えないものや、’’永遠’’ とは対極の、儚(はかな)いものだったりするからこそ余計に。

 

le 20 Octobre 2023


携帯電話が日常と切り離せなくなって久しいが、いわゆる ’’歩きスマホ’’ をやる人の多さに辟易させられるのは私だけだろうか。

本人は人とぶつからない気でいるのだろうが、対面から来る他者との距離は、実は思っている以上に早いスピードで縮まる、そのことを ’’歩きスマホ民’’ の方々は全くお分かりでないようだ。

また、呆れるほど多く見かける ’’道の真ん中で突然立ち止まってスマホに集中する人’’ にも、私は常々良い印象を持っていない。

 

考えてみてほしい。

’’歩き読書’’ をしている人や、’’道の真ん中で突然立ち止まって本を読みふける人’’ がどれだけいるだろうか。

 

私個人の意見に過ぎないが、同じように手元に目線を落としている姿でも、それが携帯電話なのか、それとも本なのかによって、本人から無意識に発される波動はものすごく異なるように思う。

 

正直、スマホ画面に集中している姿はあまり美しく見えない。

 

反して、読書をしている人の姿は、気のせいかとても知的に、美しく見える。

 

もしかしたら我々が考えている以上に、「携帯電話」と「本」からの影響には、とても大きな差異があるのではないだろうか。

 

あくまで私の肌感覚に過ぎないが、見えない部分で、密かに脳味噌の変革が企てられているとしても不思議ではない気がする。

 

le 22 Octobre 2023


案外、そのものを直に見るよりも、何かに映った状態を見ることで、その実態を深く知ることになる場合がある。

 

会社の面接官を担当することが多いという旧い友人が、こんなことを言っていた。

男性社員の採用を決める面接では、志願者の奥さんにも同伴をお願いするのだそうだ。

本人だけを見るよりも、驚くほど沢山の情報を得ることができる、と話していたのが印象的だった。

 

似たようなことを連想させる ’’類は友を呼ぶ’’ という言葉があるように、その人の友人を知ることで、自分とのつきあいだけではわからない別の面を垣間見る時がある。

 

なんとなく卑劣な話に聞こえるだろうか?

 

いやいや、そういう話がしたいのではない。

 

我々は誰しも、いくつもの側面を持っている生き物だ。

もしかしたら自分でも把握しきれていないほど沢山の。

そして、環境の影響をとても受けやすい生き物でもある。

 

さて、この先の人生、どんな自分で在りたいか。

 

自分ひとりで磨いていける部分ももちろんあるが、もしかしたら、人間関係を含むどんな環境を自分で選んでいくか...  実は想像する以上に深く関係してきそうだ。

 

le 25 Octobre 2023


これくらいの年齢だった頃。

毎日をどんな感覚で生きていただろうか。

何を見、何を考え、何を思いながら過ごしていただろうか。

 

エンプティーになってコトンと眠りにつく毎日、常に ’’今 ここ’’ に焦点が合っていて、楽しいことに没頭するにせよ、辛いこと、悔しいこと、納得できないことに腹を立てるにせよ、感情をしっかり受け止め、全力で物事に向き合っていたような気がする。

 

過去をいつまでも思い悩んだり、’’将来’’ などというぼんやりしたものに不安を募らせたり、そんな ’’今ではない いつか’’ なんぞに思考軸をもっていく暇などなかった。

というより、そんなテクニックや発想さえなかったともいえる。

 

だが大人になるにつれ、知恵がつき経験が増し、もちろん沢山の良きことを身につけてこられただろうが、それらと引き換えに、あの頃に持っていた無防備で無鉄砲な勢い、自分の願望に正直である生き方を、どこかに置き忘れてしまってはいまいか。

 

己の可能性を120%信じて疑わなかったあの頃の自分のことを、まるで他人のことのように思えてしまってはいないだろうか。

 

だが、思いわずらうなかれ。

 

幾つになってからでも、『宇宙との強い繋がり』を本能的に知っていた頃の自分に戻ることは十分に可能だ。

いつからでも、’’その地点’’ にしっかり立つことは可能なのだ。

自分が、本気で、その気になりさえすれば!

 

le 26 Octobre 2023


普段、何気なく目にしているものが、そう意識していなくとも、自分の深いところに何らかのものを残していそうな気がする。

 

日々の食事が、この肉体、内臓や血液、細胞のひとつひとつを作り、生かしてくれているように、目から、耳から入ってくるもの、それらが全て、’’私’’ というものを作っている要素だと思う。

 

そんな、自分の外から入ってくるものに対して生じるもの、つまり心の反応、ふと湧き上がってくる感覚、頭に浮かぶことも含め、自分の身に起きていることは、全て自分を形成するものだと捉えるのが自然なことのように思える。

 

もっと言えば、自分の持つ感情ひとつひとつさえもだ。

そうではないと誰が言い切れるだろうか。

 

負の感情を持ってはいけない、負の現実を見てはいけない、などと言っているのではない。

そんなことは、人間をやっていたら当たり前に起きること。

 

けれど、それらをどう受け止め、どう消化 / 昇華していくかで、自分自身に及ぼす影響がまるっきり変わってくる気がする。

 

だからこそ思うのだ。

自分を作っているのは、どんな時も己自身なのだと。

 

晴れやかな、自分に誇れる自分でいられるように、そのことをいつもどこかでしっかり意識していたい。

 

le 28 Octobre 2023


’’書を捨てよ、町へ出よう’’

 

私の東京での学生時代、日本の演劇界は、長年水面下でじわじわ熟成させてきたものを、小劇場やアングラ演劇という形をとって、マグマのように熱きものを迸(ほとばし)らせていた。

 

それらは途轍もないエネルギーを放っていて、舞台を見てきた興奮で眠れぬ夜を幾晩も過ごしたし、新作はもちろん、古今東西の様々な戯曲を読み漁っては、音楽界とは別の、不思議な魅力に溢れた世界に深くのめり込んでいくのに時間はかからなかった。

 

冒頭に挙げた寺山修司の生んだフレーズもそんな折りに出会ったもののひとつで、四十年以上経った今も、当時の青臭い自分を思い出しながら、指針のひとつとして再確認することが多い。

 

今、この言葉の続きを、私が私自身に課しているとするならば、それは、’’顔を上げよ、空を見上げよう’’、そんなニュアンスの内容になるだろう。

 

せっかく ’’書を捨てて町へ出’’ ても、イヤホンで耳を塞いでいたり手元の電子機器ばかりに目を落としていたら、それは寺山の促す ’’書を捨てて町へ出’’ たことにならない、そう思うからだ。

 

思わぬところから、思わぬタイミングで与えられる '’氣づき’’。

 

見上げれば、沢山のものが自分のアンテナにひっかかってくる。

決して大袈裟な言い様でもなく、そして比喩でもなく!

 

le 29 Octobre 2023