過去のつぶやき

2023(1月〜6月)

地球は太陽を中心とした天体の集まり ’’太陽系’’ に属している。

学校の授業で習った「スイキンチカモク...」のアレだ。

他にも沢山の天体が太陽の周りを廻っていて、個々の大きさを比較する図を見ると地球という星がいかに小さいかに驚く。

 

その ’’太陽系’’ は、恒星が集まった大きな集団 ’’銀河系’’ に属していて、その中心部分から少し外れた位置に存在しているらしい。

 

... と説明されて頭では分かったような気になるが、実感などできるはずもなく、とにかく想像もつかないとんでもなく広い世界があって、その中の、またその中の、更にその中の「ここ」にこうして生かされている、ということを理解するだけでやっとだ。

 

研究では ’’銀河系’’ だけで最大100億個ほどの地球型惑星が存在するらしく、予想以上に地球に似ている可能性が高いのだというが、もうそうなってくると、何が何やら、考えたり想像することじたいを放棄せざるを得なくなるレヴェルの話だ。

 

無事に新年を迎えられた今、大事なことは、今、生かしてもらっている「ここ」が、どれだけ多くの ’’偶然に見える事柄’’ で整えられていて、我々が生物として生きていく為に必要な全てが揃えられていて、それらがどれだけ豊かでかけ替えのないものなのか。

どんなことも「当たり前」はなく、全てが「有り難い」ことだと常に忘れさえしなければ全てはうまくいく、その宇宙の理(ことわり)は人間ごときの理解をはるかに、はるかに超えていて、我々は己を知り宇宙を信じて ’’委ねる’’ ことこそを深く学んでいくことが大切なのだと、そう諭されているような気がする。

 

le 1 Janvier 2023


近年では元旦からの営業が珍しくもなくなり、新しい年の始まりを静かに祝う三日間、という雰囲気ではなくなったが、私の幼少期のお正月といえば ’’三ヶ日’’ はどこもかしこも見事に閉まっていて(コンビニなどない時代の話!)、澄み切った空気の中、家々の玄関先に掲げられた日の丸が風にはためき、男女共 和装の大人たちがゆったりとした歩調で歩き、見知った顔でなくともすれ違いざまには一瞬足を止め互いに新年の挨拶を交わす、子供心にも普段とは違う ’’厳(おごそ)か’’ な空気を感じたものだった。

年明けての三日間はとにかく特別な時間だったような気がする。

 

欧州では、クリスマスを家族だけで祝い、大晦日から元旦にかけてのカウントダウンは友人たちと無礼講のドンチャン騒ぎ。

シャンゼリゼ通りには日本の満員電車並みに人がギッシリ詰めかけ、日付けが変わるとともに派手な花火と大歓声があがる。

コロナ前までは、日付けが変わった瞬間から周囲の誰彼ともビズ(頬を合わせるキス)をしまくる、というのが定番だった。

 

もしくは友人宅に大勢で集まって早くからワイワイ飲み食いし、日付けが変わった瞬間にシャンパンを開ける、というスタイル。

 

フランスでは、何かお祝い事があれば必ずといっていいほど登場するのがシャンパンだ。

誕生日といえばシャンパンで乾杯、オペラ公演初日には招待客と我々出演者の為に広間でシャンパンやカナッペが振る舞われる。

 

いつの時代も不安を探せばキリがないが、是非とも笑顔で乾杯しあえる ’’喜び事’’ が、沢山たくさん訪れる年でありますように!

 

le 3 Janvier 2023


この時期のパリの街は、基本的に「灰色」が強い。

 

冬至は過ぎたとはいえ、まだ日の出は遅いし、日中も分厚い雲に覆われてパッとしない。

欧州の北の方はもっともっと灰色に支配されていることだろう。

 

そんな季節だからこそ、できるだけ煌びやかに光眩いもので飾り立て、晴れやかな気持ちで過ごせるようにと工夫するのだ。

クリスマスが終わり新年を迎えた後も、まだ暫くの間は飾り付けを外さず、灰色の世界に色を添え続けるのだと思う。

太陽の光の代わりとして。

 

そんな時期だから、窓の外にいかにも寒々しい光景が広がっていると、よほどの用事がない限り出かけようとは思わない。

わざわざ寒いところに出ていかなくても、できれば暖かい室内でぬくぬく過ごしていたいと思ってしまう。

 

でも、勇気を振り絞って出てみると、意外にもそれほど寒くないことに驚くこの年末年始。

 

「えいやっ!」と出かけてみると、こんなふうに表情豊かな空にも出会え、なんだかご褒美をもらったような気持ちになった。

 

そして思う。

あぁ、やっぱり出かけてきてよかった! と。

縮こまってないで、一歩を踏み出すに限るのだ! と。

 

le 6 Janvier 2023


モントルグイユ通りの常設マルシェは観光客にも有名だ。

そして、そういう人たちをも当て込んでいるのだろう、八百屋さんがこんなコーナーを出していた。

『本日のスープ』、具材はクゥルジェット(ズッキーニ)とブロッコリー。

 

実際、旅行中はなんといっても野菜不足になりがちだ。

住民にとってこの値段はちと高く感じるが、ホテル暮らし&外食続きの旅行者にとっては非常に有り難いものになるだろう。

 

こちらの野菜はとても味が濃く、私も野菜スープはよく作るのだが、良質な具材と良質な塩、これだけで十分美味しく作れる。

今の季節なら蕪、カリフラワーや芽キャベツ、セロリはこちらでは一株丸ごと、しかも葉っぱ付きで売っており、これが本当に美味しいものだから生でいただく以外にスープにもよく入れる。

 

料理としてはシンプルでいて季節ごとの野菜が奥深いハーモニーを作り出してくれ、具材の組み合わせでまず飽きることがない。

火を入れることで嵩も低くなるからたっぷりと野菜が摂れる。

火の通りにくいものから順に入れていくだけだから失敗もしないし、二日分ぐらいなら余裕で作り置きできてしまう。

 

ヘルシーで消化にもよく、栄養もあり、身も心もほっこり温められ、あぁ、言うことナシじゃないか!

 

大地の豊かさをたっぷり受け取れる慈愛に満ちた一品。

’’本日のスープ’’ で、頑張ってくれている心身に労いを贈ろう!

 

le 8 Janvier 2023


先月上旬は厳しい冷え込みが続いたが、その後、年末年始を含め例年に比べると異様なほど暖かい。

 

それもあってか、クリスマスの頃もかなりの人出だったが、今も観光客の数は減る気配などなく、毎日どこも賑やかだ。

様々な店舗や老舗デパートもあり、お土産物屋さんもある地域、特にセーヌ川沿いは景色もいいのでやはり人気がある。

 

おや、どこからともなく素敵なジャズが聞こえてくる。

 

音を頼りに探してみると、セーヌ沿いの遊歩道、ちょうどポンヌフ(Pont-Neuf)の下でこんなトリオが演奏をしていた。

セーヌの水面(みなも)と周りの石が良い反響板になっていて、マイクも使っていないのにかなりの広範囲に聞こえている。

 

もし小銭を稼ぎたいのならここはちょっと不利かもしれない。

遊歩道を歩いている人はともかく、橋の上からわざわざ降りていくには面倒な場所だからだ。

 

どうやらそれが第一の目的ではなさそうで、練習を兼ねてのセッション、どうせならオーディエンスもいる方が身が入るからか、観光客にも聞かせられるこの場所を選んでいるのだろう。

それもこれも、今の時期がガチガチに寒くないからこそ。

 

灰色の空に響くジャズ。

なかなか粋な時間を味わわせてもらえた午後のひととき。

 

le 11 Janvier 2023


パリのカフェの歴史は古い。

お喋り好き、議論好きのフランス人が、日常的に寄り合える場所として数世紀をかけてその発展に貢献してきたのは間違いない。

 

いつの頃からの習慣かはわからないが、こんな季節でも、典型的な籐椅子とテーブルが律儀に外のテラス席に並べてある。

開店と同時にこれらを並べ閉店時には中に運び入れる、ギャルソンの仕事がそれだけ増えることになるし、籐椅子は外にあるぶん傷みやすい気もするが、排気ガスを被る車道ギリギリにまでテラス席を設けているお店も珍しくはない。

 

店内とは違い、テラス席では向い合わせではなく、こういうふうに全て同じ方向に向けて椅子が置いてあるのも特徴のひとつだ。

 

ノートパソコンで何やら作業をするサラリーマン。

新聞を広げながらカフェを飲むロマンスグレーのムッシュ。

この小さいテーブルで昼時には食事もするが、ランチタイムを逃した人が独りで軽食を食べているのもよく見かける光景だ。

 

今の季節、気温が低くとも風のない日にはわざわざこういう席に座る人もいるし、若者達はコートの前を掻き合わせるようにしてでもこういう席で煙草を喫いながらビールを飲んでいたりする。

 

テラス席は、扉がないぶん日常との境目がほとんどない。

人々の暮らしの延長線上にある、気のおけない空間なのだ。

 

le 12 Janvier 2023


何の計算もなく、何の駆け引きもなく、「衝動」をすぐさま「行動」に移していた幼少期。

親に「やめなさい!」と怒られるその前に、先ず行動を起こしていたはずだ。

 

日々、自分の衝動にただ素直に従い、興味の対象へ真っ直ぐ向かっていく、その中で様々なことを学ぶうちに、もしかしたら ’’悪い意味での学び’’ が何か大切な部分を消し去ることもあり得る。

 

子供時代に誰もが持っていたシンプルな感覚を、何十年経った今でも思い出せるだろうか。

たとえば、鳩の集団に近づいて彼らを派手に飛び立たせる、この衝動的な行動をとる時の、本能にも近い心情を。

 

大人になっていく段階で「ブレーキ」の存在を知り、踏み方を覚え、頻繁に使っているうちに、いつの間にか「アクセル」の踏み方や存在じたいをどんどん忘れていく。

 

生きていれば、嫌でも「ブレーキ」に意識を向けさせられることの方が多い、残念ながらそれが世の常だ。

 

だからこそ、自分では「アクセル」に意識を向けていよう。

’’生きる’’ ことに全力でエネルギーを注ぐには、ブレーキではなくアクセルにこそ圧倒的に比重をかけていいのだから!

 

le 14 Janvier 2023


日常のそこここに、その気になれば全ての瞬間に、自分にとっての新たな「扉」は無限に用意されている。

 

ただ我々は、「自分で思っている以上に、’’見たいものを見たいようにしか見ていない’’」ということに気づいていない。

せっかくの沢山の扉も見えていないことが多そうだ。

 

何かを ’’成し遂げる’’ ことが一番の目的ではなく、’’より多くの経験を味わう’’ ことのために我々はこの星にやってきた。

 

興味あることに挑戦し、経験していくことで知らぬ間に自分の能力が磨かれ、ふと気づけばもしかしたら何かを成し遂げているかもしれないが、そんな結果なんて二の次三の次。

 

己の魂が大喜びする生き方を継続させていくために、幾つになっても心ときめくものとの出会いを求め続けよう。

 

数々のその扉をしっかり見つけられるように、感性 / 感覚を澄み切った、風通しのよい状態に保っていよう。

 

見つけたにもかかわらずあれこれと開(あ)けない理由を探す暇があれば、なんの自信がなくともとにかく扉を開けてみよう。

 

生かされている間にあといくつの、どんな扉を開(ひら)くことができるだろうか、そんなふうにこれからも、ずっとワクワクし続けられる自分でありたい。

 

le 16 Janvier 2023


誰しも試験のために「一夜漬け」で勉強した経験があるだろう。

試験さえクリアできればいいというあまり褒められた行為ではないが、それでも頑張ればなんとかなるのは、主に年号や数式、単語など、「具体的な知識」を記憶する単純作業だからだ。

 

けれど、「品格」や「教養」はそうはいかない。

丁寧な時間の流れの中で、自分の中にゆっくり培っていくものだからだ。

いざ必要な場面がきた時、一夜漬けは一切きかない。

 

ある程度の年齢になれば自然に身につく、というものでもない。

『三つ子の魂 百まで』というように、基盤を幼少期に得られれば幸せだが、その後からでも遅くはなく、本人の意識次第だ。

 

ちょっとした仕草に、身のこなしに、佇まいに、それは出る。

言葉づかいにも表れる(稀にわざと粗野に振る舞う人が実は繊細で上品だったり、上品ぶってはいても品のない人も案外多い)。

 

知識のように具体的ではなく、漠然としているものだからこそ、結局は ’’にじみ出てくるもの’’ ということになるのだろう。

 

突き詰めると、自分を置く環境(周囲の人を含む)が影響するのだろうし、日々の ’’心持ち’’ が大いに関係してくる気がする。

 

なんとはなしに上品なオーラを纏(まと)った少女に遭遇し、彼女の ’’周辺’’ にふと思いを馳せてみた。

そして思わず身を引き締めたある日のことだった。

 

le 18 Janvier 2023


他の季節には空いているベンチを探すのにひと苦労するが、暗く寒いこの時期は腰掛けている人を探すことの方が難しい。

 

そのぶん静かだから、すべての葉を落とした並木路の木々たちの中に、春の芽吹きへと向かうエネルギーが詰まっているのをダイレクトに感じることができる。

 

よく見ると、枝のあちこちに小さな膨らみの予兆を見つけることもでき、こんなに寒い中でも確実に命を燃やしている様子に、なんだか激励されているような気持ちになる。

 

街の真ん中にあれど車の喧騒もここまでは届かず、冬場の人の少なさと相まって、贅沢な静寂を味わわせてもらえる。

 

見上げる空は灰色ながら広々と広がっていて、開放的な空間にいることで伸びやかな発想が浮かんでくる。

 

「そうだ! 帰り道に、この間友人から教えてもらったあのハーブ専門店に寄ってみよう!」

 

「その後ちょっとだけ遠回りして、今の季節のお花を何か買って帰るとしよう!」

 

楽しいアイデアが降ってきて、冷たい風すら心地よい。

 

季節ごとに味わいのある ’’私の庭’’、なんて有り難いんだろう。

 

le 19 Janvier 2023


例年になくびっくりするほど暖かかったクリスマス頃から一月上旬、そのぶん余計にここ数日の寒さが身にしみる。

 

けれど、あちらこちらに春を迎える準備が着々と進んでもいて、それを実感できると少しだけ寒さを忘れられる。

 

まるでお揃いのスモックを着た保育園児たちが賑やかしく並んでいるかのように見えるのは、ヒヤシンスの苗だろうか。

 

そういえば私の幼少期、玄関の棚の上に水性栽培のヒヤシンスの鉢がいくつも並んでいた光景を思い出す。

淡い青色のガラス鉢いっぱいに白い根っこを伸ばし、玄関の磨りガラス越しに太陽を浴びながら開花に向けて成長していく。

 

私のパリのアパルトマンには庭などなく、ベランダさえないから、せいぜいほんの小さな鉢植えか、もっぱら切り花を飾る日常に甘んじるしかないのだが、だからこそ公園に出かけるのは楽しみな時間のひとつだ。

 

幼い苗が少しずつ成長していく様子は、生命の神秘と、間違いなく前向きのエネルギーに溢れていて、その姿はとても眩しい。

 

彼らのように、ただ真っ直ぐ、自分を信じて生きていくこと、そのこと自体がとても尊いことなのだと知る。

 

必ず来る春に向かい、冬の間にしかるべき準備を粛粛と積み重ねる、そんな植物さんたちから、いつも多くを学ばせてもらう。

 

le 21 Janvier 2023


ダウンコートにマフラー、帽子に手袋、完璧な防寒で外出しても、頬にあたる冷たい風が ’’寒さ’’ を忘れさせてはくれない。

 

そんな時、街角の柔らかな光にふと ’’暖かさ’’ を思い出す。

実際に体感温度があがるわけではなくても、ほんの一瞬ほっとし、身体や心がほぐれていく。

今どきの表現なら ’’ほっこりする’’ というかんじだろうか。

 

そうなのだ。

私たちは ’’ほんのちょっとしたこと’’ でも沢山のことを感じる。

 

差し出された手、かけてもらった言葉、寄り添ってもらえた温もり etc.

優しい眼差しの中に、受容を感じさせてもらえることもある。

 

小さなそれらを、それぞれがすぐ隣の人に順繰りに渡していけば、温かなものでぐるっと世界はつながる。

 

それを絵空事だと鼻で嗤ってしまうのは残念すぎやしないか。

 

ほんのちょっとしたものでいい、良きものを回していこう。

 

『袖振り合うも他生の縁』

もしかしたらその人は、いつかの友人かもしれない。

いつかの恩師、肉親だったのかもしれないのだから。

 

le 23 Janvier 2023


8時半にやっと日の出を迎え、日の入りは 17時半頃。

今のところはまだ日照時間の短いパリだ。

 

その上、何日かに一度は太陽さんの姿を少しだけ確認できるとはいえ、ほとんどの日は曇り空が続く。

 

北向きの部屋しかない私のアパルトマンなど、日中でさえ照明を点けなければ細かい作業は何もできない。

 

でも...!

 

いっそのこと、この気候と共鳴し、エネルギーを内側に溜め込むのもいいかもしれない。

 

思考さえポジティヴなら、次に大きく弾ける時まで、内へ内へと充実させていくのはどうだろう。

 

丁寧に充電していくことで細部までメンテナンスもできようし、もしかしたらそんな時間の中、大切なことを思い出したり、思いもかけない新しいものを見つけられるかもしれない。

 

’’その時々’’ に一番ふさわしい過ごし方をするのが、先へ進むには大切なことのように思う。

 

モノクロームの世界もそう悪いもんじゃない。

細やかなグラデーションの中に様々な表情があるものだ。

そんなことも、思いっきり味わい楽しめばいい。

 

le 24 Janvier 2023


昭和の頃からの自転車大国の日本とは違い、私が渡仏してきた頃のパリ市内で自転車を見かけることなどなかったが、都市部における慢性的な交通渋滞と公害への対策として、時間制の「貸し自転車」を国が始めたのは今から十年少し前のこと。

 

粗い運転で有名なパリの車道、そこを剝き身で走る自転車の登場は、さながら猛獣だらけのサバンナに一羽のウサギが紛れ込むようなもので、多発する接触事故に、命の危険を覚悟してまで自転車に乗ろうという人はなかなか増えなかった印象がある。

 

けれど、あれは全国規模での交通ストライキが過去最大級に膨れ上がり、しかも終息の見えない長期にわたった時だった。

片道数時間かけての徒歩通勤、タクシーもつかまらず、乗れたとしても渋滞続き... そんな状況に見切りをつけ、続々と自転車を購入する人が出てきて、一時は品切れ状態にまでなった。

 

その直後に地球規模でのウィルス騒ぎが始まり、公共交通機関の利用を避けたい人たちが更に自転車人口の増加に拍車をかけた。

 

中心部に住んでいる私は、メトロも利用するがもっぱら徒歩移動に努めているので、自転車は持っていないし乗ることもない。

そんな生粋の「歩行者」なので細かいルールは知らないけれど、おそらく個人自転車の駐輪に厳しい規制はないのだろう。

 

街角のあちらこちら、こんなふうに自転車がひと休みしている姿は、ついこの数年前から始まったパリの日常的な風景だ。

 

時代の流れの中で変化する都市の横顔、それもまた味わい深い。

 

le 26 Janvier 2023


パリの観光ガイドに必ず紹介されているモンマルトルの丘。

テルトル広場(Place du Tertre)と名づけられているかつてのモンマルトル村の中心地では、多くの画家さんたちが各々にイーゼルを立てて似顔絵を描いたり、絵を売ったり... と、観光ガイドそのままの賑わいが季節を問わず繰り広げられている。

 

登録し、支払うものを支払った上でのご商売、しっかりお金を落としてくれる観光客に目星をつけるのにも年季が入ってそうだ。

様々な画風の似顔絵描きも、既に描き上がった風景画を売っている人も、一枚でも多く売りたい熱気を溢れさせている。

 

かと思えば、まるで喧騒など耳に入らぬかのように、黙々と自分の世界の中で描き続けている方もおられる。

 

カメラレンズ越しに「あ、この人、前にも...」と思わずシャッターをきったのだが、果たして帰宅して見直してみれば、このムッシュのこんな姿を昨秋にも撮影していた。

 

四季折々の太陽、そして風を受けてきた頬に、手に、そして佇まいに、ベテランの域に達した凄みがにじみ出ている。

 

売ることが目的というより、この場所で、この空気の中で描き続ける、そのこと自体を貫いておられる姿に気高ささえ感じる。

毎日 息をするように、己の魂の命ずるまま淡々と為すべきことを為す、おそらく彼にとって ’’生きる’’ こととイコールなのだろう。

 

le 27 Janvier 2023


パリの画商で、たまにこういうものと遭遇する。

 

歌川国貞(1786 - 1865)、のちに ’’三代目豊国’’ といわれた江戸末期の浮世絵師によるもので、東海道の宿場を舞台に当時人気を博した役者絵、「役者見立(やくしゃみたて)東海道」とも呼ばれるシリーズの中の一枚だ。

 

嘉永五年(1852年)の作で、正式には『東海道五拾三次之内  原  呉服屋重兵衛(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち  はら  ごふくやじゅうべえ)』。

五代目澤村長十郎(1802 - 53)扮する粋な姿が描かれている。

 

バックの壮大な山は、いうまでもなく霊峰富士。

場所は駿河国(静岡県)の原である。

 

時は 19世紀半ば、パリ万博に出品された浮世絵をはじめとする数々の日本の美術工芸品は、画家たちには勿論のこと、あらゆる芸術家たちに圧倒的な衝撃をもって迎えられたという。

 

モネやゴッホが浮世絵に影響を受けたことはあまりにも有名だし、ドビュッシーはあの葛飾北斎『神奈川沖浪裏』に着想を得て交響詩『海』を作曲したという説もある。

 

日本の ’’外’’ にいると、フランスを中心に西欧で大流行した日本趣味 ’’ジャポニスム Japonisme’’ が 21世紀の現代にも根強く浸透しているのを感じると共に、芸術の分野に限らぬ祖国の旧き素晴らしき文化に、日本人として改めて背筋を正さずにはいられない。

 

le 30 Janvier 2023


ひとくちに「骨董品店 / アンティークショップ」と言っても様々で、ある時代ある国の高級美術品だけを扱う古美術商もあれば、宝飾品の専門店、古書、古い腕時計、古い銀食器だけを扱うお店、陶器類を専門とするお店 etc.  本当に奥の深い世界だ。

 

または ’’玉石混淆’’ という言葉どおり、昔の医療器具らしき物や風雨にさらされたアフリカのお面、教会からかっぱらってきたような物... 正直ゆっくり眺めたいとは思えない怪しげなお店もある。

 

そんなお店の前に、先日こんなものが並べてあった。

 

富士山をバックにお茶畑の絵が入っていて、「静岡県藤枝市」という文字も読め、右の箱にも小さく「静岡茶」と入っている。

 

どう見ても何十年も前の茶箱だが、どんな経緯で、いつ頃フランスに渡ってきたのだろう。

 

ここのオーナーを見たことはないが、以前からの品揃えやお店の雰囲気からしておそらく日本人ではなく、きっとこの茶箱も異国情緒豊かな雰囲気に魅せられて何処かで入手したに違いない。

 

軽く半世紀は経っているだろう、様々な人の手を渡って巴里までやってきた同郷の古い茶箱の、この疲れた様子に尚のこと、思わず「遠いところまでよく来たね」と声をかけたくなった。

 

le 31 Janvier 2023


この、レトロ感漂う絵柄の張り紙は、今の季節ならではの「ヴァン・ショー」、日本語でいうホットワインの宣伝だ。

 

12月のクリスマスマーケットなど冬場の屋台で必ず見かけるが、カフェやビストロに貼ってあるのはちょっと珍しい。

 

確かに芯まで冷え切った身体に沁み渡るので、凍えそうになりながら道行く人々の目には、こんな張り紙は効果大だろう。

 

因みにこのホットワイン、単に「温めたワイン」ではない。

 

ワインにシナモン、丁子(ちょうじ)といった香辛料、柑橘類の皮、甘みを加えるための砂糖や蜂蜜などを入れ、沸騰を避けながらじわじわ温めたものなので、それなりに手間はかかっている。

八角(はっかく)、アニス、黒粒胡椒といったスパイスを使う場合もあり、身体を温める効果を狙った飲み物だ。

 

起源は古代ローマ時代までさかのぼるようで、作り方は現代でもほとんど変わっていないらしい。

 

香辛料やハーブには消化促進や抗菌作用、血流をよくしたり、その他様々な効果があることを昔の人はよく知っていたのだろう。

 

自然界に存在するものをうまく組み合わせ、美味しくいただきながら身体の健康を保つ。

素敵な知恵がいっぱいつまった真冬の飲み物のひとつだ。

 

le 1 Février 2023


パリ市が運営しているレンタサイクル「ヴェリブ Vélib」にはハンドルの前部分にカゴがつけられているのだが、最近めっきり増えてきた街中を行き交う個人自転車に、カゴつきのものはあまり見かけないような気がする。

男女共、リュックを背負いながら乗っている人がほとんどだ。

 

ワイン木箱をこんなふうに細工&利用しているのを初めて見た。

サドルとの距離が近すぎて少々おしりが痛そうにも見えるが、なかなか悪くないアイデアじゃないか。

 

フタがあるぶん、食糧買い出し時にネギを飛び出させて乗せることはできなかったりするが、壊れやすいものにはよさそうだ。

 

頑丈な南京錠までつけてあるので、ほんの束の間ならこの中に荷物を入れて駐輪しておくことも可能だろう(但し、箱ごと盗まれてしまう危険性はパリなら覚悟しておかねばならないが!)。

 

メタリックターコイズグリーンに木箱がよく似合っている。

 

どんな人が乗っているのだろう。

 

ボルドーワインの薫り高き、手作りのリアボックス。

人の目なんて気にせず、身の回りにあるものを好きなように生活に取り入れるフランス人らしい発想に、思わず足を止めて見入った。

 

le 3 Février 2023


普段の自分ならぜったい興味を示さないような場所に、何かのきっかけで行く機会を得る。

そう、例えば・・・今までその存在すらも知らなかった分野の催し物などがそうだ。

足を運んでみるとそこは、それについて精通している人たちの熱気で溢れかえっており、その現実を目の当たりにして愕然とする。

 

それほどまでに世の中には、自分の知らない世界が星の数ほどあり、それらが常に、いわば「並行世界」として存在している。

 

イメージ的には、複数のスクリーンを擁する大型映画館でいくつもの映画が同時に上映されているようなものだ。

 

選んだもの以外を観てはいけないという規則などなく、その気になればいくらでも他の映画を観ていいのだと分かっていれば、自分の可能性に自ら蓋をするような愚かしいことにはならない。

 

誰しも、自分のことを分かっているようでいて、実はそうでなかったりするもの。

ひょんなことで自分の中に眠っている何かに気づくこともある。

 

自分を縛らず、もっと気楽に、どうせならひとつでも多くの世界を覗いてみようじゃないか。

 

自分が ’’知らないことだらけだ’’ という事実を ’’知れば知る’’ ほど、この世の豊かさを知り、人生をもっと豊かにしていける。

 

le 5 Février 2023


少しずつ分厚い雲のあいだから晴れ間が覗くようになってきて、公園をそぞろ歩きする人も増えてはきたものの、ベンチに座ってのんびりとした時を過ごす人はまだそれほど多くない。

 

そんな中だからこそ独りの時間を満喫できると思ったのだろう、ゆったり腰かけ読書する女性の姿からは、この季節の何もかもを全身で味わっているような雰囲気が漂っている。

広々とした静かな空間での一服はまたひと味違うのだろう。

 

どうやら人待ちでもなさそうだ。

 

フランス人は男女問わず、年齢を問わず、また既婚未婚を問わず、往々にして独りの時間をとても大切にしているように思う。

 

私の所属しているオーケストラのリハーサル時でも、ほんの短い休憩では仲間と大いに喋るが、長めの食事休憩では敢えて独りで行動する人も少なくない。

稽古が終わると誘いあうこともなく自分のペースで帰路につく。

 

そういうところが「フランス人=個人主義」といわれる所以なのかもしれないが、慣れるとこのかんじは非常に居心地よい。

 

そういう時間を過ごす中で、「自分の考え /  意見」というものを持つことがごく当たり前にもなってくる。

 

そして何より ''独りで過ごす静寂’’ はとても甘美でもあるのだ。

 

le 6 Février 2023


空の高さと心の開放感はやはり密接に関係しているようだ。

 

温度計の数字はまだまだ真冬のそれで、深夜からの冷え込みは朝方までしっかり続く。

明日も、まだその時間帯は零下が続くという予報だ。

 

けれど、どれだけ風が冷たかろうが、日中の日差しの変化は確実に人々の心を解放に向かわせてくれる。

 

そんなシンプルな反応を毎年繰り返す私たち。

 

やはり我々は、自然界の大きな手の平の上で生かされているという証(あかし)だ。

 

こうしてまた春が近づいてくることを皆で喜べることで、人やものに優しい気持ちを抱ける。

 

そうさせてもらえているのも自然界のお蔭ということだ。

 

色々なことがすべてそこをベースに廻っているのだとわかれば、見苦しいジタバタで心を疲弊させるようなことからは遠ざかろうと思えてくる。

 

澄んだ『氣』の流れる場所に、自分を置こうと思えてくる。

 

風を感じ、おのずと深呼吸したくなる場所に。

 

le 8 Février 2023


365日すべての日に聖人の名前がつけられているこちらの暦。

ほんの数年前まで、2月14日の St-Valentin の日とて、フランスのチョコレート屋さんにとって特別な日でもなんでもなかった。

 

パリで、この時期のチョコレート屋さんがこの写真のような状態になってきたのは、つい最近のことだ。

推察するに、これは日本での ’’ある慣習’’ が海を渡ってこちらに入ったひとつの例だろう(米国からのハロウィンのように...)。

 

お正月が過ぎるやいなや、日本中のデパートやショッピングセンターでは、早々にこの慣習に向けての大キャンペーンが始まる。

 

かれこれ半世紀以上も前に日本で始まったようだが、おそらく、「この日は愛の告白を ’’女性側から’’ してもよい」という特典部分が、奥ゆかしい日本人にフィットしたからに違いない。

 

それに乗じて、今度は商売を仕掛ける側が様々な手法で煽(あお)りに煽り、義理チョコだのホワイトデーだのを含め、現在のようなワケのわからぬ状態(失礼!)になっている。

 

「この日ならいいんですよ」と許可をもらわないと愛の告白ひとつ出来ないのか! などと揶揄するつもりはないけれど、そんな許可など必要としない ’’アムールの国 フランス’’ で、こんな慣習が静かにはびこり出していることがなんだか滑稽だ。

 

自分のタイミング、自分のセンスで思いを伝えてみないか。

さらに思いが乗り、きっとスペシャルな輝きを放つだろうから。

 

le 11 Février 2023


ジャン・コクトー Jean Cocteau(1889 - 1963)とともに、パレ・ロワイヤル Palais Royal に所縁の深い作家がもうひとりいる。

 

同じ20世紀前半に活躍したシドニー=ガブリエル・コレット Sidonie-Gabrielle Colett(1873 - 1945)。

庭園内の東側と西側の並木路それぞれに、この二人の名前がつけられていることからもそれがうかがえる。

 

また彼女の名前は、国立劇場前の広場にもつけられている。

パレ・ロワイヤルの南西の角に位置するコメディー・フランセーズ La Comédie-Française の、正面玄関前がその場所だ。

 

私個人的にはコレットはコクトーほどには親しみはないのだが、彼女が1914年にパリ・オペラ座から受けた新作バレエの委嘱台本に対して、音楽を担当することになったラヴェルからの提案でオペラとして誕生することになった『子供と魔法  L'Enfant et les Sortilèges』は、数あるオペラ作品の中でも特に好きなもののひとつとして私は親近感を持っている。

 

この人も実に自由奔放、ゆえに波乱万丈な人生を送った人のようで、スキャンダルにも事欠かなかったようだが、数々の経験を、作品を生み出す情熱と栄養にしていった逞しさも感じられる。

 

そんな人の名を冠した広場。

日本でいうと、さしずめ歌舞伎座前といったところだろうか。

 

le 13 Février 2023


デザイナー兼アーティスト ガブリエル・ゲッペルト Gabrielle Geppert がパレ・ロワイヤル Palais Royal 内に自身のブティックをオープンさせたのが2003年、今年で丸十年だ。

 

若い頃から古着が好きだったらしく、出身地ドイツを出てローマ、ニューヨーク、ミラノなどの地に住み、熱心な蚤の市めぐりと共にファッションデザイナーのもとで修業を積んだらしい。

独立までの数年は、パリにて、日本を代表するデザイナーのひとり ヨウジヤマモト の下で働いた経歴を持つ人のようだ。

 

彼女のブティックの番地の入った黒猫のTシャツの向こうに、黒猫と一緒に写っているコレットの写真が飾られている。

 

自身の「ガブリエル」という名と、20世紀前半に一世を風靡した女流作家の名に縁(えにし)を感じたのではないだろうか。

パレ・ロワイヤルの庭園を見下ろす部屋に住んでいた シドニー=ガブリエル・コレット  Sidonie-Gabrielle Colett。

彼女の多岐にわたる活躍に肖(あやか)って、この場所に自分のブティックを開きたいと思ったのは想像に難くない。

 

とはいえ、たやすい道のりではなかったはずだ。

何故ならパレ・ロワイヤルのギャラリー内は、売れようが売れまいが頓着などなさそうな代々続く格式ある店舗が多い上、滅多にない空きが出たとしても競争率は相当なものだろうからだ。

 

コレットの愛猫をモデルにしたに違いないこのTシャツ、ここに込められたゲッペルトの、様々な思いが感じられる。

 

le 14 Février 2023


如月も半ばを過ぎ、目に入るもの肌で感じるものがずいぶん変わってきた。

 

まだ冷たい風の中に、日ごと濃さを増す春の気配を感じて嬉しくなるのもこの季節だ。

 

こんなふうに、春を待ちわびるこの時期ならではの心の逸(はや)りは、今まで何十年味わってきているにもかかわらず、毎年新鮮で、少しも色褪せないことを不思議に思う。

 

それだけ自然界の移り変わりには大きなパワーがあり、我々はそれを無意識のうちに受け取っているからなのかもしれない。

 

特に冬から春への移行期は、内側で育まれたものが外に出ていこうとするエネルギーに溢れていて、空気そのものになんとも言えない期待感が混じっている気がするのは私だけだろうか。

 

真冬の装束はまだ手放せないが、ずっと灰色だった重い空が明るみを帯びてくると、足取りもおのずと軽くなるというもの。

 

木々の新芽も、喜びを含んだ膨らみがはっきりとわかるようになってきた。

 

地中の球根も、虫たちも、むずむず動き出していることだろう。

 

生きとしいけるもの全ての、胸のときめきが聞こえてきそうだ。

 

le 16 Février 2023


珍しく、花屋さんに金柑(キンカン)の苗木が並んでいた。

これは「ナガミキンカン 長実金柑」という種類のようだ。

 

黄金色のみかん、という意味から「金橘 / 金柑」の中国名がつけられ、日本ではそれを音読みして「キンカン」となったらしい。

フランス語では「Kumquat クムクァト」というのだが、「金橘」の広東語読みがそのまま由来となっている。

 

金柑は、もともとは中国の長江中流域が原産なのだそうだ。

日本への渡来は1826年、長く続いた江戸時代の後期、中国の商船が遠州灘沖で遭難し、清水港に寄港した際、船員が礼として清水の民に砂糖漬けの金柑の実を贈ったらしく、その種を植えたことから日本全国に広まっていった、と書き残されている。

 

この、なんとも微笑ましい逸話は、信憑性が高いように思える。

 

実際、彼の地で私が経験したことから思うのだが、清水は、静岡県の中でも飛び抜けて気さくな人が多いところだ。

清水次郎長で有名な町だが、よく言われる「港町は人の気性が荒い」には当てはまらず、市井の人のとことん自然なオープンマインドには、何度訪れても本当に驚かされる。

 

’’ちびまる子ちゃん’’ の登場人物さながら心温かく、遭難した中国船の人たちにあれこれ親切に振る舞った様子も目に浮かぶ。

 

さらに柑橘類の栽培に適した静岡の気候が、尚のこと良き ’’実を結ぶ’’ ことになっていったのだろう。

 

le 17 Février 2023


数日 / 数週間などの短期契約で場所を借り、店舗販売をするシステムは、期間が決まっているぶんダメならダメでという気楽さもあるのか、次々に利用する人がいるようだ。

 

POP-UP STORE と呼ばれるこのタイプの店舗は、数年前からあちらこちらで見かけるようになり、傾向として、ハンドメイドの洋服やアクセサリー、鞄、またはヴィンテージの服だったりもするが、往々にして一点ものを扱っているところが多い。

 

自分の店舗を構えるには資金繰りなどを含め様々なものがまだ揃っていない、というクリエイターにとっても、数人で組んで出店するなど、ハードルが低く自由もききそうだ。

 

自分の作ったものを提示してみる、大げさに言えば「世に問う」行為を、リスクが低いからこそ自在に試すことができる。

 

決して万人にウケなくていい、むしろそうでないものだからこそ、同じ価値観を持つ人との出会いにつながる。

 

各々が、’’他人目線’’ ではなく ’’自分目線’’ で生きる時代になってきた今、共感の有無は、増々くっきりと分かれてきている。

 

考え方、生き方、自分にとっての大切なこと、譲れない部分。

人の数だけそれらはある。

 

そんな時代だからこそ、’’未だ知らない自分’’   ''意外な自分'' に出会えるきっかけも、実はそこらじゅう、至るところにあるのだ!

 

le 18 Février 2023


「目標をしっかり決め、それに向かって真っ直ぐ進みなさい」。

たいがいの子供は大人からそう教育されて大きくなる。

 

人生経験の浅い間は、確かにそう叩き込まれることで自分の目標を持つこと、それに向かって進んでいく術を身につけていく。

成し遂げるために具体的な能力を得ようと努力もし、目標に近づいていく実感を味わうことで自信を持つことにもつながる。

 

ただ、長年そう過ごすうちに、’’目標 / 目的に行き着く’’、そのことだけしか考えないようになってしまってはいないだろうか。

 

ある程度の知識や経験が貯まってきたなら、時には、敢えて「目標 / 目的を決めないで進んでみる」のもいいかもしれない。

 

その時 / その瞬間の感覚に従って自由に歩みを進めてみるのだ。

そう、「行き当たりばったり」に!

 

この言葉は、たいていあまりよくない意味で使われることの方が多いけれど、思い切ってそうしてみることで、思いもよらぬ素敵な事柄に出会うことだって少なくはない。

 

見知らぬ路地に誘い込まれるまま足を進めていくと、想定外のワクワクが起こる何かが待っていて、そこからの展開は、準備や計算ではもたらされない特別なものを孕んでいる。

 

結局、人生とは、未知のものとの出会いが自分を次なるところへと向かわせてくれる、それが醍醐味でもあるのだから。

 

le 22 Février 2023


「うわぁ! ゼフィール Zéphyr だ!」

見上げた瞬間、思わず声に出た。

 

フランス・バロック・オペラにもよく登場するゼフィール(仏語)は、ギリシャ神話の風神のひとり、西風を司る神様である。

 

ボッティチェッリ Sandro Botticelli の描いた ’’ヴィーナスの誕生 La Nascita di Venere'' で、貝殻の上に立つ女神ヴィーナスを画面左からキュプロス島の岸辺へと吹き寄せているのが西風の神 ゼフィロス Zephyros なのだが、まさにあの絵と同じように、ゼフィロスとニンフのクロリス(=妻のうちのひとり花の神フローラ)が、二人並んで風を吹き起こしている瞬間に遭遇した!

 

まだ冬の気配の残る夕方、ほんの数分だけザッと降った夏の夕立のような雨の後、なんだか空が不思議な色合いに染まっていく気配を感じ、カメラ片手に急いで外に出てみたのだった。

 

雲の色と形が、一秒ごと、いやそれ以上の速さで見る見る変わっていく様は、まさに ’’西風’’ の仕業そのものとしか思えなかった。

 

春の訪れを告げる豊穣の風として知られるゼフィロス。

 

様々な邪気をも吹き飛ばし、豊かさをもたらしてくれる存在。

 

いただきものをしっかり受け取れるかどうかは、我々ひとりひとりの思考の持ち方、そして生き方次第だと感じた瞬間だった。

 

le 23 Février 2023


ヒヤシンスの苗が出回るこの時期、ふと思い出す神話がある。

 

ギリシャ神話の風神は各方角、東風エウロス Euros, 西風ゼフィロス Zephyros, 南風ノトス Notos, 北風ボレアース Boreas の四柱。

 

風の神々の中でも最も温和だといわれるゼフィロスは、異なる物語の中で幾人もの妻を持っていたと伝えられている。

温和で優しければきっとモテるだろうし、そんなにも沢山の奥さんを娶ったならそれでよさそうなものなのに、と思いきや...。

 

ゼフィロスが、スパルタの美貌の王子ヒュアキントス Hyacinthus に恋をし、彼を巡ってアポロン Apollon と争うことになる。

ヒュアキントスはアポロンを選んだため、嫉妬に狂ったゼフィロスはある日、ヒュアキントスとアポロンが仲睦まじく円盤投げをしているところに一陣の突風を吹きつけ円盤を落下させる。

その円盤がヒュアキントスの額を直撃し、彼は絶命してしまう。

彼の死を嘆き哀しむアポロンがヒュアキントスの血から花を作り、その花に「ヒヤシンス」と名づけたという・・・。

 

温和なゼフィロスらしからぬ行動に走らせた感情も、嘆き哀しむアポロンの心情も、あまりに人間くさく聖人君子とはほど遠い。

 

神話の殆どが ’’惚れた腫れた’’ の物語だが、オペラも、小説も、映画も、何より現実も、太古の昔から我々人間界とて全く同じだ。

 

神々も人間も、『愛』という極みに向き合って生きているのだ。

 

le 24 Février 2023


空は明るくなってきたものの、今日など完全に冬に逆戻りしたような気温で、吹きすさぶ強風に指先も凍るほどの寒さだった。

 

そんな中でも「子供は風の子」は全世界共通なのだろう。

双子の姉妹が、片時もじっとせずに元気よく走り回っていた。

どこからどう見ても一卵性の二人は顔も髪色も本当にそっくりで、タイツと靴以外は何から何まで同じ!

 

双子といえば、私の所属するオーケストラにも、私より少し年上の一卵性の姉妹がいる。

フランス人で、どちらもヴァイオリン奏者だ。

一時期は、一卵性双子姉妹がもう一組いて(こちらはドイツ人のヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者)、自然妊娠で一卵性双胎の双子を妊娠する確率は約0.4%と言われているらしいから、ひとつの団体に二組も在籍しているのは相当な確率ということになる。

 

彼女たちを見ていると、「仲が良い」とか「息がピッタリ」などという次元をはるかに越えた特別なつながりを感じる。

 

たまに片方が降板している公演の時など、もう片方が心なしか元気がなく、気の毒になってしまうほどだ。

 

母親の子宮に生命体として生まれた瞬間からずっと一緒に育ってきた ’’片割れ’’ は、そうではない我々には絶対分かり得ない域で ’’自己’’ に限りなく近い ’’分身’’ のような存在なのかもしれない。

 

le 26 Février 2023


♪ 春は名のみの 風の寒さや〜 ♪

 

暦の上で春を迎える立春の頃を歌った歌だが、二月を終えようとしていてさえこの歌詞が当てはまるここ数日の風の冷たさだ。

 

この『早春賦』は、「尋常小学唱歌」として作られた中の一曲で、その作詞委員会代表を務めていた作詞家、文学者、教育者の吉丸一昌(よしまる かずまさ)氏の書いた詩に、中田章(なかだ あきら)氏が曲をつけたものだ。

確か、私も小学校の音楽の教科書で習ったのではなかったか。

 

中田喜直(なかだ よしなお)氏の御父上、ということを意識すると更に親近感が湧いてくる人も多いことだろう。

息子さんの方も、誰もが知る数多くの童謡を作曲した人だが、温かみ溢れる美しい旋律は両者に共通するものではないだろうか。

 

1913年に発表された『早春賦』は、実に百年以上も前の歌ということになるが、少しも古びておらず、むしろ冒頭から1オクターヴ半をも分散和音で伸びやかに駆け上がってゆくメロディーなど、開放的で、とてもモダンな印象すら受ける。

 

冷たい風に吹かれながらも、確実に春はそこまで来ているという希望、逸り立つ喜びが全編に溢れている名曲だ。

 

この曲に元気づけられながら寒さの中でも春を待ち焦がれる日々を過ごせることは、日本人としてなんとも嬉しく誇らしい。

 

le 27 Février 2023


カレンダーを一枚ずつめくって、一月、二月、三月...

数字で表すのもわかりやすいが、私たちの国には『和風月名 わふうげつめい』なる風流な文化が今も息づいている。

 

月の動きを基準にした「旧暦」と太陽の動きを基準にした「新暦」とでは一年間の日数が違ってくるので、旧暦の季節に合わせた和風月名は現代の季節とは多少のズレはあるが、少し前倒しして四季の移ろいに思いを馳せるひとつの指針になる気がする。

 

世界各国で新暦が用いられている現代だが、日本が新暦に移行したのは明治五年(1872年)、案外最近のことなのだ。

 

三月生まれの女の子が「弥生(やよい)」ちゃんと名づけられることがあって、可愛らしい名前だなぁと思う。

 

旧暦で「春」にあたる三ヶ月間の、一番最後の月・三月。

「弥生」という和風月名は、いよいよ草木も勢いよく生い茂ってくる、という意味で、「木草弥生ひ茂る月(きくさ いや おひ しげる つき)」を語源としているのだそう。

 

この和風月名だが、ひと月ごと複数あり、その数の多さに驚く。

三月でいえば、桜月(さくらづき)、花見月(はなみづき)などわかりやすいものも多いが、花飛(かひ)、花老(かろう)、季春(きしゅん)、春惜月(はるおしみつき)など、春の最後の月であるという名残りを含んだ呼び名もある。

 

古(いにしえ)の人々の、なんと細やかで豊かな感性だろうか。

 

le 1 Mars 2023


私の幼少期も、新年度が始まる頃でさえ風は冷たく、スプリングコートの襟を立てて寒さから身を守る日もあったことを思えば、再び真冬に逆戻りしたかのようなここ数日のパリの気候も、決して特別なこととはいえない。

 

間もなく訪れる春を待つ、約束の相手が到着するのを今か今かと待つ... 何かを「待つ」その時間は、心ときめく楽しい時間だ。

 

ただ、「待つ」という行為は、時には、自分自身に要らぬ負担をかけていってしまうものでもある。

 

日時の決まっている約束事は別として、漠然としたものを「待つ」場合、その事ばかりにフォーカスしすぎない方がいい。

 

返信を待つ、賛同を待つ、欲しい連絡、素敵な展開を待つ・・・

そこには自分の ’’期待’’ が含まれていて、思い通りに得られない時に理不尽にも怒りが芽生えてしまう場合だってあるからだ。

そんなことでエネルギーを消耗するほど勿体ないことはない。

そもそも、そんな感情を持ってしまうことじたい残念なことだ。

 

何もせずボ〜ッと待つのは論外だが、自分のできることを全て行ったなら、一旦忘れ、’’時’’ が良き物事を運んできてくれることを信じ、’’今’’ を、全く別のことをして精一杯生きていればいい。

 

「待つ」とは、つまり「委ねる」ということでもあるからだ。

 

ある時、ふと気づけば春の真っ只中にいることを知るように。

 

le 6 Mars 2023


広場に立つマルシェで、こんなふうに新聞紙にくるまれてチューリップが売られていた。

よく見ると英字新聞だ。

 

’’ちょっとシャレたかんじ’’ にするための演出なのかもしれない。

でなければ、’’古新聞’’ と化した仏字新聞を使えばいいのだから。

 

日本でも、小洒落た雑貨屋さんなどが外国語の新聞紙や包装紙を使っていたりするが、ふと、その光景を思い出した。

 

不思議なもので、その土地の言語ではないものが使ってあるとなんとなくおシャレに見える... ような気がしてくる... ことがある。

何故だろう、もしかしたら心理学的に説明のつくようなものなのかもしれない。

 

こちらの若者がでかでかと日本語の書かれた Tシャツを着ていたりするが、しばしばその文字は日本人が見たら「えっ?」と思ってしまうようなもので、本人が得意気に着こなしているつもりでも、残念なことにその目的が叶っていない場合が多い。

 

同じように日本でも、ちょっと気取っておシャレに使っているつもりのフランス語が「はぁ?」ということも結構ある。

 

どの民族も似たり寄ったりの行動をとっていてちょっと笑える。

 

なんとなく、「人間って可愛いな」、と思える瞬間でもある。

 

le 8 Mars 2023


街でやたら長身の人とすれ違い、英語や伊語が普段以上に耳につき始めてやっと、「あ、ファッションウィーク中か」と気づく。

 

華やかなショーは、私の業界で言えばリサイタルのようなもの。

ファッションデザイナーというクリエイターの表現の場だ。

 

だが、シーズンごとの流行色があったり、一般人の装いに大きく影響を及ぼすという意味では、私の業界とはだいぶ違う。

因みに、昨年の流行色は、ショッキングピンクやビビッドグリーンなどえらく人工的な色合いで、それを誰も彼もが身につけるものだから、正直、目がチカチカする数ヶ月が続いた。

 

色だけでなく、形、着こなし方まで含めて ’’トレンド’’ が作られるわけだが、申し訳ないが私には美しいと思えないものも多い。

 

わざとだらしなく、ひどい時には上着を背中の真ん中あたりまで脱いだ状態で羽織る、あのスタイルは本当にいただけない。

’’抜き襟’’ は、あくまで和装の中で際立つからこそ美しい。

そういえば、下着(時にはお尻まで!)を見せるようにズボンをズラして穿くのが流行った時代もあったなぁ...。

 

もちろん、私は「各々、それぞれ好きにしていい」というスタンスだ、ファッションに限らず全てのことにおいて!

 

だからこそ、’’流行’’ というものに踊らされ、猫も杓子も判で押すがごとく似た格好をすることに大きな違和感と疑問を感じてしまうし、構造的に ’’洗脳’’ と大差ないことを嘆かわしく思う。

 

人が決めたものでなく、自分で選ぶからこそ芯が通る。

ま、この見解も、’’各々それぞれ’’ のうちということになるが。

 

le 9 Mars 2023


よく、ニューヨークを ’’人種のるつぼ’’ という表現をする。

確かに彼の地も、多種多様なルーツを持つ人たちで溢れかえっているが、ここパリも、その比率は多少違えど、ありとあらゆる民族 / 人種が入り混じっている街のひとつだ。

 

10区、黒人系移民の多い地区で下校する子供たちに遭遇した。

 

何代も前にフランスに移り住み、世代を重ねてきた彼らは、世界的なスポーツの大会で大活躍する選手たちを見てもわかるように、肌の色は違えども歴(れっき)とした ’’フランス人’’ だ。

 

もちろん白人至上主義者は今でも一定数いて、黄色人種の私も差別を受けたことがなくはないが、街で見かける子供たちも、様々な場面での大人たちを見ていても、肌の色や人種の違いなど、取るに足らないものという認識で互いに接していると感じる。

 

いい例えかどうかわからないが、犬たちが、犬種が違っても一向に気にせず尻尾を振って嬉しそうにじゃれ合うのと同じように。

 

何世紀も前からフランスは、欧州の国々の中でも特に、外のもの / 別のものを受け入れることに壁を作ってこなかった国だ。

だからこそ、あらゆる「文化」がここで花咲いてきた。

 

幾層にもなって様々なものが積み重なり、融合し、思わぬ化学反応を起こし、想像を超えたものが生まれる。

それを ’’豊かさ’’ だと喜べる土壌が、多分ここにはあるのだ。

 

le 10 Mars 2023


少しずつ窓辺が色づきだし、散歩中の目を楽しませてくれる季節になってきた。

 

とはいえ風はまだ冷たく、うっかり短めの上着で出かけると、夕方帰る頃には「やっぱり真冬用の、ロングのダウンコートの方がよかった...」と悔やむことになる。

 

気温は確実に上がってきてはいても、天気予報で示されるその数字だけを決して鵜呑みにするなかれ。

 

コート、帽子、マフラー、手袋。

秘訣としては、これらを全部いっぺんにチェンジしてしまわない方がよいのだ、たぶん。

 

コートを少し薄手のものにしたいなら、マフラーは冬用のものを、できれば毛糸の帽子も小さくしてカバンにしのばせて...。

そしてやっぱり手袋の有る無しはだいぶ違う。

 

目は探した分だけ春を見つけられるが、体感的には誤差がある。

 

何度も経験しているというのに、毎年服装に悩むこの季節。

 

自覚はなくとも身体の芯が冷えてしまうこの時期は、温かいお風呂に浸かって筋肉をほぐす時間も大切だ。

 

春が目前にまで来ているのは確かなことだけれど、花々に追いつこうと思わず、あと少し、あと少しだけ、勇み足になるのをガマンするのがよさそうだ。

 

le 13 Mars 2023


パリの街は、こんなふうに道端が有料駐車場になっている。

もちろん地下に潜る一時駐車場もあるにはあるが、日本のようにあちこちにあるわけではない。

街のそこかしこ、縦列駐車だらけなのだ。

 

この地区には珍しく、こんな車が停まっていた。

 

周囲の建物とのスタイルは全然違うけれど、なんだか妙にマッチするのは、それが「一流品」だからだと思う。

 

二流以下の中途半端なものだとここまでの存在感はでない。

... そう思うのは私だけだろうか。

 

周りがどうであれ、確固たる信念を持ち、堂々たる出で立ちでいると、その存在には文句のつけようがないオーラが漂う。

 

人の目ばかり気にし、ただ右往左往するばかりの日和見的な行動は、客観的に見るとかなり格好の悪いことだ。

 

自分で考え、自分で判断し、自分の行動選択をするために、我々には脳味噌も、感覚も、感性も、しっかり備わっているはず。

 

法に触れること以外、すべて ’’自分で’’ 選択していこう。

力む必要などなく、堂々と胸を張り、淡々と行うだけのこと。

 

その、「生きる」ということの基本軸を、どんな時も、命ある限りしっかり持ち続けていこうではないか。

 

le 14 Mars 2023


ルーヴル、コンシェルジュリーをはじめ、観光ガイドに必ず登場する美しい歴史的建造物に、ファッション業界や各界の大手メゾンが巨大広告を揚げているのを最近よく見かける。

 

パリ・オペラ座 ’’ガルニエ宮’’ の裏側にも、こんなふうにでかでかと新商品の広告が揚がっているのだが、どうやら建物の修繕費用を賄いつつ、工事中の目隠しを兼ねた苦肉の策でもあるらしい。

 

それにしても、IT 業界はいったいどうなっているのだろう。

 

よくぞここまで次から次へと新しいものを作るなぁ、と正直私は呆気にとられるばかりだ。

 

思いつく限りのものをこの小さな四角い機器の中に埋め込んでいき、新商品を出せば出すだけ世界中の人々がこぞってそれに群がることで、社会の仕組みじたいが ’’それありき’’ になっていく。

 

その潮流に、どうしても私は釈然としない気持ちになる。

 

こういうモノひとつ持っていれば生活のほぼ全てのシーンで事足りる、そんな社会へと加速が止まらないように感じるのだが、果たしてそれは人類にとって本当に ’’豊か’’ なことなのだろうか?

 

’’利便性’’ を、いったいどこまで追い求めれば気が済むのだろう?

至ってシンプルな私の疑問はこの先も消えることはなさそうだ。

 

le 16 Mars 2023


かなり前から健康志向の高まっているパリでは、あちこちの街角に有機食材、無農薬食材を扱う様々なお店の展開がめざましい。

 

大手スーパーでは、あらかじめ一定量をビニール袋に入れた状態で売られているが、こういうお店では、野菜も果物もすべて量り売りなのも買い手にとっては有り難い。

 

玉ねぎひとつ、人参1本、りんご1個から買え、ひとつひとつ自分で選べる上に、欲しい量だけを買えるのだから。

 

そのかわり、昨日買って美味しかったから今日も、と思ってもそう思いどおりにはいかない。

大手スーパーのように、商品の入荷状況が常に一定なわけではないので、そこはそういうものと割り切り、その日に一番美味しそうなもの、手にとってみて「ピン!」ときたものを買う。

 

メニューを決めてから買い物するのではなく、どんな食材が手に入るかでその日の献立が決まる、という寸法だ。

 

ある程度は値段も判断基準にせねばならないが、’’安いから’’ を一番の理由に買うのではなく、’’美味しそうな食材 / 身体が求めている食材’’ だから買うのだ。

そしてたいてい、旬のものは安くて美味しい。

 

日々、身体に入れるもので私たちの健康状態は決まってくる。

「食」は、「健康」に直結するとても大切なポイントなのだ。

 

le 17 Mars 2023


パレ・ロワイヤル Palais Royal の長い回廊、その石造りの空間に、賑やかしい女性たちの声が響き渡っている。

 

フランス人は基本的に大声で話さないので、珍しいこの状況に、はてどんな人たちなのだろう? とその姿を探してみた。

 

望遠レンズで十数メートルの距離を覗いてみたら...  あれまぁ、お孫さんが数人いらっしゃるような年代のご婦人方ではないか。

 

聞こえてくるのはイタリア語だ。

私には皆目わからない言語でも、感嘆符がいくつもついている楽しげな会話に、パリ旅行を満喫しておられるのが伝わってくる。

 

もしかしたら学生時代からの仲良しグループなのかもしれない。

そんなふうに思ったのは、彼女たちの、実年齢にそぐわぬ若々しいはしゃぎっぷりに、思わず ’’キャピキャピ’’ という古い表現を思い出したからだ。

 

私も同性だからよくわかるのだが、幾つになっても、小学校時代の友人と会えばその頃の自分に戻るし、中学、高校、大学時代、それぞれにも言えることなのだ。

肩が痛いの腰が痛いの、老眼鏡が必要になっただの白髪が増えてきただの・・・そんな肉体的なことは一切関係ない。

 

実は、’’年齢’’ なんて、便宜上のものでしかないのかもしれない。

それ位に思う方が、実は本来の自分でいられるのかもしれない。

 

le 18 Mars 2023


まだ曇り空の続くパリの街、セーヌの水面(みなも)を走る風もまだ少し冷たいが、車道から数メートル下がっている川沿いの遊歩道は、しばし、街中の喧騒から逃れられる場所でもある。

 

仏政府の年金制度改革に猛反発する庶民の抗議は、’’花の都’’ の ’’ゴミの都’’ 化、交通の乱れも日々激化、フランス革命前夜はかく在ったかという事態に、国の偉い方々にも ’’己と向き合い頭を冷やす’’ 静かな時間を持って欲しいものだと、無理を承知で思う。

 

ところで人間というものは、ある事柄について寝ても覚めても休みなく思考し続けていると、いつしか知らぬ間に、本来は望んでもいなかった方向へ突っ走っている時がある。

 

重要な事柄ほどそうなってしまいがちだし、大抵、自分ひとりで判断し、決断せねばならない事だったりするから尚更だ。

 

けれど、頭の片隅に置いておいてもよさそうな言葉がある。

 

『三人寄れば文殊の知恵』。

これを思い出す時、信頼のおける友人の顔が頭に浮かんでくる。

 

その友人ならこんな時どんなふうに考え、どんな言葉を発するだろうか、そう思い巡らせてみるだけでも、自分の中が少し整理でき、ふっと空気が入れ替わることで肩の力も抜けてくる。

 

様々な雑音から距離を置き、水の音、風の囁きに助けられながら、時には ’’文殊の知恵’’ の効果に頼ってみるのも悪くはない。

 

le 20 Mars 2023


小学校2年生ぐらいだろうか、こちらの子供たちは日本人に比べて男子も女子も ’’おマセ’’ なので実年齢がよくわからないが、いずれにせよ、年金云々に関してはまだ全く関係のない年代だ。

 

仏政府による改革案が強引に押し切られそうな今、庶民側も引き下がるどころか、ゴミ回収のストライキは更に続く見込みだ。

今月の5日に始まり、途中一度(15日頃だったか)回収が行われたものの、背丈を越えるほどのゴミの山は道端に増える一方だ。

 

そんな庶民の抗議運動に一切耳を貸さず、昨日「採択」のニュースが流れたため、一層腹を立てた庶民たちが暴挙に出た。

ただでさえ溢れ出ているゴミ箱をひっくり返して道路をゴミだらけにしてまわり、中には火をつける者まで。

決して褒められた行動ではないし、便乗して暴れる不良たちも混じっているのだろうが、そういう輩ばかりではなさそうだ。

ウチのすぐ前の道でも火があがり、近隣住民によってすぐ鎮火されたものの、あちこちで似たような騒ぎが起こったようで、沢山の消防車のサイレンが夜空にこだました落ち着かぬ夜だった。

 

日本とフランスしか知らないが、どちらも ’’おかみ’’ のやることは、根本的に同じような碌でもないことばかりのように思う。

違うのは、庶民たちの反応で、こちらの人々は納得できなければ真正面からはっきりと行動で表す。

抗議したからといって覆るとは限らぬが、黙って従うような民族でないことは歴史に残るあの革命が証明しているといつも思う。

 

今の大人たちがはっきり「NON!」と言わなければ、先々、子供たちまでが苦しむことになる、ということも知っているからだ。

 

le 21 Mars 2023


専制政治の象徴的な場所でもあったバスチーユ監獄への民衆による襲撃により、革命の火蓋が切って落とされた1789年7月14日。

あまりにも有名な、歴史的な出来事の発端になった場所だ。

 

19世紀半ばから20世紀半ばまでは郊外線のターミナル駅があったようだが、現在はその跡地に、’’オペラ・バスチーユ L'Opéra de la Bastille’’ と呼ばれる国立の新しい方のオペラ座がある。

フランス革命200年記念で、1989年7月13日に落成した建物だ。

 

フランス全土で大々的なデモが行われた一昨日、パリでの起点がバスチーユ広場に選ばれたことは非常に象徴的なことだろう。

デモ行進は、市内いくつもの大通りを経て、もうひとつのパリ・オペラ座  ’’ガルニエ宮’’ 前の広場を終点として経路が組まれた。

 

何かというと全国規模でのデモを行い、政府への不満を表すことを常とする国民ではあるが、数週間前から続いている様々なストライキに重ね塗りをするように行われたこの日のデモは、過去のデモとは熱量の ’’種類’’ が違ったように思え、まさにバスチーユ監獄への襲撃を彷彿とさせるもののように感じた。

 

プラカードを掲げ、旗を振り、抗議の声を揃え、車両規制の敷かれた大通りいっぱいに数キロを埋めつくす群衆。

エスカレートした過激な行動は本意ではないと思うが、市内あちこちにうず高く積まれた何日も回収されていないゴミの山への放火、警官隊との激しい衝突の様子は、単なるデモという域を越え、革命の序章と捉えても大げさではないかもしれない。

 

フランスに限らず、今やどこの国も、もはやトップダウンなど機能しない時代だと、いよいよ明らかになってきた気がする。

 

le 25 Mars 2023


先週末から夏時間になったというのに、気温はむしろ逆戻りで、このところずっと肌寒さから解放されない。

 

聞くと日本は、桜のピークが既に過ぎているらしいことに驚く。

 

「予想外に春が早くて慌てて開花したんです。四月の入学式に桜吹雪を散らすつもりが、卒業式のお祝いになりました」。

 

こちらの花々の方は「もうとっくに次のお花たちにバトンタッチのはずが、今でも私たちが最前列なんです」とでも言いたげだ。

 

気候変動は、地球という星がひとつの生命体である以上、何十年間も判で押したように同じでないのはむしろ自然なことだろう。

 

私たち人間も ’’大きな流れ’’ を察知し損ねず、生き物として健やかに在るために、その時々の柔軟さを持ち合わせていたい。

 

まずは、自分のバイオリズムを丁寧に感じとろう。

生き物であるからには、子供時代の自分と今の自分が同じであるはずがなく、十年前の自分とも違う。

当然ながら一年前、いや先週の、もっと言えば昨日の自分とも同じではないはず。

 

外部の何かによって定められた時期どおりに頑なに動くのではなく、生命体として、’’命’’  に忠実な生き方をすることで、花々のように ’’今’’ という時の中に活き活きと在れるような気がする。

 

le 28 Mars 2023


いきなり気温のあがった今日、春の陽気に誘われて、街はどこもかしこもにこやかにそぞろ歩きする人でいっぱいだ。

 

セーヌを眺めていたら、ふとこんな歌詞が浮かんできた。

 

♪ 春の うららの 隅田川〜 ♪

 

まさに ’’麗(うら)らか’’ な春の光の中で小さく口ずさんでみた。

 

武島羽衣の作詞、瀧廉太郎の作曲による『花』は、1900年に誕生した、春という季節を代表するあまりにも有名な歌のひとつだ。

 

一番と三番の最後に繰り返される部分は特に印象的だと思う。

 

’’ながめを何に たとうべき’’

 

曰く... 何にも例えようがないほど素晴らしい、という高揚。

 

その感情のもつ柔らかさ、温かさが、春という季節に呼応していて、伸びやかなメロディーに乗せられたその歌詞に、それこそ何にも例えようがない心持ちになるのは私だけだろうか。

 

美しいものを「美しい」と言葉にする以上に美しく感じる時、身の周りにどれほどの美しいものが溢れているのかを実感する。

 

そんな素晴らしい場所に生かされていること、豊かな恵みに、静かに感謝する時間をもてる歓びを、何にたとうべきだろう。

 

le 29 Mars 2023


心地よい青空が広がるなか、突如、強風にあおられ雨雲が襲来。

軒下に駆け込むその刹那、大粒の雨がアスファルトに跳ね返る。

ザァーッと降った直後の空気は四月とは思えぬ冷たさだ。

 

青空と黒雲の共存。

それはまるで、人間の心の中を映しているかのようでもある。

 

誰の心の中にも相反するものが存在し、ふとしたきっかけで自分の望まない方が強く浮き上がってくることがある。

雨雲が、不意の強風によって運ばれてくるように、そのきっかけは、あるいは自分の中の何かなのかもしれない。

 

人間に限らず植物でも動物でも、外から受けるほんの小さなことが自分の中で大きく反応するのは、我々が「生き物」だからだ。

肉体と精神のコンディション、様々なバランスがいつも同じであると限らず、いやむしろ、一瞬一瞬すべては変化している。

 

そんな生き物同士が関わり合う時、プラスに傾いたりマイナスに傾いたりするのは、双方の「波動」も関係していそうに思う。

 

運転席前の複数のメーターパネルのようなものがあるわけではないから、自分自身ですら瞬間瞬間の自分の状態はなかなか測り難く、ましてや相手のことなど分かりようがない。

 

けれど、自分のことならコントロールすることは可能だ。

傷つけ合う前に、自分だけでも整えていられるようにと。

 

le 2 Avril 2023


この世は、目の前の事象から、その時すぐに自分にとっての「利」を受け取れる場合ばかりとは限らない。

むしろ、そうではないと思っている方がいい。

 

だから、人と人とを繋げられる場があれば率先してそれを行っていこう、「悪いけど繋いでほしい」と言わせてしまう前にだ。

 

その人たち同士を、「合わないかも?」と心配する必要もない。

人間は、接する相手ごと、異なる面に光が当たるもの。

その人たち同士の相性は本人たちにしかわからない。

自分の知っているその人が、その人の全てではないのだ。

 

己の「利」をこっそり計算しながら行うのも止めた方がいい。

流れを滞らせてしまい、結局自分にも良き事は運ばれてこない。

 

完全なる黒子になって、人と人との御縁を繋げてみよう。

 

愛ある口添えが、どれほど御縁の輪に貢献するのか、残念ながら私たちは、そんな大切なことを教わらずに大きくなる。

自分がいただいてきた御縁も、実は、全てそうだというのに。

 

だから、意識して、積極的に御縁を回していこう。

繋がる手と手がぐるっと回り、いずれ自分の所にも回ってくる。

もしかしたら地球一周かもしれないし、銀河の彼方まで巡った挙句かもしれないが、そんなことは気にしなくていい。

 

''Win-Win'' が ’’Win-Win-Win-Win...'' になる事さえ知っていれば。

 

le 5 Avril 2023 


可憐に咲いた春の花のような扉に、柔らかい午後の陽が控えめに木の影を映している。

 

その温もりに満ちた光に包まれながら、三つ子のごとき三台のトロティネットがのんびり休憩している。

 

それを見ている私の頬が思わず緩んだ。

 

自然界が手を貸してくれる素敵な瞬間のお裾分けに、慈愛の風がたっぷり含まれていることに気づかされる。

 

山ほどの情報が四六時中飛び交い、ニュースは不安を煽り立て、不本意な人間関係の波に溺れそうになる・・・

そんな日常に身を置いていると、何故だか気ぜわしく、そんな必要などないのに漠然とした焦燥感に駆られそうになる。

 

何かが足りないのではないか、今の状況は自分に不適切ではないのか、もっとああしてこうして、こうならなきゃいけないんじゃないのか・・・

 

いったい何に怯えているのだろう。

 

そんなにも、「今」は不十分なことだらけなのだろうか。

 

光の中で、穏やかな心持ちになれる ’’本来の状態’’ を思い出そう。

心静かに周囲を見渡してみれば、自分を脅(おびや)かしていると思っていたものは、ただの木の影だったと気づけるから。

 

le 7 Avril 2023


散歩中、遠目にも、なんとなく雰囲気の違う人がいるなぁと目で追うと、たいてい傍にはプロのカメラマンがいる。

 

年間を通して、なんということのない裏通りでさえ、ファッションモデルの撮影が行われているのがパリという街だ。

 

立ち止まってジロジロ見るような無粋なことは誰もしないが、それとなく様子を見ていると、カメラを向けられている時とそうでない時ではモデルさんの醸し出すオーラもやはり微妙に違う。

 

さすがに ON 状態のモデルさんを近距離で撮るのは失礼なので、カメラマンからは見えない場所まで離れ、遠くから望遠で狙ってみたりするのは、ひょっとしたらシャッターチャンスが降ってくるかも... というダメもとでの淡い期待にすぎない。

 

被写体に限らず、日常の様々なことは、目を血走らせ、力み過ぎると、かえって良きものに出会えない場合も多いように感じる。

 

もちろん基本の基本としては、「具体的な望みを持たなければ手に入るものも手に入れられない」のは言うまでもない。

 

だが時として、やれることを全てやったなら、望みを潜在意識まで潜(もぐ)らせ、あとは「運」や「縁」を信じて任せていれば、思わぬ時に思わぬ形で良きものが与えられたりもする。

 

時間も労力もかけ、自分と真剣に向き合い、試行錯誤しながらとことん集中して作り上げたものを、いざ舞台上で「無」の状態になれ、純粋に音楽そのものに向き合えた時、結果として望む以上の演奏が出来るのと少し似ている気がする。

 

le 11 Avril 2023


なんとはなしに活力が湧いてこず、ついだらだらと、しなければいけないことを後回しにしそうな自分に気づく時。

 

そんな時、記憶の底から拾い出してみるのだ。

 

例えば・・・「早くお風呂に入ってしまいなさい!」と親からうるさく言われ、やっとのことで嫌々ながら重い腰をあげてお風呂に入ると、思った以上にスッキリして「入ってよかったー!」と毎回のように思う、その感覚。

不思議にも、「入らなければよかった...」と後悔した覚えは一度もない、少なくとも私は。

 

こういう感覚を、人はすぐ忘れがちだ。

 

これを応用して、やる気が起きない時にやってみればいいことのひとつに「掃除」がある。

 

始めるまでは億劫でも、思い切って始めてみるに限る。

なにも、細かいところまで全て丁寧にやろうと思わなくていい。

目に見える所だけ掃除機をかけるのでもいいし、デスク周りを片付けるのでもいい、無理なら洗面所の鏡を磨くだけでもいい。

ひとつやって「もうちょっとやろうかな」という気になれば他をやればいい、それくらいの軽い気持ちで十分。

 

実は、「掃除」は、自分を大切にする一番のベースなのだ。

良き ’’氣’’ の廻る場所に自分を置いてこそ活力が湧いてくる。

誰だって大切にされれば元気が湧く。とてもシンプルな現象だ。

 

le 13 Avril 2023


地球上の気候変動が著(いちじる)しい今の時代に、それがどれほど適確かは別として、それぞれの季節、それぞれの時期を表す美しい日本語を、日々感じながら過ごすのは素敵なことだ。

 

春先、花が咲き始めた頃の寒の戻りをいう「花冷え」、同じ時期に出番の多い「花曇り」という言葉も雅(みや)びやかだ。

いうまでもなくどちらも ’’花’’ は桜を指しているのだが、「花」という単語が入っているからか、柔らかさ漂う言葉だなぁと思う。

 

今年の日本の桜は例年になく早かったそうで、今頃は葉桜が人々の目を愉しませているのだろう。

 

パリも随分春らしくなってはきたものの、四月も半ばだというのに「花冷え」「花曇り」の続く毎日。

私を含め未だ真冬の上着を着ている人も多く、今日も手袋と帽子が冷たい風から身を守ってくれたし、晴れ間の見えそうにない空を見上げ、迷った末にトックリセーターにしたのも正解だった。

 

そうこうしているうちに、ある日突然、いきなり半袖を着たくなるほどの陽気がやってくるのだろう。

 

待ち焦がれる気持ちを味わうのもいいものだが、いざその時がきたら、過ぎ去った時を懐かしむのも人の常のようにも思う。

 

’’今年の春だけ’’ の花冷えや花曇り、どんな時も、「今」という瞬間をたっぷり味わうことこそが、実は一番の幸せかもしれない。

 

le 15 Avril 2023


「過去」は過ぎ去ったもの、「未来」は未だ来ていないもの。

 

そのどちらをも憂うことをせず、今ここに現じて在る「現在」というものに意識のピントを合わせることで、様々なことは、どんなふうにでも変えていける。

 

未来への不安ばかり膨らませている人を観察してみると、その人は、過去の自分の選択をずっと悔やみ続けていたり、過去に起きた物事(や、その相手)を恨み続けていることが多い。

過去への苦い思いが、未来にも同じようなことが起こりうると想像させてしまうのだろう。

過去に縛られることで未来をも縛り、そんな不安ばかりの中で過ごす現在とは、なんと残念な生き方だろうか。

 

誰にとっても過去はある。

その過去という時間の中で、どんな人にも必ずある成功体験を、素直に自分への「自信」にしていくことも大切だし、失敗(だと思ったこと)は「糧」にしていくことが大切だ。

どちらも、人にやってもらえることではない。

 

『実は、人間がこの世に生まれてきて経験することに良し悪しはないのだ』と賢者は言う。

 

なかなかそんなふうに思えないものだが、過去の何もかもを区別せず、すべて豊かな「経験」として受けとめられるようになった時、賢者の指し示す域に一歩近づけるのかもしれない。

 

le 18 Avril 2023


近年は日曜も開けているお店を見かけるようになったが、公園や観光名所のひしめく地区以外、基本的には閑散とする日曜日。

 

昨夜半からの雨で肌寒く、何が何でも出かけなければいけない用事ではない限り、こんな日は家でゆっくり過ごす方がいい。

 

平日には聞こえてくる表通りからの喧騒もなく、法律でそう決まっているとはいえ、アパルトマンの住人たちも穏やかな時間を過ごしている気配が漂ってくる。

 

カラリと青空の広がる日ももちろん気持ちいいものだが、静かな雨の日曜日というのもなかなか趣(おもむき)深い。

 

快晴を ’’いいお天気’’ という言い方をするけれど、曇り空や雨模様もまた、自然界からの恵みや気遣いの含まれた贈り物だと捉えれば、それはそれで ’’いい’’ お天気といえる気がする。

 

春先は太陽に期待が高まり、つい気が逸りがちになるが、程よく ’’氣’’ を静める時間があってこそ、また前に進めるというもの。

 

’’氣’’ を張り続けていてはある日プツン... ときてしまいかねない。

 

せっかくのお天気に同調させてもらい、たまには緩め、鎮め、静謐な時間の中に自分を置くとしよう。

 

丁寧に淹れたお茶を、雨音を聞きながらお気に入りのカップでゆったり味わうひとときは、大切な自分への豊かなプレゼントだ。

 

le 23 Avril 2023


青空が広がり、お日様がポカポカと照らしてくれる日は、四月に入ってからまだ片手で数えるほどだ。

最高気温が10℃にも届かなかった今日など、再び真冬に逆戻りしたかのように風も冷たく、道行く誰もが冬装束だった。

 

そんな中、まるで春風のような、軽やかなオーラをまとう巻き毛の女の子に遭遇した。

 

弟くんの乗る乳母車にしっかり手を添え、彼を守るようにピッタリ寄り添って歩く姿は、全身から ’’おねえちゃん’’ としての強い意志が溢れていて、その健気さに胸を打たれた。

 

まだ2歳ぐらいではないだろうか。

可愛らしい上着もさることながら、よく見ると、ソックスや靴、髪留めに至るまで、お母さんが細やかな愛情を注いでおられるのがよくわかる。

下の坊やがまだ小さくて何かと大変だろうに、ご自分はお洒落をガマンしてでも、お嬢ちゃんへの丁寧な心くばりが服装だけにとどまらないことも想像できる。

 

愛情をたっぷり受けて育つ小さなパリジェンヌ。

そんなお姉ちゃんに大切にされている弟くんも、きっととても素敵な子に育つことは間違いない。

 

le 25 Avril 2023


1999年に誕生したディオールによるこの香水は、その後も美しいボトルの曲線を保ちつつ、今も次々と新製品が発売されている。

 

'' J'adore ''

日本語では、「(私はこれが)大好き」という言葉に変換するしかないのだが、同じように「好き」を表す他の言葉に比べ、よりハートからの熱い感情のこもる表現のように私は思っている。

そう(=大好き)としか言いようがない、大好きでたまらない、と、男女問わずニュアンスたっぷりに使うこの言葉は、耳にする時も、自分が発する時も、心地良いものがそこに流れる。

 

フランスでは、「’’自分が’’ どう感じるのか」ということを義務教育の段階から徹底して教育されるのだそうだ。

人と同じである必要などなく、’’自分が’’ どうしたいのか、どう考えるのか、その回路を自分の中に育てていくことを大切にする。

 

どこの国とは言わぬが、どんな時も己より人を、周囲との同調を優先するのは一見美しく尊い行為にも映るけれど、突き詰めれば自分を蔑(ないがし)ろにしていることにもなり得る気もする。

だから時として、「私はこんなに我慢しているのにあの人は」と不満や怒りの感情が湧き、自分には直接関係ない場ですら、善人を装った余計な勧告を口走ってしまうのではないだろうか。

 

ただシンプルに、’’自分はどうなのか’’ を自分に問うてみよう。

自分の感情をきちんと受けとめ、理解でき、昇華できた先にこそ、本当の意味で隣人に心を遣うことができるのだと思う。

 

le 28 Avril 2023


相反するものながら、互いを活かし合う「光」と「影 / 陰」。

そこには一見そう見えながらも、決して対立のエネルギーは存在せず、活かし合うことで互いのパワーを高めあう現象が起きる。

これを『陰陽互根 いんようごこん』という。

 

春や夏、東や南が「陽」で、対する秋や冬、西や北が「陰」であることは誰にとっても感覚的にわかりやすい。

天気でいうと、晴天が「陽」、雨天が「陰」。

命に関していえば、生は「陽」、死は「陰」だ。

 

但し、「陽」が良きもの「陰」が悪しきもの、なのではない。

 

例えば、時間(陽)と空間(陰)、肉体(陽)と精神(陰)ということからも、良し悪しで言えるものではないとわかり、『この世は ’’陰陽’’ でできている』ことに納得できるだろう。

 

そんなふうに捉えれば、自分の周りのいかなることも、何ひとつとして良し悪しで分類できるものなどないと理解できる。

 

ひとつの物事、ひとりの人にも「陰」と「陽」が存在し、虫眼鏡を近づけてみれば、それらが必ずしも不動ではないことも知る。

 

『陰が陽を生み、陽が陰を生む』(『陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず』)、この関係性、循環こそが、すべてを健やかに在らしめる最強のシステムだと腑に落ちれば、日々の様々なことにどう向き合えばよいのかも、自ずと見えてくる気がする。

 

le 1 Mai 2023


太陽が眩しく照らす日ともなると、気温が特別上がらずとも、早々にタンクトップ姿で日光浴に専念する人が出てき始めた。

 

かと思えば『メーデー』と呼ばれる先日の有給休日は、伝統的に労働組合がパレードを行う日である上に、先ごろからの新しい年金制度への反発も重なり、全国各地で大規模なデモが行われた。

 

この国の様々なことを外野席から観察している外国人の私は、’’決してひとつの事柄にのみ固執し続けない’’ というこの国の人たちのスタンスに、数十年間ずっと感心させられている。

 

国策への反対をデモなどでしつこく表明していても、晴れた日には公園のベンチで何時間も日光浴に興じるし、平日の夜にオペラ鑑賞をし、週末には友人を招いてのディナーもたっぷり楽しむ。

 

その切り替えのうまさ、特に、不平不満などの ’’負の感情’’ を四六時中持ち続けない、という姿勢は大いに見習いたいと思う。

 

基本的に、’’楽しいこと’’ に焦点を合わせて生きるラテン系民族なので、’’鬱陶しい事柄’’ なんぞに寝ても醒めても関わり続けることを嫌うし、無駄に掘り下げたり、後生大事に抱えたりもしない。

 

だから多数派に忖度して加担することもせず、多数派とて「’’皆んな’’ と足並みを揃えろ」と少数派に圧力をかけることもしない。

 

「人は人、私は私」、タンクトップ姿もいればすぐ隣にダウンジャケットの人もいる、その風景の ’’当たり前’’ に多くを学ぶ。

 

le 4 Mai 2023


観光に向く季節になってきたから尚更だが、冬の間に比べて一段と旅行客が増えてきた。

聞こえてくるのはイタリア語、米語(英語ではなく)、そしてたまにドイツ語、韓国語、といったかんじだろうか。

 

地球規模でのパンデミックの期間、仕事でも「リモート」が幅をきかせたように、日常生活のあらゆるシーンに「バーチャルリアリティ」が一気に入り込んできて、その後も勢いが増す一方だ。

実際、行動制限された環境下では誰もが重宝したに違いない。

 

けれど、それらはあくまで「代替」なのだとしみじみ思うのは、直に人と顔を合わせて話したり、実際にその場所に行き、そこでの体験を得た時に、「代わり」の手段では絶対に得られない、実は一番大切な部分があることを思い知るからだ。

 

先日、とあるバレエ公演に足を運んだ。

以前からよく知っている有名な振り付けの演目で、映像化されたものを見たことがあるにすぎないのに、自分では知っているつもりになっていたことを深く恥じた。

生の舞台を見て初めて ’’それ’’ に触れた瞬間、知っているつもりのものが、ただのパッケージにすぎなかったと愕然としたのだ。

 

『百聞は一見にしかず』という言葉があるが、これだけ「バーチャル」が限りなく「リアル」に近づいてきて、その境界が分かりにくくなりつつある時代だからこそ、強く意識せねばと思う。

この言葉の「一見」とは、何ものをも媒介させず、’’自分の目で直に見る’’ という意味だということを。

 

le 8 Mai 2023


フランス国内や欧州各国への演奏旅行で年中移動をしていた頃。

あの頃は、到着したホテルの受付で街の地図を前に説明してもらう内容と、自分の勘だけを頼りに歩いたものだった。

 

今はまるで、’’別の星か?!'' と思うほど、誰もがスマートフォンを持ち歩き、いつでもどこでも情報収集の可能な時代となった。

 

だが私は、’’前時代’’ に身につけたセンサーとでも言おうか、そういうものを使う方が今でも楽で、私自身には合っているようだ。

 

目的地に関しては事前に家で下調べをしておく。

迷わないために、簡単な手描きの地図をポケットをしのばせて出かける場合もあるが、それすら使わない時も多いのは、自分で地図を描いた時点で自然に頭の中に入るからなのだろうと思う。

 

大まかな位置関係と太陽の位置さえ把握していればとんでもないことにもならないから、大概の場合、その場の勘に従って歩く。

それが実はこの上もなく面白く楽しい、と気づいてからは、以前にも増してそのスタイルなので、より勘は鍛えられる一方だ。

 

雲の流れや季節ごとの花々、建物の美しいファサード、どれ程のものが目を楽しませてくれ、思いがけない出会いがあることか。

 

ご自分のスマートフォンで地図を見ているにもかかわらず、すぐ傍にある目的地を私に訊ねてくる旅行客のなんと多いこと...。

頼っている物は、万能で便利そうでも実はそれほどでもなく、時に邪魔にさえなる物なのかも、という視点も大切かもしれない。

 

(* この写真のカップルと文章の内容とは全く関係ありません)

 

le 12 Mai 2023


シンプルさは、時に脆(もろ)くありはしても、それにも勝る軽やかさや開放感があって、まぁ要するに、自由度が高い。

むき身で走るリスクはあっても、どんな所へでもスイスイ行けてしまう自転車のようにね。

 

「さぁて、ひと休みしたあとは何処へ行こうか?」

ひそひそ声で楽しそうに相談をしているかのような2台の自転車から、なんとも言えぬ期待に満ちた雰囲気が漂ってきた。

 

心に重厚な鎧(よろい)を着ていると、防御はできるかもしれないけど、そのぶん外からの優しさや温かさを受け取れにくい。

警戒して守備ばかりに重点を置いていると、せっかくの良きものとのご縁を遠ざけてしまうんだなぁこれが...。

 

この星に生きることで、他者とのコミュニケーションで得られる素晴らしさ、かけがえのなさがあることを再認識しよう。

 

’’他者’’ とは、必ずしも人間ばかりじゃない。

自然界のあらゆるものや事柄、生きとし生ける動植物たち、そして鉱物たちとも、私たちは深いコミュニケーションを図ることができることを思い出してみた方がいいよね。

 

外側からもたらされるものを喜びいっぱいに受け取っていこう。

 

そのために、日々、軽やかな状態の自分でいよう。

荷物を背負いこみ過ぎず、ふたつの車輪だけでどこへでも繰り出して行く... いつもそんなイメージでさ!

 

le 15 Mai 2023


色々な分野の本を読むが、『時代小説』も私の好きな分野だ。

たとえば江戸時代を舞台にしたものでは、「干支」で表す時刻や、「数」で表す時刻の中で物語が進んでいく。

’’申の刻ともなると冬の陽は早くも傾き始める’’ とか、’’喜助が起き出すのは決まって明け六つの鐘が鳴る前だ’’ というふうに。

 

現代の PM11時から AM1時が干支の最初の「子」、そこから二時間毎に「子丑寅...」と24時間を十二支がぐるっとひと巡りする。

 

数で表す方は、一日を夜と昼に分け、それを更に六等分。

「真夜九つ」と「真昼九つ」から、二時間毎に「八つ」「七つ」... と「四つ」までを数えることになる。

現代でも「おやつの時間」という呼び方に名残りがみられる。

 

干支で表す時刻にせよ数で表す時刻にせよ、江戸時代は今の我々にとっての約二時間がひと区切りで、それを「一刻」という。

’’約’’ 二時間、何故なら、季節によって昼夜の長さが変動するためで、日の出と日没に合わせての「不定時法」が用いられていた。

 

それだけ自然界と共に人々の暮らしがあったということで、現代に生きる我々が理屈ではなんとか理解できたとしても、もし今、江戸時代にワープしたら、かなり戸惑いそうでもある。

小説を読みながら、実際どんな感覚なのだろうかと思いを馳せつつ、現代とは別の時間の流れに身を置いてみるのも興味深い。

 

le 17 Mai 2023


「◯時までに何処そこへ行く / なになにをする」と予定を立てて、その目的地に向かってズンズン進むのも悪いことではない。

 

若い頃はとかく一日を予定いっぱいにして動きたいものだし、最低限の隙間しか設けずにスケジュールを組んでしまうものだ。

できるだけ特急などの速い列車に乗れるよう、乗り継ぎや移動に無駄がないよう、頭に血を上らせて日々を過ごした記憶もある。

 

世界規模のウィルス騒ぎの勃発が、よくよく振り返ってみると、戦後から三四半世紀も続いてきた働き方に、大きなメスを入れるきっかけになってくれたのだと気づく。

それでも、あくせくした時代に人生の働き盛りを過ごしたいくつかの世代は、脳みその奥まで、身体中の細胞のひとつひとつにまで染み付いてしまったものを手放すことが容易ではなさそうだ。

 

試してみてはどうだろうか。

それまでの「生産性」の対極にある、’’何の目的も持たずに歩く’’ という至ってシンプルな、謂わば「非生産的」に見えることを。

 

荷物も持たず、目的も持たず、時間というものからも離れ、ただ気の向くままに道を選び、ゆったりのんびり足を運ぶ。

 

今まで目に入ってこなかったものがこれほど沢山あったのか! と驚くことから何かが動いていくから。

そしてそれは、必ずや、生命力を掻き立ててくれるだろうから。

 

le 22 Mai 2023


ごく普通のアパルトマンの側面に、ピエール・コムテ(Pierre Comte 1927 - 2022)による『風の壁 Mur des Vents』(1974年)と名づけられた作品がある。

ほぼ50年という月日のなかで、太陽に照らされ、風雨によって均(なら)された色合いは、特別な強い主張をするでもなく、むしろ寄り添うように街角に溶け込んでいて、特に意識しなければ通り過ぎてしまいそうにもなる。

 

そうなのだ。

私たちは、「風」それじたいを視覚で捉えることはできない。

 

だが、時に優しく頬を撫でてくれ、火照った身体を心地良く落ち着かせてくれたりもし、またある時は、厳しく諌(いさ)めるかのように吹きつけてくることで、私たちはその存在を感じとる。

風が引き起こす樹々のざわめきに生きている ’’今’’ を実感し、嵐の風音は我々が儚い生命体であることを思い出させてくれる。

 

フランス・バロック・オペラの中には必ず嵐のシーンがあり、物語が大きく展開することを表す音楽的にもドラマチックな幕だ。

 

『風立ちぬ』『風の又三郎』『風の谷のナウシカ』『風と共に去りぬ(原題:Gone with the Wind)』etc.

 

私たち人間に、「風」は様々なものを運び、提示してくれる。

物質のみならず、観念的、精神的、ありとあらゆるものを・・・

 

le 23 Mai 2023


「ボクが彼女を守るんだ!」とエスコートする緊張気味の少年。

この可愛らしい小さなカップルに遭遇した瞬間、Bee Gees の歌う『Melody Fair』が私の中いっぱいに鳴り響いた。

 

中学2年の時に TV の日曜洋画劇場で見た強い印象は、半世紀経った今も色褪せることなく、11歳の主人公たちの織り成す様々なシーンが昨日見たもののように甦ってくる。

とりわけラストのトロッコのシーンの感動は、言葉にできないとても大切なものとして14歳の私の心の奥に焼き付けられた。

 

英国映画『Melody(邦題:小さな恋のメロディ)』を、’71年の公開から数年後、TV 画面とはいえ、あの年頃に観ることができたのはとても幸せなことだったのかもしれない、と、今思う。

 

誰でも子供時代、自分の宝物を入れておくお菓子の缶などを持っていたのではないだろうか。

中身は他愛ない物ばかりでも、その時の自分にはかけがえのない大切な物で、時々眺めては自分を勇気づけたりしていたが、その缶は、大人になってゆく過程でいつの間にか手元から消える...。

 

実は、心の中にも誰もが自分の宝箱を持っているのだと思う。

そしてそこに入っている様々なものは、おそらく、この身体を脱ぐその時が来るまでずっとそこにあり続け、静かに、生きるエネルギーとなってくれるのだろう、という気がする。

 

その時はそんな自覚はなかったが、どうやらあの映画は、私が14歳の時に心の宝箱に入れた大切なもののようだ。

『Melody Fair』が脳裏に響きわたり、あの映画のことを思い浮かべるだけで、自分ではそうとは知らなかったあらゆる可能性に満ち溢れていた当時の自分に一瞬にしてワープし、説明しようのないものが身体中を温かく駆け巡るのだから。

 

le 25 Mai 2023


自分ではコントロールできないもののひとつとして、『ご縁』というものがある。

 

後から振り返ってみると、驚くほどそれらは「その時にいただけて本当に良かった」と思えるものだということに気づく。

 

師弟関係、先輩後輩、友人知人や同僚、あるいは異性関係。

出会った時に「このご縁はこの先もずーっと続きそうな嬉しいご縁だな」と思っても、ほんの一時期、濃い時間を共有した後に、驚くほど呆気なくスッとほどけていくご縁もある。

特に何があったわけでもないのに。

 

かと思えば、切れてしまったと思っていたご縁が、実は深いところでは静かに続いていて、ある何かをきっかけに浮上し、まるで空白の時間などなかったかのように再び繋がることもある。

 

一番身近な ’’血縁’’ という関係も含め、何ら人為的に操作できるものではなく、まるで天から ’’降ってきた’’ かのように、いやむしろ、まさにそうとしか思えないのが『ご縁』だ。

 

ご縁ある人が、自分を ’’光の道’’ へと誘(いざな)ってくれる時、実際のところ、その時にはそうとは分かり難かったりもする。

 

そんなことも含め、『ご縁』とは本当に不思議なものだ。

だからこそその時々にいただいているご縁に敏感であり、誠意をもって、感謝と共に大切にできる自分でありたいと思う。

 

le 31 Mai 2023


気心知れた相手との、’’隣同士’’ に座ってのお喋りは心地よい。

目の前を通り過ぎるものに各々が視線を向けながらの、なんということのない柔らかい会話は、それじたいが癒しの時間だ。

 

’’隣同士’’ の着座は、まだ親しくない人とだと緊張感が漂ってしまうものだが、既に親しい間柄だと、相手に対してより安心感や信頼感をもたらしてくれるもののような気がする。

 

私たちはおそらく、無意識のうちに行っているのだろう。

感覚的 / 生理的に合わなさそうだと感じる相手は論外として、親交を結びたい気持ちがある時、相手のことを深く知りたいという意識が働き、’’対座(向かい座)’’ の席を選ぶのかもしれない。

目と目をしっかり合わせて話すことで、言葉以上 / 以外のものを受け取りたく思うし、自分からも届けたいと思うのではないか。

 

誰かとテーブルにつく時、レストランでもカフェでも、よほど混んでいて選択の余地がない場合はともかく、入店時にどの席を選ぶかで会話の展開は変わってくるような気がする。

多分、おそらく、ほんの些細なことが作用すると思う。

もちろん、過剰に神経質になる必要などなく、対座であれ隣同士であれ、店内のどんな席に座ることになるかも含め、基本的には全ての展開を楽しめばよいだけのことなのだが。

 

肩と肩が触れそうな ’’隣同士’’ に着座し、沈黙の間を含め、何の気負いもなく目と目を合わせる ’’以上の’’ 親密さで語り合える相手。

そんな相手に巡り逢えている人生は、それだけで十分に豊かだ。

 

le 3 Juin 2023


カメラ付き携帯電話の爆発的な普及によって、今やこういう光景は、日常のそこここで頻繁に見かけるもののひとつとなった。

 

この日も、抜けるような青空の下、笑顔のカップルが幸せそうに撮影していて、思わずこっそりとその姿を捉えさせてもらった。

 

彼らの携帯が写した映像はおそらく二人の笑顔のアップだろう。

 

写真とは、’’ある一瞬’’ を二次元の異空間に残すとても素敵な媒体で、二度とない ’’その瞬間’’ を永遠に閉じ込めるようなニュアンスをもっていると思う。

 

このカップルも、パリのこの場所で、この日この瞬間、どんな心境だったのかを、後々その写真を見て思い出すだろう。

 

腰に回された手、彼女の腕を支える彼の左腕、身を寄せて立ったその感覚・・・

画面には写らなかった様々なものを含め、彼ら自身がその幸せを追憶の中で味わう時、可視化された一枚の写真が彼らの意識に働きかけることで、それは三次元にも四次元にも変化する。

 

写真は、単なる記録媒体にとどまらず、あらゆる記憶を引き出すためのひとつの手段にもなり得るのだ。

画面に写り込まないことで、逆に記憶の奥に入り込む --- そんな秘技も持ち合わせている実はスゴいもののような気がする。

 

le 5 Juin 2023


自分の望む自分を求めていい。

健やかな笑顔でいられる自分自身でいていい。

そんな密やかな願いがどんどん表に出始め、今やそれがスタンダードになりつつあることに誰もが気づいている時代だ。

 

だが、ある世代以上の人々の意識のどこか、細胞のどこかには、未だそれにブレーキをかけるものが強く残っているのも事実だ。

 

あまりにも有名な戦時中の標語『欲しがりません勝つまでは』。

1942年(昭和17年)に公募によって選ばれたこの標語は、語呂のよさも手伝って、当時の大人たちのみならず、素直な感性を持つ子供たちに、より強いインパクトを与えたのではないだろうか。

 

’’三つ子の魂 百までも’’ というように、幼少期に吸収したものは骨の髄まで入り込み、その彼らが親となり子育てしてきた中で、その信条が次世代へまでも引き継がれてしまったように思う。

 

勿論、時代ごとの背景はあり、この標語がプロパガンダとして国民を牽引した事実に後世の人間が口を挟むなどは不文律だろう。

 

けれど、本来私たちは『自分らしくあるために、堂々と欲しがっていいのだ』と、もういい加減にしっかり意識した方がいい。

 

したい髪色に染め、まず、自分を好きな自分自身でいられるように真正面から向き合う、そのための行動を選択する、そんなシンプルなところから人生の喜びは始まるのだ、ということを。

 

le 8 Juin 2023


東京でも大阪でも、またロンドンでも、大都市の地下鉄の駅名はほとんどがその場所 / 地名と密接に関係しているものだ。

ニューヨーク地下鉄に至っては、そのものズバリというか、わかりやすくていいのかもしれないが、通りと丁目を組み合わせただけのシンプルさが、私には少々味気なく感じてしまうのだが...。

 

パリの地下鉄はというと、「Opéra オペラ座」「Ecole Militaire 陸軍士官学校」「Gare du Nord 北駅」「Gare de l'Est 東駅」のように施設そのものが駅名になっていたり、「Voltaire ヴォルテール」「Alexandre Dumas A. デュマ」「Victor Hugo V. ユーゴー」などなど、歴史に名を残した人の駅名もたくさんある。

 

かと思えば、「Bel Air(直訳で ’’美しい風 / 空気’’)」や「Laumière(直訳で ’’光’’)」、そして「Bonne Nouvelle」は ’’吉報’’ や ’’朗報’’ という意味で、それだけでなんだか良きものがもたらされるような言葉が駅名になっているところもある。

 

人を元気に、幸せにする力が詰まっている ’’良い報(しら)せ’’。

吉報、朗報、という言葉の他に、喜報、快報、勝報、という言葉もあり、伝える内容によってこれほどまでにヴァリエーションある日本語を、せっかくなら豊かに使える日常を過ごしたい。

 

生きていれば、当然ながらこれらとは逆の主旨の通知を強いられる場面も避けられないが、ひとつでも多くの ’’喜び事’’ 、ひいてはプラスのエネルギーをこそ、お互いに渡しあえれば素敵だ。

’’良きもの’’ が廻り、倍増していくことで幸せが広がってゆく。

決して絵空事ではないはずだから。

 

le 9 Juin 2023


地上の公共交通機関は市バスかタクシーしかなかったところへ、パリ市が時間貸し自転車を導入してから早16年。

時間貸し電動キックボードの登場からは5年目となった。

 

時代ごとのニーズによって新しいものが生まれるのは交通機関に限らず、人間は様々なものを器用に考案し、現実化させていく。

使う側も器用に取り入れていくわけだが、必ずしも「良識」ある人間ばかりではなく、そのために細かいルールまで誕生する。

 

色々な人がいるので仕方ないとはいえ、なぜ人間は、誰かによって「規則」を決められないと良識ある行動がとれないのだろう。

 

あまりに危険な行為が多発するため、今年四月には電動キックボードの規制強化がなされ、禁止されている二人乗りへの罰金もそれまでの金額から一気に四倍(!)近くまで跳ね上がった。

それで済まず、遂にパリ市が行った住民投票の結果、今年九月からは市のシェアリング自体が禁止されることになったという。

 

結局、禁止事項が増える事態を招くことで己の首を絞めていく、そのループに気づかないのは人間の愚かな一面のように思える。

 

自分さえよければ、ではなく、想像力を働かせ周囲のことにほんの少し考えを巡らせるだけで、どんなことも大きく違ってくる。

 

本来、「規則」や「禁止事項」なんて少ないほどいいのだ。

本当の意味での ’’豊かな時代’’、ダメ元でもそれを思い描きたい。

 

(*写真と本文に直接的な関係はありません)

 

le 11 Juin 2023


’’暑くもなく寒くもなく’’ という一番過ごしやすい時期が一瞬で過ぎ去ってしまい、気温高めの真夏日が続くここ数日。

「水」の存在を、普段にも増して有り難く感じる季節となった。

 

液体、固体、気体、様々に姿を変えながら地球を廻る「水」。

雨が大地に沁み渡って作物が育ち、それをいただく私たちが身体に栄養を行き渡らせることができるのも、全て「水」のお蔭だ。

海を健全な状態に保ってくれているのも、自然界の循環の力。

 

そして、私たちの身体から出ていく水分が、様々な行程を経てまた自然界に戻り、巡り巡って再び私たちのもとへと恵みをもたらしてくれる。

 

そうやって「水」は、循環の要として、地球というひとつの生命体を生かしてくれている。

 

あらゆる植物や動物たち、そして細菌などの微生物を含め、自然界のあらゆるものが絶妙なバランスを保って存在することでこの星が健やかに生きているとすれば、そこに生かしてもらっている私たちは、いったいどんなふうに生きればよいのだろうか。

 

南米アマゾンの密林の中、救出されるまでの40日間を、なんと乳児を含むたった四人の小さな子供たちだけで生き延びたという。

彼ら先住民族の自然界との共存力、’’人間’’ という生命体としての本来の能力が今なお備わっているからこその生還劇を見て、同じ生命体として、見習うべきことが沢山ある気がしてならない。

 

le 14 Juin 2023


セーヌ川はもちろんのこと、噴水や池のあるパリ市内の公園でも年間を通してその姿を見かける。

都会の中にうまく共存していて、公園内でのんびり歩きながら移動する姿や、こんなふうに芝生の上で寛ぐ姿も珍しくはない。

 

この鴨のカップルも、人間がベンチに座って日光浴している傍まで来て、二羽で腰を下ろす位置を決めた後は、そこを動くことなく一気に午後のリラックスタイムへと突入していった。

 

どうやら雌の方はかなり眠かったようだ。

「ワタシ、寝るわね」と言うか言わぬかのうちに、頭を背中の羽にうずめて本格的な睡眠体勢に入る中、雄は周囲に神経を巡らせ、雌をしっかりガードする気配を全身から漂わせはじめた。

 

花々に囲まれた場所で愛妻の昼寝を見守る様は、さながら騎士のようでとてもカッコよく、心なしか彼自身も誇らしげな様子だ。

 

羽の美しさや佇まいが、今風の言い方をすると ’’シュッとしている’’ この雄に、全幅の信頼をよせる雌。

 

動物も個体ごと個性があるのは当然で、この素敵なカップルを、そこにいる人たちが同じような思いでさり気なく見守る空気が漂い、思わず微笑みがこぼれたのは私だけではなかった気がする。

 

le 18 Juin 2023


すっかり観光シーズンとなり、あの、数年に及んだ地球規模の大騒動が完全に昔話になったと笑い飛ばせるほどに、パリの街は今、諸外国から訪れる大勢の観光客で昨夏以上に賑わっている。

 

民族も年齢層も幅広く、小・中学生ぐらいの子連れ一家、各世代のカップル、少人数の女性グループ、ルーヴル美術館近辺などではハイテンションの修学旅行生たちもたくさん見かける。

老人会の団体さんや、定年後のセカンドライフ満喫中のご夫婦なども多く、フランス語もけっこう聞こえてくることを思うと、国内旅行をされている方々も多いということだ。

 

人間、幾つになっても、知らない土地を訪れる機会を持ちたい。

たとえ日常生活に満足していても、そのルーティーンから意識して抜け出すことは、とても大切なことのように思うからだ。

 

自分の知っている世界など、実はものすごく小っぽけなものなんだと、そこから出てみて初めてわかる。

頭での理解でなく、体感として、感覚でそれを実感できた時、自分の中の今まで使ったことのないスイッチが入ることがある。

 

そのための「なにか」がいったい何処にあるのか、いつ、どんな形で出会えるのか、いざそのスイッチが入る瞬間まで、実は誰にもわからない。

 

未知の場所に出かけてみること、見たこともないものを見てみようと試みること、新しいスイッチが入るきっかけとなる「光」を「観」に行く、その「観光」の真髄とともに、日々ありたい。

 

le 22 Juin 2023


我々は、生まれ落ちた瞬間から、様々なものを吸収し始める。

年齢と共にどんどん広い世界へと自分の身を置くようになり、様々な出会いをきっかけに次々と新しいものを取り込んでいく。

そしてそれが、己の血や肉となっていく。

時には遠回りな道を行ったりもするが、後から振り返れば「その道を選んだからこその今だ」と納得でき、感謝にも繋がる。

 

誰もが、そういうふうに歳を重ねていく。

 

たまに「私の人生のピーク時は」という表現を耳にするが、それは単に、肉体面を指しているに過ぎないのではないかと思う。

確かにある年齢を過ぎると体力も落ち始め、いわゆる ’’ガタ’’ がきたりもするだろうが、そこばかりにフォーカスしてしまうことで、精神面までも引っ張られてしまうのは残念すぎやしないか。

 

生きてきた歳月の中で、自分の中に沢山の良きものを増やしてこれているとしたら、’’ピーク’’ は常に今であり、これから先だ。

 

辛いこと、苦しいこと、喜びも感動も数多く味わい、実は、全ての経験を通して ’’愛する力’’ を育むようになっているという。

 

他者をゆるし、己をゆるし、己を愛し、他者を愛する・・・

心身の成長と共に、その能力に磨きがかかっているはずなのだ。

 

相手への尊敬と信頼に満ちたこのご夫婦の後ろ姿が眩しかったのは決して逆光だったからでなく、我々がこの世に生まれてきて学ぶ ’’一番大切なもの’’ がお二人から溢れ出ていたからに違いない。

 

le 25 Juin 2023


この時期のパリは、カラッと晴れる日が多い。

 

母国の梅雨に思いを馳せては思う、地球上のあらゆる国々は、気候ひとつとっても本当にとことん違うのだなぁ、ということを。

 

直接大地に根を張って生きていく植物だけに限らず、人間も、住む場所の気候や風土によって作られるといっても過言ではない。

 

この国の人々を見ていていつも思うのだが、彼らは日々、「今日はどんな楽しいことをして過ごそうか!」、これが思考の核だ。

まして六月は、間もなくの夏のヴァカンス期をどこでどんなふうに過ごすか、彼らの頭の中は9割以上がそれで占められている。

 

それもこれもこの土地の気候がそうさせるわけで、その在り様は、生き物としての本能に蓋をしない生き方のように感じる。

 

そう、我々は想像以上に ’’環境’’ の影響を受けながら生きている。

 

もちろん誰もが快適な常夏の島に住めるわけではないが、できる範囲で、自分にとっての最大限に快適な環境に自分の身を置けるようにと、そのことへの意識と行動を失わないでいたいと思う。

 

身を置く ’’環境’’ によって、思考が大きく違ってくるからだ。

自分への対応、他者への対応、あらゆるものに影響するからだ。

 

ここでいう ’’環境’’ とは、実は、気候云々だけではない。

人間関係をも大いに含むことを、決して忘れないでいたい。

 

le 28 Juin 2023