過去のつぶやき

2020(7月〜12月)

2020年の後半に入った最初の二日間、立て続けに「一粒万倍日」だったのは、なにか佳き展開の前触れのようだ。

 

日本人はとにかく謙虚で、なにかと人より一歩引いて「いえいえ私なんか...」という態度をとりがちだけれど(そう教育されてきた、ということも大きいが...)、本来、繊細で思いやり深い日本人の中に流れる 『和を以て尊しとする』という聖徳太子の教えに則(のっと)った精神は、’’過剰な’’ 謙虚さを強いているわけではない。

 

自分を小さく見せておけばヘタに目立つこともなく、面倒事も起きないだろう、というのはちょっと残念な発想のような気がする。

 

虚勢を張れと言いたいのではなく、’’ちょうどよい自信を持つ’’ って、大切なことなんじゃないのかな。

 

自らを信じる、それが「自信」。

 

行き過ぎてしまうのが「過信」でこれはまぁロクなことはないが、「謙虚」は一歩間違うと「卑下」になってしまい、これもこれでロクなことがないと知っている人は意外に少ない。

 

この『ガザニア』の花は『勲章菊 クンショウギク』という和名がついているそうで、まさに胸につける勲章の形そのものだ。

 

一日をふり返って、あぁ今日も笑顔で人に接する事ができたなぁ、温かい言葉を使って会話ができたなぁ、という日。

自分の心に偽りなく、自分の精一杯で何かひとつでも丁寧に行えたことがあったなら、そんな自分にたまには勲章を贈ろう。

 

頑張っている素敵な自分を褒めるのも、実はとても大切なこと。

その勲章を糧に、さぁ明日もまた、自分をもっともっと輝かしていこう!

 

le 2 Juillet 2020


雨や雪、あるいは強い日差しを避けるために差す、傘。

そう、降ってくるものから身を守るために。

 

ズブ濡れになっている人を見かけたら差し掛けてあげよう。

冷たい雨で身体が冷え切ってしまわないように。

 

心に雨を降らせている人にも、そっと差し掛けられたらいいな。

かつて、自分が多くの人にそうしてもらってきたように。

 

災害、疫病、差別や戦争...  いろんなことは起きるけれど、誰もが生れながらに持っている ’’愛’’ という名の傘を差し掛けていくなら・・・ 心配しなくて大丈夫。

 

いつも素敵な波動を放ち、それを廻らせていく限り、必ずすべては守られ、結果的にすべてはうまくいく。

この星は、そういう仕組みになっているらしい。

 

le 5 Juillet 2020


明治6年(1873年)に太陽暦が採用されるようになるまで、日本では長いあいだ太陰太陽暦が使われていた。

 

太陽の運行をもとにした太陽暦(いわゆる「新暦」)に対して、「旧暦」の太陰太陽暦は月の満ち欠けをもとに太陽の運行も取り入れた暦のこと。

 

今年の7月7日は旧暦になおすと8月25日になるらしく、なるほど確かに「七夕」が秋の季語であることと結びつく。

しかもその頃は上弦の月となり、月が地平線に沈む時間が早いため、月明かりの影響をうけにくく、天の川の見える確率も高いそうだ。

梅雨の真っ最中、新暦での七夕とはずいぶん違う。

 

いずれにしても、空の上では雨もなく、今年も幸せな天の川での逢瀬がなされることだろう。

彦星:わし座の一等星アルタイルの年齢は約10億〜12億歳。

織姫:こと座の一等星ヴェガの年齢は3.5億〜4.5億歳。

 

何億年も続く永遠の愛。

 

地球上の時間の単位から離れて果てしない天空に思いを馳せてみたくなる、今日はそんな七夕の節句。

 

le 7 Juillet 2020


疲れた時、ほっとしたい時、人はそれぞれ自分流の対処策を持っていると思う。

 

その中のひとつ、’’温かい飲み物を飲む’’。

古今東西、おそらくずっと好まれてきたことだろう。

 

水分補給という現実的なことだけでなく、その時に流れる時間のもたらす効果が大きい。

 

お気に入りのカップにお気に入りの飲み物を丁寧に入れ、お気に入りの椅子に腰掛け、お気に入りの...  etc...。

 

日常の中にそういう時間を持つことは、とても自分を大切にすることになる。

 

自分を大切にしていると、他人のことも大切に思えるようになる。

愛をもって接さずにはいられない心の在り方になっていく・・・

 

le 9 Juillet 2020


ふと、こっちの道を通りたくなった。

なぜか、これを手にとってみたくなった。

なんだか、このことを調べたくなった。

 

全部、偶然ではなくて、今、必然として ’’降りて’’ きたもの。

 

だから、躊躇せずそのインスピレーションに従ってみるのがいい。

導かれるように、スイスイと道が広がっていくから不思議だ。

 

無意識のうちにずっと探していたもの、知りたかったこと、出会いたいと願っていたもの。

まったく意図していない瞬間にそれらとの距離が縮まる。

 

思ってもみなかったタイミング、考えもつかなかった方法。

不意にやってくるそのサイン。

 

いつでもキャッチできる自分でいたい。

そう思うだけでワクワクしてくるよなぁ!

 

le 13 Juillet  2020 


万葉集や平安時代の書物にも登場し、昔から親しまれてきた花、『桔梗 キキョウ』。

 

特に、藍色や紫色の一重(五枚の花弁)の桔梗は小さい頃から私の大好きな花のひとつ。

色合いといい、佇(たたず)まいといい、’’尊敬する憧れの同性の先輩’’ を目の当たりにしたような気持ちになる。

なんというか... 背筋が伸びるような心地良さ、丁寧に言葉を選んで温かい会話を交わしたくなる... そんなかんじだ。

間違っても ’’タメぐち’’ での会話なんてありえない(笑)。

 

最近は背の低い桔梗も出回っているけれど、やっぱり私は従来のスラッと背の高いのを見ると「美しいなぁ」と感動する。

 

その桔梗が絶滅危惧種II類に指定されているとは知らなかった!

タンチョウやオオサンショウウオもこの同じ項目に入っていることを思うと、桔梗もかなりの危機に瀕していることがわかる。

 

近年は、いつの間にか入ってきた外来種が爆発的な繁殖力で他の植物の生育を阻害し、挙句には駆逐させてしまう例もあるようだ。

 

増え続けるものと絶滅していくもの・・・

大きな視点で見ればそれも地球の変化のひとつだと言えなくもないし、そのものに罪はないけれど、丁度よいバランスで成り立っている生態系が崩れるとしたら... 人間にもきっと影響は出るだろう。

 

それはともかく。

大好きな桔梗がそんな状態なら尚のこと、せめてウチの庭で少しずつ増えていってくれたら嬉しいなあ。

 

le 15 Juillet 2020


「ウォーキング」と「散歩」。

どちらも同じ「歩く」という行為だけれど、似ているようでよくよく考えてみるとだいぶ違う。

 

「ウォーキング」は、歩くことそのものを目的にもくもくと歩を進めていく、言わばトレーニングに近いものかな。

対して「散歩」の方は、時には足をとめて道端の花々を見たり、空を仰ぎ見て雲を観察したり、例えば私は、お地蔵さんがいらっしゃると立ち止まって手を合わせたりもする。

もちろんウォーキング中にそういうことをなさる方々もいらっしゃるとは思うけれど、基本的に両者は歩く ’’ニュアンス’’ が違う気がする。

 

... てなことを考えながら歩いていると、一戸建ての家々の庭先がそれぞれ違う装いをしていることに改めて興味がわいてきた。

 

アイビーを綺麗に刈りそろえて青々とした垣根のようになさっているお宅。

植木鉢をセンスよく並べてお玄関までのアプローチを優しい雰囲気で飾っておられるお宅。

中には網を張ってキュウリを栽培しておられるお宅もある。

蔓が伸びるので緑のカーテンにもなるし、黄色い花は夏の陽にとても映え、見ているだけで笑顔になってくる。

 

健康維持の為のウォーキング、心の栄養にも良さそうなお散歩。

どちらも素敵な時間だ。

 

そして・・・「人生」も、まさに歩みそのもの。

自分の歩き方、自分のペースでいい、どんな道を選んだっていい、味わいながら歩みを重ねていると、その先には自分の想像を超えた素敵なものが待っていることは間違いなさそうだ!

 

le 17 Juillet 2020


あの若武者のように、身を挺して大切な何かを守ろうとしたのか。

 

それとも。

 

宝石の光に、此処ではない何処かへ吸い込まれていってしまったのか。

 

 

たくさんの、本当にたくさんの素敵な才能を使い切らないうちに、君は空の向こうに何を見ようとしたんだ...?

 

 

数え切れない問いかけが天を舞うだろう・・・

 

梅雨の終わりに広い範囲で塩っぱい雨が降り続くだろう・・・

 

哀しみの波がすべての海を走るだろう・・・

 

 

 

ただ安らかに

若者よ...

 

 

le 20 Juillet 2020


華やかな波動を放ち心に潤いを与えてくれる時もあれば、花々は、黙って寄り添い心の涙を静かに受けとめてくれる時もある。

 

どんな強い風雨にさらされても、細い茎や小さな葉、頼りなげに見える花穂はそれに身を委ねて耐え忍び、一晩じゅう雨に打たれた後、朝日とともにゆっくり復活していこうとする。

 

その、か弱くみえる姿とは真逆の、力強い生命力を宿した様よ。

 

命の讃歌が今日も眩しい。

 

le 25 Juillet 2020


人生はよく「旅」に例えられる。

 

わたしたちが、遠いどこかからこの地球という星を「旅先」に選んで来たんだとしたら・・・

その旅程は千差万別、人それぞれとことん異なるものとなる。

 

旅に出る前に魂がすべてを計画してここにやってくる、と、その世界の人たちは言う。

 

生まれる時代、国、街、両親、環境 etc... すべてを選び、やりたいこと、使命に燃えて出発してくるんだそうだ。

 

生まれ落ちた瞬間、それら全てを忘れてしまうように出来ているらしいけれど、それはこの旅を精一杯、とことん味わい尽くすためらしい。

 

嬉しいこと、楽しいこと、感動や驚き、そして辛いことや悲しいことも、思いっきり ’’経験する’’ ためにここに来ると聞く。

 

人の数だけ旅がある。

 

どんな展開であろうとも、その長さに関係なく、すべての旅は紛うことなく尊い。

 

le 27 Juillet 2020


まるで、最高級のビロードの質感を伴ったような美しい色。

 

シンプルなデザインのローブデコルテか、男性用ならテーラードジャケットを仕立てるのはどうだろう。

胸元から覗くチーフは、こんなかんじにレモンイエローがいいかもしれない。

 

内側から薫り立つ気品、華やかさと繊細さが共存する澄んだ佇まい、言動には教養とセンスが溢れ、なんといっても慈愛に満ちた眼差しを持った人、そんな人がこんな色を纏(まと)っていたらさぞ素敵だろう。

 

遠目にもそこだけまばゆく、プリズムの作る虹のような光がその人を包み込んでいるかのように見えていて、実はその人自身から放たれた波動そのものだったと気づくのは、その人がそこを去った後だったりするのだろう。

 

濃い残像を残して散っていく花に、どんな言葉も無力だと、そのとき初めて知って愕然とするように・・・

 

le 29 Juillet 2020


就寝中、私たちの身体は細胞が修復、再生され、酵素が生産され、代謝が促され etc... すごい勢いでメンテナンスされている。

毎晩寝る前にスイッチを ON にしておく必要もなく、予約の必要もなく、身体さんは勝手にそういうことをやってくれている。

 

肉体の方がそうやってクレンズされている間、実は別の部分でも自動的に行われていることがあるような気がする。

 

目覚めた時の記憶の有無に関係なく、私たちの魂は毎晩、私たちが考えつかない次元の旅をしてるんじゃないだろうか。

 

パラレルワールドに何不自由なく行き来している、としか思えない時がある。

 

「夢」だ。

 

覚醒時ではありえない設定が夢の中では当たり前のように在り、この世を去ってしまった人と何の不思議もなく会えている。

 

目覚めた時、心が満たされ、温かな印象がしっかり残っているのは、かつてその人と過ごした時に味わったものと同じ感触だ。

 

昨夜は映画撮影の現場で使いっ走りの裏方をやっていた私。

ある事が上手くいかずアタフタするんだが、最終的には何もかも上手くいってグッジョブ!ってシーンで帰還(目を覚ま)した。

 

この世は解明されていないことだらけ。

どうやら、想像を遥かに超える素晴らしい ’’しくみ’’ みたいだ。

 

le 31 Juillet 2020


さぁ 歩き出そう明日へ 振り返らずに

光る風の中 飛んでゆく鳥のように

いつかたどり着くだろう

今よりも膨らむみんなの幸せに きっと

さぁ 微笑みをみんなで分け合おう

 

さぁ 歌声をあなたも声高らかに

みんな今日の日を 大切にしたいもの

いつかめぐり逢うだろう

温かで優しい本当の友達に きっと

さぁ 手をつなぎ明日に手を伸ばそう

 

草や木々が太陽に向かって

静かに花びら開くように きっと

 

さぁ いつの日か夢が実るだろう

さぁ いつの日か夢が実るだろう

 

* * *

 

1970年、大阪万博の年、国鉄(現 JR)茨木駅前にオープンしたイズミヤが、本日、50年の歴史に幕を下ろした。

幼少の頃から今に至るまでの半世紀(!)、肌着やカジュアルウェアなど良質のものを沢山たくさん買わせていただいてきた。

 

何十年間、聞くともなく店内に流れる曲を耳にしてきた訳だけれど、改めて、その歌詞の強いメッセージ性、素晴らしさに驚く。

 

知らず知らずのうちに、励まされ、勇気づけられていたんだなぁ。

さまざまに湧き上がる想い、心からの感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

le 2 Aout 2020


真夜中の空は特に饒舌だ。

 

子の刻から丑の刻への間(はざま)。視覚でも聴覚でもないところに沢山の呼びかけが降ってくる。

 

窓辺で見上げる者だけにではなく、明朝の開花を準備する蕾にも、羽化中の蝉の背中にも、眠っている赤子の上にも、地球上すべてに惜しみなく注がれる。

 

豊かなる宇宙に抱かれたこの美しい星に生かされているわたしたち。

 

信頼し、委ね、自分自身でいればいい。

 

le 4 Aout 2020


西の空が茜色に染まり始めるほんの少し前。

 

気高い波動を身に纏(まと)ったものたちがいる。

黒龍と、それに導かれているのは白龍... ではなく白馬だろうか。

なびく翼がみえる。

おぉ、彼はペガサスだ!

 

泳ぐように、翔ぶように、滑るように、駆けるように。

自在に動く二頭は、阿吽の呼吸を保ちながらはっきりと目的を持って進んでいる。

 

「こっちだ!」

 

まだ若い白馬を、導き手を担(にな)っている黒龍が力強く、愛いっぱいに先導している様が頼もしい。

 

空という大劇場で繰り広げられる素晴らしいスペクタクル。

想像を遥かに超えたことがそこにある、と確信する瞬間。

 

le 5 Aout 2020


生活の中での様々なものが、かなりの確率で ’’自動’’ な今の時代。

ボタンひとつで全行程が進んだり、予め設定しておくと毎日同時刻にスイッチが入ったりするのは当たり前。

今や機械に喋りかけるだけで、召し使いさながら返事をし、動くものまで出てきた。

 

ただ・・・

自分の人生の次の扉は ’’自動’’ にはなっていない。

その扉の前にじっと立っていても、残念ながらコンビニのドアのようには開かない。

他の誰かに開けてもらうこともできない。

あくまで、自分の意思で、自分自身で開けるしかない。

 

どんな年齢になっても新しい扉は現れる。

現状にある程度満足だし、第一面倒くさい、だから開けなくてもいいや、という選択もアリだけど、う〜ん... 勿体ない気もする。

 

だって、それは決して立ちはだかる壁なんかじゃなく、扉のこちら側で巡らせている想像なんてブッ飛ぶほどのワクワクに満ちた世界だから。

せっかく遊園地に来たというのに、ひとつかふたつのアトラクションだけでもういいや... というのと同じことだから。

 

わたしたちはこの星に、’’行動することで学ぶ / 成長する’’ ためにやってきた。

怖がる必要なんてない。

思いっきり、たくさんのことを味わおう!

 

le 7 Aout 2020


「不要な物を捨てましょう!」、そう、巷でいわれる ’’断捨離’’。

 

実は、目に見えないからわかりにくいが、自分の内側にももう要らないのに後生大事にとってあるモノが案外たくさんある。

 

代表格は、なんといっても知らず知らずのうちに小さい頃から磨きをかけてきた「考え癖(ぐせ)」や「思い癖」だろうな。

 

なにせ物心つく前から環境として傍にあるのだから、真っさらな子供の心は全力でそれを受け取って自己形成していく。

家ごとの、家族ごとの、親ごとの考え癖があるだなんて、かなり大きくなってからじゃないとわからない。

しかもその頃には、それが細胞の隅々にまでしっかり染み込みまくっている、ときてるのだから...。

 

だから神様は、様々な事象を起こしてそれに気づかせて下さる。

わからなければ、何度でも同じことを経験させられる。

 

時代が大きく変わってきている今。

何が良い、何が悪い、ということじゃない。

ただただ、’’自分軸’’ がなにより大切になってくる。

 

今こそ宇宙の力を借りて、心の中に何十年と持ち続けてきたものでも、不要だと気づいたら迷わず手放していく時だ。

 

le 8 Aout 2020


自分を俯瞰できた時。

見守られている自分と、見守っている自分とを意識できる。

 

様々な感情に翻弄されている時だって、ぐったり疲れている時だって、もうひとりの自分が温かい眼差しで受けとめてくれていることがわかる。

 

そして感じることができる。

 

大丈夫だよ、という波動を。

 

どんな時もあなたはあなたのままでいいし、どんな時も独りじゃないよ、って。

 

「存在していること」それじたいがどれほど素晴らしいことなのか、普段は忘れていることを深いところから思い出させてくれる。

 

自分の一番の味方、最強の応援団長。

 

そんな自分を大切に、たっぷり感謝し慈しみの心を向けよう。

自分自身を愛で満たし、愛あふれる状態にしよう。

 

そうしたら、大切な人を、本当の意味で大切にできるようになるから。

 

le 10 Aout 2020


ほんの数年前まで、年賀状や暑中見舞い、そして普段のなんということのない時でも、膨大な絵葉書コレクションの中から送る相手にあわせて「これ!」という一枚を選び、それにあう切手を選び、手書きの便りを書くのが日常の一部だった私。

 

すっかり電子メールが生活に定着してきた今、ひとりひとり親しいかたのお顔を思い浮かべてペンで言葉を綴るという行為はめっきり減ってきてしまった。

 

聞くところによると、若者世代にとっては今やメールですら ’’重い’’ と感じてしまうんだそうで、そんな時代に手書きの手紙というものは、例えば私の感覚に置き換えてみると「筆で書かれた巻文」ぐらいのかんじかも?? と想像してみている。

 

それはそれで風情があっていいなぁ、な〜んて思ってしまう私だけど(笑)。

 

それはともかく。

手段にかかわらず、コンタクトをとりたいという思い、そしてそれを行動に移すことをいつも大切にしていたい。

 

今年もまたご先祖様に思いを馳せる季節がやってきた。

 

そうだ! 天国宛てに便りを出してみようかな!

いつも見守ってくださっていてありがとう! って。

 

le 12 Aout 2020


ナポレオンの勝利を祝するために建てられた凱旋門はパリに二つある。

 

チュィルリー宮(現在は公園)とルーヴル宮の間に建つ ’’カルーゼル凱旋門’’ は、細やかな彫刻が随所にほどこされていて、個人的にはこっちの方が好きだが、世界中の人々がいわゆる「パリの凱旋門」といえばすぐに思い浮かべるのは、これよりもっと西に位置する ’’エトワール凱旋門’’ だ。

 

「こんな小さいのはイヤだ!もっと大きいのを作れ!」、ナポレオンがそうゴネてエトワールの方を作らせた、との逸話がさもありなんと思えるほど、そのサイズは明らかに違う。

 

ところで、空からこっちを眺めたら地球はどう見えるんだろう。

あの世から見たらこの世はどう見えるんだろう。

 

この世を去る時に、築いた富も、地位も名誉も賞賛も、どれだけ凄かろうがすべてここに置いていくことになる。

 

「俺サマの輝かしき勝利のお蔭で世界的観光名所になってるじゃないか!」と得意気に思っているのか、それとも「オレ、わがまま言ってふたつも作らせちゃったなぁ。権威を形で表そうと必死だったオレ... 小っちぇえ奴だったなぁ。」と思っているのか。

 

地球上のあちこちに泡沫(うたかた)の日々が記録される...。

 

変わらず今日も、空は青い。

 

le 14 Aout 2020


光と影。陰と陽。

 

喜びと哀しみ、明と暗、富と貧、生と死... etc...

わたしたちの世界は二極であり、「陰陽の法則」というものが調和を作りバランスをとっているんだそうだ。

 

ともすると「陰」にあたる部分を良くないもの、劣っているものと認識し、「陽」の部分こそが素晴らしいもの、と我々は捉えがちだけれど、本来、陰も陽も、良い / 悪い ではないんだそうだ。

表裏一体で、つまり分離不可なもの。

 

この世とあの世も陰陽の関係らしい。

 

猛暑のピークともいえる今の時期、光も影もくっきりとその存在をアピールする。

 

それと対比をなすように・・・

聞くところによるとお盆の時期には、この世とあの世の境目がやわらかくなるのだそう。

 

うん、確かにそんなかんじがする。

子供の頃にはよくわからなかったことが、なんだかストンと私の真ん中に落ちてくる気がするよ。

 

それでも、わからないことだらけ・・・

なぜ...? どうして...?

わかりそうでわからない沢山のことを、天に向かって、自分に向かって、今日も訊ね続けている。

 

le 15 Aout 2020


様々なものに守られて、誘(いざな)われて、我々は日々を生きている。

日常の一瞬一瞬、些細なことも含めて、生きるということは選択の連続なのだから。

 

でも、そんなに緊張しなくていい。

むしろ、力を抜いてる方がいい。

 

あまり心配しなくていいし、怖がらなくていい。

 

悲しみ過ぎない方がいい。

 

大いなるものに見守られているのはどう転んでも確かだから、ただただ心から信頼し、日々朗らかに過ごすことに精一杯ポジティヴなエネルギーを注げばいい。

 

おやすみなさいと枕元の灯りを消す時に、今日のこの日がどれほど守られていたのかに感謝があふれる。

 

le 17 Aout 2020


水面(みなも)を見つめる君の瞳に 何が映っているのだろう

 

流れに身を任せて泳ぐ生き物たち

あるいは水底にゆっくり転がる小さな石

反射する雲の形に なにかを連想することもあるのか

 

それとも

目に映るものではなく 心に映るもの

 

ふと思い出しているのか どこかの港のざわめきを

飛んできた空の青さを

かつての群れのゆくえを

 

すべてのものは移ろいゆく

この世の無常を

君ならどう受け止めるのか よければ聞かせてくれないか

 

le 19 Aout 2020


この世に生まれてきて一番濃い関係を築くことになるのは、なんといっても「親子」、その次に「きょうだい」だろう。

 

どんなふうにしてこの ’’ご縁’’ は決まるのだろう。

 

空爆後の瓦礫の中に「我が子」をみつけた若い独身女性。

血のつながりのない間柄でありがながらもそういう関係を結ぶことが「運命」の人たちもおられ、そんな例をみると尚さら、全てのご縁は ’’魂’’ がそう決めてくるのではないか、と思う時がある。

 

科学や医学がどれだけ進歩しようとも、おそらく永遠にそのシステムが解き明かされる日はこないだろう。

 

だが、自分の深い深いところに潜っていくように意識を進めてみると、少なくとも感覚的にうっすらわかってくることがある気がする。

 

親きょうだい、我が子。

今生で、出逢うべくして出逢う人たち。

 

表面に沸き起こってくる感情は時として様々だとしても、魂の部分ではしっかりわかっているのだと思う。

そのご縁は「愛」を学びあうためにあるのだ、ということを。

 

そしてそれは、すべてのご縁に言えることなのだと。

 

le 21 Aout 2020


全身の血が沸騰するんじゃないかと思うようなこの暑さも、そのうちそれを懐かしむ季節へと移行してゆく。

 

何故あんなことを私に言うのだろうと思ってしまう相手の気持ちも、いつしか穏やかにわかりかけてくる。

 

ものごとが、ふわっと柔らかくなっていく時。

 

片や、もう枯れてしまったと思っていた薔薇の茎に鮮やかな色をした小さな若葉を見つけたり、長く交信の途絶えていた人との温かな交流が再開したり。

 

なにかがキラッと動き始める時がある。

 

すべての状況は一瞬ごとに違う。

 

だとしたら・・・

かけがえのないすべての瞬間に優しい微笑みを向け、小さな移り変わりをも丁寧に味わいたい。

 

日々の作務を、ひとつひとつ感謝を込めながら行いたい。

 

何かを成し遂げることを目的にするのではなく、その過程にこそ ’’今’’ を生きている感動の種が隠されている気がするから。

 

le 23 Aout 2020


太陽のエルネギーはとてつもない。

 

わたしたちは様々な形でその恩恵に与(あずか)っているのに、ついそれを忘れがちだよな...。

 

真っ赤なトマトや熟れたイチジク、瑞々しい葡萄や桃も、すべては太陽さんのおかげ。

 

普段、当たり前のように過ごしているけれど、植物さんが太陽光を浴びて光合成をし、酸素を作ってくれているからこそ、動物さんやわたしたち人間はこうして呼吸ができている。

様々なことが循環してるんだ。

 

「日光浴」で作られるビタミンD は、免疫機能を高めるためにとても役立ってくれている。

その上、わたしたちの ’’身体の健康’’ を維持するだけでなく ’’心の健康’’ にも不可欠だということはよく知られていることだよね。

 

惜しげもなく、これでもか! と、今日も太陽さんはわたしたちにそのエネルギーを注いでくれている。

まさに無償の愛だよ。

 

ありがとう!

 

感謝して受け取り、元気な心と身体でいよう!

精一杯、いただいた命を生き、愛を循環させていくよ!

 

le 25 Aout 2020


気温や湿度の違いだけじゃなく、日々の空気はその日にしかない香りや肌触りだったりする。

 

日によって気圧も違えば、どれだけ睡眠をとれたか、なども心身にはずいぶん影響があるものだ。

 

同じような毎日を送っているつもりでいても、昨日と今日は同じ自分ではなく、今日と明日の自分だって違ってくる。

 

そんな ’’生身’’ の人間の無意識下には、自分でも気づかない感情や思考、想いなどが思った以上に潜んでいて、それらが何かのきっかけで、もしかしたら意図しない形になって出てきてしまうことだってあり得るわけだ。

 

何気ない言動の、ほんの些細な行間を読み、本人が気づくよりも前に ’’何か’’ を敏感に察知して思いをかけてくれる友がいる...

それはなんと幸せなことだろう。

 

誰にとっても、この世は独りでは生きていけない場所。

 

生まれおちて以降、様々なご縁を授かるわけだけれど、出逢わせてもらえるすべてのご縁は偶然ではなく必然だ。

 

どれだけお金を積んでも得られない、どこかで売ってるわけでもないのに、若い頃はよくわかっていなかった。

この世に、人とのご縁ほどの宝物はないのだ、と。

 

le 27 Aout 2020


翼を授かりし者よ

 

さぁ 思うがままに どこまでも高く翔(か)けてゆけ

 

時の到来を告げるラッパが 間もなく天から聞こえるだろう

 

もはや 世界の何をも おまえを縛りつけるものはない

 

もっと挑戦したかっただろう

やりとげたかったこともあるだろう

見たかった風景もあったに違いない

 

それらはすべて 彼方(かなた)に用意されている

 

もう なにも思い煩うことはない

 

どこまでも 豊かな感性の閃きのままに

迷いなく 自身の気高い魂に誇りをもって駆(か)けてゆけ

 

その翼を得た者は 必ずや 光輝く場所へ誘われると聞く

 

なんの憂いもないところへと・・・

 

le 28 Aout 2020


馴染みあるモニュメントを無意識のうちに探しては、それを確認してはしゃぐ一周目。

 

二周目は、一周目とは異なる景色を堪能しようとするだろう。

 

三周目以降はどうだろうか。

 

地平線の手前に広がる森のシルエットを、より高いところから味わおうとするのかもしれない。

眼下に広がる屋台の賑わいや、犬を連れたマダムたちの様子を観察しようとするのかもしれない。

 

一周ごとを人生の大きな節目に例えるなら、今の自分は何周目の、どの辺りにいるのだろう。

 

どんな風景を、残りの人生で見ていきたいと望むのか。

その感動を、誰と分かち合いたいと望むのか。

 

心に焼き付ける空の色、雲の形、てっぺんで聞く風の音・・・

 

宙に浮くゴンドラという空間で過ごす、制限つきの時間。

 

ワクワクを求めて乗り込んだ、その時の胸の高鳴りをずっと忘れず、廻っている間のすべての瞬間を思い切り命を共鳴させて楽しみ、「あぁ、楽しかった!」と笑顔で後にできるように...。

そうありたいと強く思う。

 

le  31 Aout 2020


ふと口をついて出た言葉が、目の前にいる人の役に立つことがある。

驚くほど、その人のその時の状況を救うことがある。

 

とうてい自分の思考から出た気がしないその言葉は、発した直後、ある独特な感触が後味として残る。

そんな時、私は思う。

「あぁ、神様が私の口をお使いになられたのだな」と。

 

こういうことは、実はあちこちで起きている。

 

だとしたら、いつどんなタイミングで、どんな経路で自分へのメッセージがくるのか、予測できないそれを、受け取り損ねない自分でありたい。

 

たまたま手にとった本の中、たまたま見たテレビや映画の中、ふと目線を向けた電車の中吊り広告に。

そしてある時は、目の前の人の口を通して・・・

 

空や草木、鳥や蝶たち、自然界もたくさんのものを投げ掛けてくれていることに気づく。

 

ずっと考えを巡らせている事へのヒントは、どうやら、思いもかけない時に、意外な方向からくることが多いようだ。

 

その時々のドンピシャなメッセージ。

私のアンテナがしっかりキャッチできますように、どんな時も。

 

le 2 Septembre 2020


片時も止まることなく循環し、すべての生き物の命を支えているもの。

 

水。

 

海や川、湖、そして陸に含まれる水分が太陽によって蒸発する。

それが再び雨などに姿を変えて陸地や海に戻ってくる。

その間に植物、動物、人体の中を通過していってくれることで全ての命は繋がり、そして生かされている。

 

水は、常に移動を続けながら、廻っているすべての行程でその時々の役目をしっかり果たしてくれていることがわかる。

 

地球の誕生以来、延々と繰り返されてきていることを思うと、改めて大自然への畏敬の念が湧いてくる。

 

あれもこれも出来るようなつもりになっている人間も、実は地球という大きな生命体の、その掌(てのひら)の上に乗せてもらっているちっぽけな存在のひとつ。

植物や動物、鉱物たちとの間に、本質的な優劣や上下もない。

 

いろいろなものの循環のお陰で、すべての命が今日も生きているのだ。

 

見るもの触れるもの、この環境 etc...

こんなにも豊かに与えられ、守られているということを知る。

 

「生かされている」ということの、なんと神秘の極みだろう。

 

le 3 Septembre 2020


これ以上 君を涙で追いかけないように

そう 必ずここからは 笑顔で君を追いかけるよ

君が残していった とびっきりの 

どこまでも温かい弾けるような笑顔を真似て

 

これ以上 涙腺を閉じられないでいると

涙の海で君が溺れてしまっちゃ困るものね

それとも うまく波乗り遊びにして

それさえ笑い飛ばしてくれるかな

 

そっちに着いたと 龍から聞いたよ

もう今は すべての重荷から解き放たれて

限りない自由だけを纏(まと)っていると

 

どこへでも運んでくれる大きな翼と

君が最後まで大切にし続けた深い思いやりで

いつでも 時空を超えて自在に移動できるそうだね

 

ここにいた時の 何倍もの愛の存在となって

永遠に君自身を輝かせていくことが始まるんだね

 

月明かりの夜にも たとえ豪雨の中でさえ

きっとそれを感じられると 心の底からそう思える

 

もう一度 改めて伝えさせてもらっていいかな

ありがとう

心からのそのひとことを

 

le 4 Septembre 2020


あぁ こんなところに

小さな天使が舞い降りて

 

夏の終わりの静寂の中

宝石のようなメッセージを届けてくれる

 

その愛らしい背中には

揺るぎのない確信に満ちた強い意志が溢れていて

しっかりと ゆく手に眼差しを向けている様子がわかる

 

一瞬...

風景がストップモーションになったかと思うと

その刹那(せつな)

ほんの僅かな間だけ コマ送りで時間が動いた...!

 

そうか

天使が姿を現してくれるのは ほんの一瞬のことだものね

 

時と時の間(はざま)の

別次元からの優しい贈り物

 

今日も感謝があふれる

 

le 6 Septembre 2020


伸び伸びと、生き生きと、こんなにもエネルギッシュな植物たち。

 

びっくりし、圧倒され、そして何故か微笑みがこぼれてくる。

 

きっとそれは、周囲の目を気にせず、常識という枠にとらわれず、健やかに、堂々と、’’そこに在る’’ からなんじゃないかな。

 

人目や世間の評価を気にするあまり、自分にとって大切な物事の決断を「他人目線」で検討してしまう時がある。

チラッと言われた言葉に必要以上に翻弄されてしまう時がある。

 

そんなもの、一切放り出してしまっていい。

 

自分にとって大切なこと、自分が心からやりたいと思っていることは、自分だけが知っている。

 

魂の声に静かに耳を傾けてみたら、驚くほど直球で答えが返ってくるんだよ。

 

「なぁんだ! やっぱりそうだったのか!」

そう、その調子!

 

健やかに、堂々と、生きたいように生きていい。

やりたいことを全部やればいい。

そのために私たちはこの星に生まれてきたんだから!

 

le 7 Septembre 2020


朗らかに笑顔で日々を送っていると、嬉しいお声かけがふわっと訪れるし、そのお誘いに乗ってみると楽しいことがトントンと進むし、さっきまで降っていた雨が出かける時には急に止んだりもして、爽快な波に運んでもらっている心持ちになる。

 

気の合う友と明るい展望を語り合っていると、同じような波動の人が会話に加わってきて、思いがけない共通項に親近感を覚えたり、知らない世界への誘いがそこに用意されていたりする。

 

実際に身体を使ってどこかまで出かけて行き、実際に顔を合わせてこそ、’’何か’’ は動き出す。

 

相手の瞳から発せられるシグナルは、画面越しでは実際の数パーセント減になるだろう。

その人の持つ熱意や覚悟も、活字越しではやっぱり掴みづらい。

 

こちらの思いだって当然ながら届きにくいに決まってる。

 

扉がせっかくそこにあるのなら、その先へ足を踏み出す勇気を、こんなご時世だからこそ持ってみよう。

 

自分の想像していることなんて、結局は自分の想像力の範疇を越えられない、当たり前だけど。

 

未知の世界は、 360度いつも全方向に開かれてるんだもの。

進んでみない手はないよね!

 

le 9 Septembre 2020


夏の終わりの夕暮れどき。

古い資料に残る 17, 18世紀当時のバロック・オペラ上演の舞台背景そのものの、こんな雲が空を飾っていた。

そうか、あれは誇張された舞台上だけのものではなかったのか!

しばし、呆然と空を見上げた。

 

この世で生きている間は、いわば、自分が主役の1本のお芝居に出演しているようなもの。

今生でご縁ある人たちが、そのお芝居の共演者なわけだ。

 

台本の展開は無限に用意されている。

’’今’’ をどう生きるかでこの先が変わってくる。

喜劇か悲劇かに分類されるようなものじゃなく、世界に1本だけの、オリジナルな演目ということしかわからない。

 

All the  world's a stage, and the men and women merely players.

〔 William Shakespeare 《 As You Like It 》 Act II Scene VII 〕

 

『この世は舞台、人はみな役者』

ウィリアム・シェークスピア 《お気に召すまま》第二幕第7場

 

泣くも笑うも、お芝居が終われば全てが幕の向こうに消える。

 

書き割りではない生の雲に問われた気がした。

「お前はどう生きるんだ」と。

 

le 11 Septembre 2020


どんなに遠く離れていたって、’’思い’’ は届くんだってね。

むしろ、そういう ’’目に見えないもの’’ は、距離や次元など関係ないらしい。

 

目に見えないものといえば ’’愛’’ や ’’憎しみ’’ もそう。

そしてその ’’愛’’ と ’’憎しみ’’ は一枚のコインの裏表のようなもの。

 

大切な相手だからこそ、思ったような反応が返ってこないと腹が立ってしまう...。

一瞬にしてコインがくるっと裏返ってしまうのは、考えてみるととても残念なことだよね。

だって本当は好きなんだし、大事に思っているんだもの。

どうでもいい相手には憎しみすらわいてこないもんだよ。

 

だったら、腹を立ててしまったという事実だけを素直に認め、後はもう、その状態の自分をさっさと手放してしまった方がいい。

 

大丈夫、慌てなくても、急がなくても。

植物の蔓が毎日確実に伸びていくように、そのうち時間薬も効いてきて穏やかで温かい気持ちが戻ってきたら、やっぱり ’’愛’’ だったんだと気づく。

その時には ’’感謝’’ も一緒に届けたくなってるかもしれない。

 

目に見える具体的な手段に捉われる必要はなくて、心からの ’’思い’’ を放てば必ず届く、距離も次元も関係なく。

 

嬉しいことに、ちゃんと届いた暁には何らかのサインが降ってくるらしい、自分だけにわかる形でね。

 

le 13 Septembre 2020


世界がこんなにも広くて、様々な国があり、様々な民族 / 人種がいて、異なるたくさんの価値観があって・・・

まだ、そんなことなど何も知らない頃。

自分の世界が世界の全てだと思っていた頃。

 

朝起きてすぐ頭に浮かぶことも、寝る前に振り返ることも、手をのばせば届く範囲のことばかりだった。

 

半径数メートルの毎日を、それでも一生懸命生きていたと思う。

 

大人になった今、その頃の様々な場面を感情とともにくっきりと思い出せることもあれば、起きたことが記憶の箱のどこを探しても見当たらないことだって多い。

 

でも細胞のどこかに全ては残っていて、今の自分を作っているのだと知れば、関わってきた全ての人にやっぱり感謝しかない。

 

出逢ってくれてありがとう。

あの時、友達でいてくれてありがとう。

 

「いっとき離れていたとしても、必要なご縁は必ず残る」 — どうやらこれは本当のことらしい。

神様の采配に、やっぱり感謝しかない。

 

le 15 Septembre 2020


人の手の入る余地が沢山残されているもの、って楽しい。

アナログであればあるほど面白い。

 

その時の空気、その時の発想、そういうものとのコラボレーションによって立ち上がってくる未知の冒険や発見が、そこにぎっしり詰まってる気がするんだよな。

 

それを掴もうとすることや、味わおうとすること、その過程すら幾とおりもあり、枠やパターンに縛られないのがいい。

 

人生と一緒だよ。

既成の何者かに成って完結することより、自分が選ぶすべての瞬間にこそ新鮮でオリジナルなワクワク感満載なのがね。

 

結局、’’どれだけ楽しく遊べるか’’ ってことだからさ。

 

le 17 Septembre 2020


気の合う人とのティータイム。メールやライン時とは異なる話題の展開は、他には代え難い至福のひとときだ。

 

そもそも ’’気が合う’’ とは、『同じ空間でのエネルギー交換がお互いをハッピィにする関係』ってことじゃないかな。

 

ちょっとした眼差しから、口元から、首のかしげ具合から受け取れるお互いの心情。

 

言葉 / 文章だけでのコミュニケーションでは分かり得ない、なにか大切なもの...  文字どおり ’’氣’’ のやりとり。

 

そこでの笑顔の交換がどれだけ幸せなことだろう。

 

豊かな時間、元気でいられてこその賜物(たまもの)だ。

 

le 18 Septembre 2020


小さい頃から仕込まれたままに、よく考えもせず、流行や慣例に ’’なんとなく’’ 従っていることが日常けっこう多くある。

 

少しでも自分にしっくりきてなかったり、息苦しさや違和感を感じている事柄があるなら、自分に問うてみた方がいい。

 

本当にそれに従いたいのか、納得の上でそうしているのか。

 

これからの時代、個々のベクトルをしっかり打ち出していくことが、もっともっと重要に、当たり前になっていく。

 

横並びの時代はもう終わったし、’’〜ねばならない’’ 的な発想も不要の方向にどんどん拍車がかかってきている。

 

自分自身の声に従え。己の魂に聞いてみろ。

そこに全ての指針はあるんだ!

 

le 19 Septembre 2020


バトンはずっと受け継がれていく、数えきれぬ人々を経て。

 

自分も受け取っていたんだとわかった時、初めてそのことを意識する。

そのお蔭様で今がある、...と静かに感謝の念が広がる。

 

自分ひとりでやってこれた気になって、自分ひとりの力で成果をあげられたような気になって・・・ いい気になっていた若い頃を振り返ると赤面するどころの騒ぎじゃない。

 

せめてしっかりバトンを落とさず、自分が走れる分を、全てが尽きるまで走り続けよう。

 

隣のコースなど気にしなくていい。

自分のペースで、自分の走りで、自分の納得する走り方で。

そうすることを心から楽しんで!

 

le 20 Septembre 2020


早朝の公園に一番乗りしてみると、そこここに、ついさっきまでの ’’彼ら’’ の残像が感じとれる。

一日が本格的に動きだす直前までは、ニンゲンのいない隙を見計らって妖精さんや精霊さんたちが寛いでいる時間帯だ。

 

で、日中はどこかにいってしまうのかというと、どうやらそうではないらしい。

 

耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ましているとよくわかる。

 

「こっちの道をいってごらん」

「今はそのことをそっとしておいた方がいいよ」

 

日常の中でのたくさんのアドヴァイスに大忙しだ。

 

太古から共存し、すぐ傍で力を貸してくれている存在たち。

目に見えるものだけがこの世の全てではないんだよね。

 

le 21 Septembre 2020


季節ごとに異なる空、時間帯ごとに異なる空。

陽の光の眩しく差し込む日もあれば、つたう雨だれ模様に自分の泣き顔が重なる日もある。

 

窓から見る風景は、鏡のようにこちらの心情をも映し出す。

 

その窓を大きく開くように、心を開放させてみよう。

ガラス越しに見えるものとはまた違い、木々の葉ずれや鳥たちの声、遠き鐘の音を運ぶ爽籟(そうらい)に乗って、嬉しい報(しら)せが届くかもしれない。

 

善きものを受け取れるように、臆せず自分を開いていこう。

手を伸ばし、愛を放ちながら意識をそれに向けていこう。

 

求めてこそ回路がつながることを、いつも忘れずにいよう。

 

le 22 Septembre 2020


きれいなお菓子の箱に ’’宝物’’ を大切にしまい、独りの時間に静かに眺めた小さい頃。

’’銀のくちばし’’ を5つ集めて手に入れた何かや、旅の思い出の桜貝、転校していく仲良しと交換したキャラクターの缶バッジ、雑誌のクイズで当てたアイドルのシール etc...。

いつの間にかどこかにいってしまったけれど、幼い日々に心の支えとなってくれた日常の味方たちだった。

 

年齢とともに傍に置く物の顔ぶれはゆっくり変化していく。

私より遥かに年上の物との出会いの多い骨董市では、彼らの持つ ’’記憶’’ や ’’経年美化’’ に惹かれて手にすることが多い。

 

ようこそ私のところへ。

新たな環境で心地よく過ごしてくれると嬉しいな。

さて、まずはお互いの自己紹介から始めるとしようか。

 

le 23 Septembre 2020


日差しはまだ明るくとも、季節の移ろいが日ごと早まる頃。

光の粒が夏の思い出を溶かし始め、やがて秋風がどこかへ運んでゆく間、既に ’’過去’’ となったものが少しずつ少しずつ掌の隙間からこぼれ落ちてゆく。

 

その時期がやってきたら大掃除や衣替えをするように、様々な想いも丁寧に整理してゆくことは必要なのだろう。

 

捨ててしまうのでもなく、忘れようとするのでもなく、心の奥の秘密のスペースにそっと移動させていく作業。

 

明日また素敵な何かを掴むためにも、隣人にさっと手を差し伸べられるためにも、両手は空けておく方がいい。

出来るだけなんにも握りしめてない方がいい。

 

le 24 Septebre 2020


自然の摂理に身を委ね、あれほどの暑い夏をじっと耐えた木々たちが、こんなにも豊かな実りを今秋ももたらしてくれる。

大地の恵み。

その見事さに頭が下がる思いになる。

 

私もそんなふうに時を重ねてこれてるんだろうか。

しかるべき時がきたら、自分なりの実を枝につけることができるんだろうか。

 

素晴らしいお手本を示してくれる自然界に倣(なら)い、今日できることを明日に延ばさず、今日したいことも明日に延ばさず、勇気と確信をもって前に進んでいる自分でいたい。

 

しっかり熟していけるように。

受け取った豊かさをちゃんと還元していけるように。

 

先ずは、自分という ’’種’’ の持つ能力を、自分自身がとことん信頼するところから。

 

le 26 Septembre 2020


もともと私たちは、何にも持たずに生まれてきた。

ただただ、自分の『命』をもらって真っ裸で生まれてきた。

 

でも、自力で生まれてこられたわけじゃない。

だからやっぱり、たくさんのものは既に与えられていたんだ。

 

それ以上にアレやコレやを身につけようと、手に入れようとしながら成長する過程で、『本当は生きているだけで百点満点なんだ』ということを忘れてしまう。

 

仰げばいつも空は広がっていて、たとえ雲に覆われていても大嵐だったとしても、太陽はその向こうに在る、必ず。

 

二本の足を交互に前へ出す作業を続ければ、どこへだって自分の行きたいと思う場所へ行ける。

 

どんな自分であろうとも、自分には『自分』という最強の味方がいて、その向こうには『壮大な宇宙』という存在が、どんなことがあっても絶対裏切らずに存在しているんだ。

 

空を見上げてみよう。

必ず指針を与えてくれるから。

 

どんなところにいても、空を探して見上げてみよう!

 

le 28 Septembre 2020


何も持たず行くあてもなく、足の向くまま気の向くまま。

風の導きに身を委ね、ただただ感覚を全開にし何も考えずに歩いていると、思わぬ時に思わぬものに出会わせてもらえる。

 

何年も前、人に借りて舐めるように読んだ貴重な絶版本。

手に入れることなど叶わないと思っていたものが、こんな時不意に目の前に現れ、一瞬、目が点になり口が開きっぱなしになる。

 

偶然にもご店主もこの作家がご贔屓とのことで、そんなことから小一時間、古本屋の店先で様々な話に花が咲く。

長年のご苦労の中で知識とされてきたものを惜しげもなく披露して下さる時間の、なんと豊かなものだろう。

挙句、奥から出して下さった関連本を更に二冊購入という流れ。

 

目的も決めず、時間の制限も設けない。

’’何も決めない’’ ことから得られる想像を超えるもの!

 

小さな頭の中でどれだけ必死に考えたって、所詮は自分の発想の域を越えられない。

 

『書を捨てよ町へ出よう』とは寺山修司の言葉だが、’’自分の外’’ へ出てみると沢山のものとの出会いが待っている。

際限なき豊かさも用意されている。

思わぬ時に思わぬ角度から夢が叶うのは、どうやら本当らしい。

 

ということは! あれこれ悩み過ぎない方がいいってこと。

さぁ、散歩に出てみよう、まずは秋晴れを堪能しに!

 

le 30 Septembre 2020


多くの言葉を交わさずとも、同じ方向に眼差しを向けていれば、ずっと一緒に歩んでいける。

 

もともとそうやって出会ったのだから。

 

同じものを見て、同じように素敵だと感じて涙を流し、またある時は同じように理不尽さに胸を傷めた。

 

きっと今までも、何度も一緒に歩んできたんじゃないかな。

 

その都度いろんな間柄だったのだろうけど、いつも近しい関係だった気がするよ。

 

性別も、その時々でお互い色々だったよね。

 

遠い記憶はもう霧の向こうに微かな輪郭しか見えないけれど、たぶん毎回、再会する度、言葉にし難い懐かしさを感じてた気がする。

 

不思議だよね、こうやって何度も何度も出会えるなんて。

 

今生でも、お互いを応援しあって、輝かしあえるご縁で嬉しいよ。

 

次の時もきっとそうだといいな。

約束しようね、過去に何度も交わしてきたように。

 

le 2 Octobre 2020


長い石段を上がるとサクレクール寺院へと続く西側の小径に出る、そんな所で出会ったこの壁画。

 

美術館に収められている絵なら、そこにそれがあることを知って鑑賞するために訪れる人がいるだろう。

だが、決してメインストリートとはいえない静かな所に残されたメッセージは、いったい誰に向けてのものだろうか。

 

思えば、太古の昔から、人間は壁に絵を描いてきた。

限りなく ’’本能’’ に近いところの衝動のひとつなんだと思う。

 

個々人の中に眠る ’’衝動’’ はそれぞれ違っていて、各々が持って生まれた(生まれる時にいただいてきた)能力を自在に放ちあうことで豊かさが還元する — 考えてみればとても自然で、健やかな在り方なんじゃないだろうか。

 

足りないものを身につけようと躍起になるより、持っているものを差し出しあう時、当然ながらそこには笑顔が溢れる。

 

それぞれ異なるものなのだから、互いに与えあい、助けあい、喜ばせあえるなんて... おぉ、この世はなんて素敵な仕組みだろう!

 

時代が大きく変わろうとしている今、軽やかに発想を転換させていこう!

笑顔を引き出しあいながら、皆んなで光の道を進んでいこう!

 

le 4 Octobre 2020


日本で「フランス料理」というと、真っ白いテーブルクロスがピシッとかかっていて、高級なお皿の真ん中にほんのひと口ほどのお料理がちんまりと盛られていて、なにやらウンチクだらけの肩の凝るお料理... そんなイメージを持たれているような気がする。

 

勿論パリにはそういうお店も多いけれど、庶民が行くところは全くの別空間だ。

「ビストロ」と呼ばれる気さくなレストランで、剥き出しのテーブルにはクロスなんかかかっていないお店も多い。

恭しくメニューをテーブルで広げるスタイルより、たいてい、黒板にその日のメニューがものすごいクセ字で書きなぐってある。

訊けばお料理の説明もしてくれるけれど、大賑わいなお店のギャルソンはウンチクなど述べる暇もないほど大忙しだ。

 

これも正真正銘「フランス料理」で、こういうスタイルがあまり日本で知られていないのはちょっと残念。

 

’’フランス’’ というととかくオシャレで気取ってると思われがちだけれど、実際はそんな面ばかりじゃないんだから。

もっともっと人間臭くて、気取ってなくて、血が通っていて剥き出しだ。レストランに限らず!

 

一部分を誇張して意図的に作られたイメージ、そこから固定観念を植え付けられる状況は、世の中、思った以上に多い。

 

鵜呑みにせず、自分の目で確かめ、自分の身をもって知り、自分の感覚で向き合ってみる — そうしてこそ初めて、そのものの本質に近づいていけるんじゃないかと思う。

 

le 6 Octobre 2020


日没までの柔らかい光の中を、車たちはライトを点けて家路を急ぐ、一日というサイクルの終盤。

 

否、別の見方をすれば、夜という新しいシーンの幕開け直前ととらえることだってできる。

 

始まりがどこで終わりがどこか、なんて、それぞれの見解によって異なることなんだろう。

 

季節にしても、春が始まりで冬が終わりなのではなく、ずーっと廻(めぐ)るものであることは誰もが知っている。

 

だとしたら。

魂も、どこかで終わり、ということではないのかもしれない。

 

肉体のなくなった時が終着点なのではなく単なる通過点に過ぎない、という発想を、真っ向から否定するのは少し違う気がする。

 

目に見えるものだけが全てではない。

 

わたしたちはどこから来て、どこへ向かうのか。

季節のようにずっと廻(めぐ)り続けるものなのか。

 

もう二度と会えない、と悲嘆にくれる必要などないのか。

 

いつか、この答えの分かる時がくるのだろうか。

 

le 7 Octobre 2020


初めて歩いてみた小径で出会ったカフェの店先。

まるで友人宅に招かれたような空気感に、思わず顔がほころぶ。

 

飲み物を摂取することが目的でなくとも、敷居が低く、余計な気取りも気負いもなく、懐を開いてくれている所には、こちらも柔らかい気持ちで入っていきたくなる。

 

 

『与えるものが受け取るもの』

(原語:’’ What you put out is what you get back ’’)

 

ある賢者のこの言葉は、物質だけに限ってはいない。

 

幸せになりたいのなら、’’まず自分から’’ 幸せな波動を発していきましょう、それが廻り廻って自分のところに返ってくるから、というニュアンスなんだろう。

 

相手がこうしてくれたら自分もそうするつもり、と思っている限り、楽しい展開には遠い道のりになる、ということなんだろう。

 

愛されたいと思うなら、’’まず自分から’’ 愛を放っていこう。

 

それにね。

たとえ自分のもとに廻ってくるのはいつかわからなくても、自分が放った瞬間、実は自分自身を愛で満たしてるんだって。

 

あぁ、なんて素敵なことなんだろう!

 

le 10 Octobre 2020


若い頃、音大の学生のくせに、コンサート会場よりも圧倒的に足を運んでいたのは、お芝居を見るための劇場だった。

 

丁度アングラ演劇が勢いを増してきた時代。

古典的な芝居、翻訳ものやミュージカル以外にも、小空間、船、テント、廃墟など様々な場所で繰り広げられる私の大好きな ’’舞台モノ’’ に接するには、東京は恰好の大都市だった。

 

予め台本を読んでおける演目もあるけれど、アングラ芝居となるとそういう予習材料など一切ない。

自分の世界観の ’’外’’ にあるとんでもないものが待ち受けている場所に、いわば ’’丸腰’’ で乗り込むわけだ。

 

お気に入りの劇団や、これは!と当たりをつけた公演では、前売り開始とともに、初日、中日、千秋楽、最低でもこの三公演分のチケットを買っておく。

そういうふうにして観てきた舞台は一度として「何回も観るほどの価値はなかったな」と思ったことはなく、’’ナマもの’’ として変化し続けるものを、むしろ何度でも観続けたいとさえ思った。

 

劇場。

私にとっての、異次元への ’’どこでもドア’’ 。

自分の中の小っこい世界をブチ破ってくれるものに出会える所。

 

幾つになっても、未知へのワクワクやドキドキに目を輝かせる自分でありたい。

だってこの世は、圧倒的に ’’知らないもの’’ だらけなのだから!

 

le 12 Octobre 2020


少し戻ったり、早足で先へ進んだり、また戻ったり... そんなことを繰り返しながら季節は移り変わってゆく。

ある日を境に一瞬にして次の季節になる、なんてことは自然界ではまず起こらない。

 

人間界で日々、電子化、デジタル化が加速していく中、本来の、そういう物事の流れ方をいつもどこかで意識していたい。

 

わたしたちのこの肉体じたい自然界と同じくアナログな存在で、心だって数値で測ることなんて不可能で、身体の神秘も、実はわかっていないことだらけ。

 

それぐらいに思っている方が、個々の免疫力や自己治癒力がうまく働いてくれるような気がする。

 

自然界の豊かな循環に加えてもらっているからこそ、こうして今日も生かされているのだから、大いなるものを信頼し、ドーンとお任せしてみることも大事なのかもしれない。

 

無闇にメディアに翻弄されないよう、洗脳されないよう、テレビやスマホ、ネットから離れて過ごす時間も大切にしよう。

 

キンモクセイの薫りに包まれながら伸びやかな気持ちで自然界と対話をしていると、本来備わっている力が活発に動き出し、健全な呼吸を取り戻していける。

 

ありがとう、大自然。

いつも導いてくれていることに感謝します。

 

le 14 Octobre 2020


アダムとイヴに始まり、『白雪姫』にも『ウィリアム・テル』にも登場する果物(くだもの)。

ニュートンの発見にも一役買い、ニューヨーク市のニックネームは ’’ビッグ・アップル’’ だ。

ビートルズが設立したレコードレーベルや、言わずと知れたコンピューターの名称 ... 挙げていくとキリがない。

 

人類が長きにわたり深いご縁を結んできた果実(かじつ)。

推定4000年前には既に栽培されていたという。

現代ではものすごい数の品種があるけれど、原種はきっと小さめで、酸味も渋みも強く、生命力に溢れた味がしそうだ。

 

「朝のりんごは金」、そんな諺がある。

大地の恵みをしっかり受け取り、今日も元気で健やかに!

 

le 17 Octobre 2020


旅を計画する時そう望むように、もし私たちが遠いどこかからここ地球という星を「旅先」に選んでいるとしたら...

どうせなら思いっきり自分らしく「旅」の日々を楽しく過ごし、堪能し尽くしたい — 誰もがそう思うはずだ。

 

「逆境に耐え抜き我慢してこそ幸福が得られる」という考え方はどうやら違うようだと人々は気づき始めた。

「人に幸せに ’’してもらう’’」というのもちょっと違う、と。

 

ひとりひとりが、自分で自分を幸せにしていく時代。

’’寝食忘れてのめり込める事’’ にその鍵があり、自分を幸福感で一杯にできた時、周りにもそれを分け放っていける。

 

この星を「旅先」に選んだ者は、そういうふうにしてこの旅の間、最高に輝くようになっている気がする。

 

le 19 Octobre 2020


大学生の頃から古着好きで、若い頃もそして今も、普段着のみならず舞台衣装でも古着だったりする。

 

なにしろ ’’流行’’ というものに興味がないので、気に入るものを探そうと思うとどうしても古着から探すしかない。

 

というわけで、古ければいいという意味ではなく、とにかく自分にピンとくるものにしか興味がないと言うべきか。

 

そもそも ’’流行’’ とは人為的に仕掛けられたもの。誰もが同じ格好をすることの方が不自然だよ、どう考えても。

 

’’時代遅れ’’ という言葉は私の辞書には見当たらない。

むしろ ’’自分であること’’ が常に最先端だと思ってるから。

 

le 21 Octobre 2020


時は20世紀初頭、今からちょうど100年前の1920年。

スウェーデン・バレエ団からパリ公演の新しい演目を依頼されたジャン・コクトーが、1890年に完成したエッフェル塔を舞台に、’’六人組’’ に作曲の協力を求めて生まれたのが『エッフェル塔の花嫁花婿』という作品だ。

 

25年ほど前になろうか、パリのオペラ・コミック劇場で、コクトーと六人組が活躍した時代の数々の舞台作品を、初演当時の舞台装置、美術、衣装や演出により復刻上演されたことがあった。

それまで私が ’’バレエ’’ と認識していたものとは全く異なるテイストのものが日替わりで上演される中、その世界観に衝撃を受けた。

 

コクトーによる台本、サティが作曲した『パラード』の衣装と舞台美術を担当したのはピカソだったり、プーランク作曲『牝鹿』ではマリー・ローランサンが衣装と舞台美術を担当している。

 

様々な分野の鬼才たちが境界を越えて才能をぶつけあい、交じり合うことで新しいものを生み出していった20世紀初頭のパリ。

 

上記の復刻上演での作品群も、彼らの気軽な集いやお喋りの中からアイデアが膨らみ、皆んなで大はしゃぎしながら創っていったに違いなく、その楽しげな情景がありありと目に浮かぶ。

 

人類の求める愉しさや歓びを材料とし、ウィットに富んだ発想を香辛料に、その時代にパリで生まれたものは、軽やかさと眩い色彩、枠にとらわれない奔放さが生む斬新な試みに溢れている。

 

遊び心満載のその精神、21世紀も受け継いでいけたら素敵だ。

 

le 25 Octobre 2020


少しずつ、しかし確実に日の入りが早くなっていくこの季節。

一日のうちでお日様と対話できる時間は、少し前と比べると圧倒的に短くなってきた。

 

午前中に力強く照っていたとしても、午後のお茶の時間の頃になると光の粒子が細かくなり、手触りまで変わってきて...

夕方がすぐそこまで近づいてきていることを伝えてくる。

 

「秋」という季節は、どうしても「人生」を考えさせられる。

 

子供の頃はそれでもまだ、運動会や遠足、文化祭なんかが頭の先から足の先までを占めていて、毎日くたくたになるまでそのことに集中していたものだった。

 

そんな日々のことをつい思い出すのもこの季節だ。

 

木々の葉の色合いが、音もなくゆっくり変わってゆく。

 

気づくと、市場の苗屋さんに並ぶものも変わってきた。

 

そうだ、球根を、種を植えよう!

今この時期に祈りをこめて植え付けるものは、寒い冬を土の中でじっと過ごした後、必ず春先には芽を出し、そして可愛らしい花々となって鮮やかに世界を彩ってくれるだろう。

 

廻るものが、すなわち命であり、希望そのもの。

そのことを、今日も、そして明日も忘れないでいよう。

 

le 27 Octobre 2020


人間は今までたくさんのものを作ってきたけれど、ひとたび人力の及ばない土台の部分が変わってしまうと、驚くほど殆どすべてのものが立ちゆかなくなる。

 

知恵を集結させ、頭脳を駆使して開発してきたモノやシステム等々が、実は万能ではなく、脆(もろ)いものだったと思い知らされる時、非力な私たちは何が出来るんだろうか。

 

今までと同じように頭を使ってなんとかしようとしても歯が立たないことは、いよいよもって思い知らされるばかりだ。

 

どうやら頭が肥大しすぎたようで、当然ながら「頭でっかち」はバランスが取れなくなって転んでしまう。

一度大きく転んでとことん痛い目に遭わないと目が覚めないほどに、偏った生き物になってしまっているのかもしれない。

 

でも、できることならその前に気づきを得られた方がいい。

だって痛いのは誰だって嫌だもんなぁ...。

 

想像をはるかに越える ’’発想の転換’’ のためには、いったん持っているものをすべて手放し、素っ裸になってみるしかなさそうだ。

 

そうしてこそ初めて本来の姿、もともと持っているもの、そう... 「本質」を直視でき、もう一度しっかり大地に立てるんだろう。

 

その状態になれた時、青空のその向こう、豊かさの根源である大宇宙から ’’次’’ への指針を受け取れる...  多分そうだと思う。

 

le 30 Octobre 2020


「衣食住」が満たされることは基本的な部分でとても大切だ。

けれども人間は、それ以外の様々なことも、どうやら思っていた以上に必要不可欠なんだと痛いほどに思い知らされる昨今...。

 

生き物としてこの肉体を生かしていくことができても、精神に、魂に、心に栄養がゆきわたらないと、本来の生き方を忘れてしまうようにプログラミングされているのかもしれない。

それが、狂気や暴力を引き起こす場合もあるということだ。

 

どんな時でも「無いもの」を数えだしたらキリがない。

たとえ不本意な状況下であろうとも、「有るもの」を数え、自分を豊かに満たすことは可能なのだ、いつだって。

 

物事を見るちょっとした角度の違い、受け取り方次第で、実はどのようにでも良い方向にもっていけるものなのだ、誰にだって。

 

そのことを今、わたしたちは身をもって知る時なのだろう。

 

これは苦行でも処罰でもなく、今までとは全く異なる方向性で豊かに幸せになっていくための「通過儀礼」にすぎない。

 

より高みへ向かう大きな変化が起きる時、物事はいったん崩れ、そこには一見ネガティヴな光景が現れる。傷みも伴う。

 

でも先になって振り返った時、きっとわかる。

それは後退ではなく前進だったのだと。

崩壊ではなく創生だったのだと。

 

le 4 Novembre 2020


街を歩いていると頻繁に、入り口にライオンの装飾が施されている建物に遭遇する。

この写真も、特別な建物ではなくごく一般的な住居の表扉だ。

 

一説によると、古代エジプト時代にはライオンは目を開けたまま眠る動物だと考えられていたらしく、このことから、家主が眠っている間も目を開けて住人を守ってくれるだろう、という願いを込めて使われ始めたらしい。

 

外部から得体の知れない邪悪なものが侵入してこないように、’’ライオン’’ が睨みを利かせてくれているというわけだ。

 

東洋では魔除けの意味で ’’獅子’’ がその役目を担うことを思えば、洋の東洋を問わず人間はあの動物にその力を見たのだろう。

 

邪気を寄せ付けない護(まも)りの行動 ’’ディフェンス’’ と共に、もうひとつの方法がある。

愛のエネルギーを放ってゆく ’’オフェンス’’ だ。

 

何か特別なことをしなければ、などと思う必要はない。

例えば... 人に笑顔で接すること、相手の何かを温かい言葉で褒めること、「ありがとう」と口にすること。

 

きっと邪気は早々に退散するだろう。

 

ライオンや獅子に護られつつ、小鳥の飛翔に力を借り、清らかでポジティヴな波動に包まれる日常を送っていきたい。

 

le 6 Novembre 2020


色づいた葉が気温の下がるにつれ落ちてゆくのを眺めるこの女神や天使たちも、心の埃を払ってくれる優しい噴水の音を、暖かくなる頃まで静かに待つことになる。

 

買い物帰りに立ち寄る人もいれば、日向ぼっこさせてもらう乳母車の赤ちゃん、お決まりの散歩コースに入っているのだろう手元の本を広げる人。

集う人々を無言で見守る小さな公園はそれ自体が癒しの存在だ。

 

こちらにそんな意識はなくとも、日々の他愛ない物語に木々たちが静かに耳を傾け、頷きながら聞いてくれているのがわかる。

 

どんな感情も黙って受け止めてくれ、決して批判せず、余計な口も挟まずにいてくれながら、気づくと諭(さと)されている時があったりもして、ベンチから立ち上がる頃には不思議と気持ちが軽くなっている。

 

誰しもそんな場所をひとつかふたつ、持っているといないのとでは、多分なにかがだいぶ違ってくるだろう。

 

自分の波動に合う場所は自分にしかわからない。

 

頭で考えても良い答えに辿り着きそうにない、そんな課題が自分に起きた時、向かえる場所があるのは心強い。

 

自分の心の中にもそんな場所をしっかり持っていよう。

原点となる不動のポイントを。

 

le 11 Novembre 2020


どこか無意識のうちに「月は夜のもの」と思い込んでいるところがあるからか、日中に遭遇するとちょっと意外に思ってしまう。

でもお月様にしてみたら、そう思われることこそ意外かも。

「え? いつもいるよ。あなた方に見えてないだけで。」って。

 

もちろん、月の満ち欠けと太陽との関係で絶対に日中には見えない時もあるわけだが、確かに「日中は太陽、夜間は月」と、そんな単純に役割分担されているわけではないことを再確認する。

 

それにしてもお月様には色んな呼び名があって、古くから日本人は和歌や俳句など様々な形式の中でその姿を詠い続けてきた。

 

満月(まんげつ)や三日月(みかづき)は誰もが知るところだが、淡月(たんげつ)、素月(そげつ)、薄月(うすづき)、孤月(こげつ)・・・まだまだたくさんあるようだ。

 

季節や形、状況、そして明るさによっても呼び名を変えてその姿を愛でる行為は、自然界に対して畏怖の念を抱き続ける、とても素敵な風習のひとつだなぁと思う。

 

そういうことが日常的だった頃、人々は今の時代よりもっともっと自然界を身近に意識し、感性豊かに、何事に対しても固定観念に縛られない見方をしていたのではないだろうか。

 

’’目に見えるもの’’ 以上に実はたくさん存在する ’’見えないもの’’ を、それが発する奥深いメッセージを、難なく感じとれていたのじゃないかとさえ思う。

 

le 14 Novembre 2020


つい数ヶ月前までは、これほどまでに世界中の老若男女がこぞって顔の下半分を覆わなければならない時代がこようとは、誰も想像すらしたことはなかっただろう。

 

どうせマスクで隠れるから、とお化粧しない女性が増えてきた。外出の機会じたいが減ってしまったから、身綺麗にしたりお洒落に気をつかうことも減ってきているようだ。

 

「どうせ〜だから」という心持ちでいると、色々なことがどんどんおざなりになってくる... ような気がしてしまう。

手を抜き出すと歯止めのきかなくなるのが人間だ。

 

素敵な人は、着ている物や付けているアクセサリーが素敵だから素敵に見えるんじゃなく、その人から放たれているエネルギーに服やアクセサリーが同調しているから素敵なんだ。

 

自分が素敵であろうとするにはまず心の在り方から始まる。

その心の在り方が、素敵であるための行動を呼び起こす。

おそらく... 人の目があろうとなかろうと、究極は自分自身のために大切なことのように思う。

 

le 18 Novembre 2020


晩秋の柔らかい光は、春先のつい勇み足になりそうな白光とも、真夏のエネルギッシュな炎陽とも違って、なんとも言えぬ穏やかな時間を与えてくれる。

 

頬にあたる風が冷たく感じられたとしても、隣に優しく佇(たたず)んでくれるような、思いやりに満ちた微笑みを投げかけてくれるような、そんな温かさがじんわりと身に沁みる。

 

人は時として、「家族だから」という甘えが根底にあるからか、一番近しい間柄の相手に対してぞんざいに振る舞いがちだ。

また、’’役柄(関係性)’’ を理由に、相手をコントロールしていい、とさえ勘違いしてしまう場合がある。

 

ご縁が深い人とは、立場や関係性を変えて何度も何度も出会うことになっているようで、’’今回は’’ たまたまそういう関係性だということに過ぎないのだ、本当は。

 

宇宙船に乗っているつもりになって俯瞰してみた時、ひとつひとつの魂は独立していて、’’今生が’’ たとえどんな関係性であったとしても、お互いに対して出来ることは唯一、「ただ愛することだけ」だということが分かる。

 

それぞれの季節に太陽は様々な表情でわたしたちに接してくれるが、その有様は常にひとつ。

ただただ惜しみなくエネルギーを注いでくれる。

何の条件もつけず、何の駆け引きもなしに。

その在り方に頭が下がる。

 

le 20 Novembre 2020


劇場は、客席という自分の胃袋に満員の観客を迎えることでそれを栄養とできた時、初めて生き生きと輝き出す。

 

オペラ公演の舞台稽古の期間に入ると、私は劇場の声と共鳴する時間を独りでたっぷり味わうために、リハ開始時間より随分前、そう... まだ誰もいない時間帯に劇場入りする。

何百年の間、数え切れない舞台を上演してきた劇場が、次の初日に向かって準備を重ねていく独特の緊張感や期待感が溢れていて、それが私にとっての最高の栄養だからだ。

 

このパリのオペラ・コミック座のオーケストラ・ピットでもざっと数えて100回以上の本番を吹いてきた。

それでも飽きるどころか、特にこういう馬蹄形の旧い劇場は、ここに住みたいと思うほど何故かとても居心地がいい。

 

それほどまでに、私にとって「劇場」とは、きっと何度も何度も繰り返し生きてきた場所なのだろう。

 

le 22 Novembre 2020


パリの街角でよく見かける古くからの写真館、あるいはアナログ時代のフィルム写真を扱っているお店などの店先に、往年の大スターたちの姿を見つけることがある。

 

額縁に入って売られていて、大きさにもよるけれど、ひょいと気軽に買ってしまえる値段ではないから、散歩の度に前を通ってはガラス越しに眺めるばかりだ。

 

そこに並んでいるのは、スタジオでポーズをとって撮影するブロマイドというより、プロのカメラマンにしか開くことのできない大スターの日常の扉、または、観客からは絶対に見えない角度の ’’ある一瞬’’ を見事に切り取った熱い舞台写真など、じっと眺めているとその時空に自分がワープするような感覚にすらなる。

 

そう、例えば '86年のウェンブリーの大熱狂の渦の中に。

 

世界中を駆け抜けた20年弱の間、舞台でも私生活でもありったけの情熱を放ち続けた彼の生き様は、肉体というこの世での乗り物を降りても尚、在りし日と同じく、いやむしろ更に大きな存在になって今も世界中に『愛』というエネルギーを放ち続けている。

 

それを受け取る地球上の何百万もの人々が、喜びをもって循環させていくその様子を、天上から彼はどのように眺めているだろうか。

 

 命日に、空に思いを馳せてみる。

 

le 24 Novembre 2020


秋に色づいた葉が、冬の到来と共に風に舞い落ち、真っ裸の寒々しい状態で真冬をじっと耐える。春の到来を聞く頃には新芽を出し、夏には青々と葉を繁らせ、そして再び秋になると・・・。

 

この大いなる摂理のままに、生き物としての自分の性(さが)を丸ごと受け止め、委ねていくことを知っている木々たち。

 

「落葉樹だけど、葉っぱを落としてなるものか! 意地でも幹にしがみついててやる!」なんて木は一本もない。

 

己のことを知る、とはそういうことだと思う。

 

植物たちがそうであるように、動物たちだって皆んなそう。

人間だけが、他人と自分を比べたり、他人の目を気にして自分の行動を決めたり、なんだか無様な生き方をしがちだ。

 

この世に生まれてくる時点で我々はひとりひとり全員違う。

そもそも個体差がある上に、生まれ落ちる環境も育つ環境も違うんだから、文字通り個々は全く違っていて当たり前。

 

なにをそんなに卑屈になるのだろう。

なにをそんなに焦るのだろう。

 

自分を認め、自分の可能性を信じ、自分を幸せにしていけるのは、究極のところ自分だけなんだよ。

 

le 27 Novembre 2020


春先からの思いもよらぬ地球規模での展開で、すっかり行動範囲も行動パターンも変わってしまった数ヶ月。

 

でも考え方を変えれば、今まで「見ているつもりで見えていなかった事」に気づけたり、慌ただしい日常を送っていた時には「あまり手をかけてこれなかった事」に丁寧に向き合えたり.... 多くの変化が、おそらく全ての人に起きている。

 

よっぽど意識しない限り、なかなか変わらない自分の立ち位置、視野や視点。

 

長年慣れ親しんだそれも、何かの機会に変わらざるをえなかった時、それはある意味ものすごいチャンスだ。

知らなかった自分に出会えることになるかもしれないチャンス。

 

よく言われるだろう?

『チャンスはピンチの顔をしてやってくる』

 

どんなことも、受け取り方ひとつでどんなふうにでもなる。

すべては自分次第だ。

 

何か不都合が起きた時、人のせいにしたり、何かのせいにしている人にはなかなか難しいことかもしれないけどね。

 

最上階の窓を開け放った時、初冬のキリリと引き締まった風とともにそんな言葉が部屋の中に飛び込んできた気がした。

 

le 29 Novembre 2020


これほどとりどりの色が同時に在りながら、決してお互いを殺しあわないどころか、むしろお互いを引き立てあってさえいるように見える。

 

’’素晴らしいハーモニー(調和)’’ としか言いようがない。

 

こんなふうに私たちも存在できたらどんなにいいだろう。

 

どの色もそれぞれに美しく、異なるものが共に在ることで、より一層「個」としても「全体」としても輝きが増す。

 

なんという豊かさ!

 

自然界はどんな時も、在り方そのもので多くの事を教えくれる。

私たちの五感に送ってくれるたくさんのメッセージ。

 

喚び醒まされる瞬間、魂の深いところが感動に震える。

そして思う、こういう感覚をこそ、大切にしたいと。

 

le 3 Décembre 2020


花々にしても木々の葉にしても、一晩中どんな強い雨風に打たれようがビクともしないのに、ある日、風もないのにポトリと地面に落ちる...。

 

彼らにとっては日常の続きなのだろう。

ごく自然に、静かにその状態に移行する様子を見ていると、その潔い姿にいつも言葉を失う。

 

’’その時’’ をどうやって彼らは知るのだろうか、と人間が考えるほど大げさな区切りなどではなく、呼吸をしているのと同じくらいに ’’命の流れ’’ の一部でしかないのかもしれない。

 

すべての変化が、そのまま「生きている」ということ。

考えてみればそのとおりなのかもしれない。

 

散ってしまっても再び次の春には新芽が出る。

大元の命が絶えてしまわない限り。

 

否、むしろ、大元が絶えない為に変化してゆく。

 

たぶんこの地球という惑星も、生きてゆくために今、大きく変化しているのだ。

一見したところそうではないように見えてはいても、おそらく、この生命体みずからに備わった浄化力をフルに使って。

 

le 6 Décembre 2020


今や世界の殆どの都市で、顔の下半分を覆うことが強いられているわけだが、それを「これからの当たり前の日常」だと受け入れる空気が定着し始めていることに、正直  戸惑う私だ。

 

今のこの状態を、決して「日常」だと受容してはいけない。

あくまでこれは「異常」な状態なんだと、しっかり意識していなければならない。

 

もちろん鼻や口を覆うことで感染のリスクが回避できるのは事実だろうから、そこに関してとやかく言うつもりは全くない。

 

だが、これをしていない状態を、あたかも下半身丸出しで歩いているかのごとく「異常視」する方向に進み始めていることが心底恐ろしい。

 

どういうことが起きているか皆んな気づいているだろうか?

 

’’おかみ’’ から言われることに何の疑問ももたず黙って従う、そのことからのリスクを考えられる人はどれくらいいるだろう?

 

実はこっちのリスクの方が、先々のことを考えると大きいんだということに一体どれくらいの人が気づいているだろうか?

 

「本当に気をつけなければいけないこと」は、霧で覆われているかもしれないのだ、実は。

 

表面に見えていることの向こう側にあるものを、盲目にされてしまう前にしっかり見よう、ひとりひとりが自分の目で!

 

le 8 Décembre 2020


高台から眺める街の風景は、一軒一軒の人々の暮らし、交わされる会話、食される物の匂い etc... 様々なもので構成されている。

ただの建造物の集まりではなくて、そこに生きる生身の人間の息づかいが景色という形で立ち上がってくる。

 

わたし達にもともと備わっている『五感』の中で、現代人が一番使っているのはどの感覚だろう?

「視覚」「聴覚」「触覚」「味覚」「嗅覚」。

個々人で違うとはいえ、おそらく「視覚」が、他のどの感覚よりも使われる比率の高い社会構造になりつつある気がする。

 

そこへきての鼻と口を覆いながら暮らさなければならない日々。

実は「嗅覚」も、様々なことを察知するだけでなく、深い感動を味わうためのとても大事な感覚なのに、事態が事態とはいえ、そこを塞がれてしまっていることはつくづく遺憾千万だ...。

 

試しに、風景を見ながら鼻と口を解放してみるとよくわかる。

 

季節ごとに異なる風の匂いが、例えば木々の色づきの、視覚で愛でるだけでは味わいきれない奥深さをも教えてくれる。

 

すべての感覚は我々が思っている以上に強くリンクしている。

ひとつが機能しないだけでも、実はものすごく多くのものを受け取り損ねてしまうんじゃないかなぁ...。

 

どんどん鈍感になっていくことだけはなんとか避けたい。

この先も、より豊かな日々を重ねてゆきたいから。

 

le 10 Décembre 2020


選ばれし者は、いつ、どんな時に、使者としての意識が芽生えるのだろう。

 

それを早くから自覚する人もいれば、天に召されるその時まで無自覚なままの人もいるだろう。

 

無意識下で知りながら、この世にいる間の ’’持ち時間’’ を本能のままに精一杯、使命のために生きる人もいる。

 

意図せずとも、その生き様を通して結果的に使命を果たすことになる人も多い。

 

残された作品にその人の使命の痕跡をはっきりと見る時、その人が生きた証(あかし)以上のパワーがそこに宿っていることを目の当たりにし、それ自体が直球で心の奥にまで突き刺さってくることに驚く。

 

たとえ肉体は消滅してしまっても、大きな使命を負った人は皆、様々な形で永遠に生き続け、メッセージを放ち続ける、ということを改めて思い知らされる。

 

そこにふれた時に湧き上がってくるのは、感動や喜びを超えて、ただただ「感謝」だ。

 

もしくは、無理やり言葉にしてみるなら、「感動も喜びも、何もかもを含めた得も言われぬ彩(いろどり)に満ちあふれた感謝」

... そんなニュアンスになるだろうか ...。

 

le 11 Décembre 2020


若い頃から私は文房具屋さんが大好きで、見かけると素通りするのは至難の業だ。

 

自分の万年筆を初めて持ったのは中学校にあがった時。

制服の胸ポケットに生徒手帳とともに必ず挿していたものだ。

 

その頃からン十年、万年筆は私の大切な筆記用具のひとつ。

インクはカートリッジ式の方が楽ではあるけれど、パリで使っているメインの万年筆は今はもうなくなってしまったマルシェ・サントノレの万年筆専門店で買ったお気に入りで、デスクの上のペントレイの横にはインク壺が置いてある。

 

黒インク、とひとことでいっても実はかなり沢山の種類がある。

微妙な色の違いごとにそれぞれ名前が付けられていて、瓶もメーカーによって様々に美しいデザインだし、その形を見ているだけでもひとつの世界に誘い込まれる。

 

ボールペンもまた別の世界があり、鉛筆だって奥は深い。

それぞれに相性のいい紙もある。

 

今の時代、直筆で文字を書く機会は格段に減ってしまった。

手書きの手紙を書くのもいただくのもめっきり減ってしまった。

 

お気に入りの筆記具で満足な字が書けた時に得られる喜び。

活字では絶対に味わえない直筆の魅力。

墨を磨って筆で書くとまでいかずとも、日常的に「文字を書く」という楽しみをこれからも忘れないでいたいと思う。

 

le 13 Décembre 2020


本格的な冬の空気は、冷たさはもちろんだが、透明感や粒子の度合いもが違って感じられ、それを肌で直接浴びることに喜びを感じる時がある。

 

朝起きて家中の窓を開け放った時。

籠もりっきりの家や、閉ざされた電車の車両、窓のないデパートやスーパーマーケット、そんな場所から一歩外に出た時。

迎えてくれるピリッとした風は、自然界からのプレゼントだ。

 

感覚をすべてオープンにしてガッツリ受け止めたい。

 

冷たいからといって冷酷なわけじゃない。

その中に、限りない豊かさと優しさが含まれている。

 

冬場の空気だけがもつ魅力を、全身で味わおう。

 

きっと人間が健康に生きていくための「必要栄養素」的なものが、その中にいっぱい詰まってるはずなんだ。

 

実際、新鮮な空気を肺に入れないと脳みそだってちゃんと働いてくれないよね。

感覚だって、鈍っていっちゃうよね。

 

笑顔いっぱいで、元気に自分の人生を楽しんでいくために。

大切な人と、心からの交流を積み重ねていけるために。

 

さぁ、顔をあげて新鮮な空気をいっぱい吸うんだ!

 

le 15 Décembre 2020


欧州のクリスマスは、年に一度 家族が一堂に会する大切な時間。

日本のお正月のようなものだから、何かと規制の多い今年はどんなふうに集えるのだろう... と誰もが一抹の不安を抱えている。

 

とはいえ基本的にフランス人は「自己判断力」を軸に生きているし、’’おかみ’’ もそこは重々承知しているから、クリスマス時期の規制の緩和は既に発表している。

暴動など避けたいし、何せこの国はあの革命を起こした国だ。

 

誰もそんなことを望んではいない。

平和に、豊かに、幸せに暮らせる世の中であってほしいと誰もが願っている(はずだ、と願いたい)。

 

生まれながらの悪人なんてひとりもいないのだから、上に立って仕切る者も、支配する / される関係も、そんなシステムは必要ないのだ、’’本来は’’ !

 

実現不可能な絵空事だと、嗤う者には嗤わせておけばいい。

 

人間が本来持っている慈悲深さ、思いやりの精神を取り戻していく時代に、今、大きく変わろうとしていることを知ろう。

 

『うばい合えば足らぬ、わけ合えばあまる』〔相田みつを〕

我々の在り方をここまで見事に表した言葉を、今こそしっかり胸に刻もう。

 

le 17 Décembre 2020


サンタクロースにもらったプレゼントの数々は、何十年経った今でもけっこう覚えていたりするものだ。

 

あの、世界中の子供たちがワクワクと目を醒ます朝、ある年の枕元に変わった形の平べったいケースが置かれていた。

なんだろう?

開けると、中からはピアノの鍵盤と同じ配列の細い木の連なり。

木琴だ!

パジャマのまま布団の上でさっそく色んな旋律を奏でた時の興奮は、半世紀(!)経った今でもくっきりと覚えている。

 

私が小さかった時代は、子供の方からサンタさんにリクエストするなどという、そんな大それた風潮などなかった。

「私のところにどんなものが届くんだろう?」

「きっと私にとって ’’いいもの’’ がもらえるに違いない!」

心の底からそう信じ切って夢を膨らませていたように思う。

 

’’きっと素敵なものが与えられる’’、なんの疑いもなくそう信じて待つことは、本当に素敵なものを引き寄せる貴重な体験となる。

 

リクエスト方式だと、当たり前だが自分の既知の範囲内に限られてしまうから、驚きも発見も、飛び上がるような喜びも味わえないけれど、自分の知識や発想の「外」にある物をいただくのは、それ自体が ’’出逢い’’ という大きなプレゼントだ。

 

大人になって随分経つ今でも、常にそういう出逢いを求める自分でいたいと思う。

 

自分の内側に眠る未知の扉は、思わぬことから開くことが往々にしてあることを、大人になった今、経験上よく知っているから。

 

le 19 Décembre 2020


この季節、お日様の出ている日なら、意外にも家の中より外の方がよっぽど暖かかったりする。

庭先の落ち葉を掃き集めていると薄っすら汗ばんでくるほどだ。

 

日光浴でヴィタミンDが作られるのはよく知られていることで、「新型コロナウィルス対策に!」なとどわざわざ言われなくたってとにかく身体の免疫力をあげることはいいに決まっている。

但し、ガラス越しでは殆ど効果はないらしいから、やっぱり風にあたりに積極的に戸外に出てみた方がいい。

 

無難に、人混み避けた場所を選び、思い切り太陽を浴び、新鮮な空気を吸い、人間であることを謳歌する時間をいっぱい持とう!

 

あまりにも規制に縛られすぎて萎縮していると、頭の中まで見えない鎖でグルグル巻きにされていってしまいそうだ。

もしかしてそれが「コロナ鬱」への道...?

コロナに感染せずとも心が征服されちまったら元も子もない。

 

そんなことからこそ逃げよう!

ちゃんと自分の頭で考えて判断しよう!

 

「情報を得ること」は有益な側面ばかりじゃない。

時には、外の雑音を積極的にシャットアウトした方がいい。

 

太陽に抱きしめてもらってちゃんとした呼吸を取り戻そう。

目を閉じて、それをしっかり自分の中に浸透させよう。

 

そういう時間、そういう事をこそ大切にしていこう!

 

le 21 Décembre 2020


広い広い宇宙では、太陽や月、そして数え切れないたくさんの星々が、互いに影響を与え合っているそうだ。

 

138億年前からずっと、気の遠くなるような長い時間がそんなふうに流れているらしい。

 

’’地球’’ という名の我らの星も、そんな宇宙エネルギーの中で生かされていて、宇宙の大きな周期の中で変容してきた。

今までも、これからも、それは続いてゆく。

 

長く続いたひとつの時代が終わり、身体に合わなくなった服も、履きつぶした靴も、きっぱり捨てる時がきた。

 

軽やかに、心地よく風に乗っていくために、重い鎧(よろい)ももう脱ぎ捨てた方がよさそうだ。

 

今までにないまったく新しい風が今ここに吹いてきて、始まったばかりの新しい時代へ誘(いざな)ってくれようとしているのだから。

 

さぁ、今こそその時がきた。

 

なに躊躇(ためら)うことなく、開かれた扉の向こうへ進んでゆこう!

眩い波動で満たされた、軽やかな風の吹く世界へ!

 

le 22 Décembre 2020


プレゼントを選ぶ時、相手の笑顔、喜んでくれる表情を思い浮かべながらこれがいいかなあれがいいかな... と思いを巡らせる。

 

お世話になったお礼、日頃の感謝、... に限らず ’’ただただ喜ばせたくなった’’ 時、その気持ちを何か品物に託すのはなんだかとても心が躍る。

 

今までの付き合いから知る相手の好みや、きっとこの色が似合うだろうな、そういえばこんなものを欲しがっていたよな、そんなあれこれを胸に贈り物を探す時、こちらの心がとてつもなく温かなもので満たされてきて、実は最高のプレゼントをこちらが ’’もらっている’’ のだと気づく。

 

贈りたい相手がいる、自分からの贈り物を喜んでくれる相手がいる、そんなご縁を与えられていることじたい、どれほど大きな恩恵だろう。

そのことに心から感謝したくなる。

 

プレゼントする時も、プレゼントをいただく時も、そこに行き交うものはどこまでも温かなもの。

 

目に見えないその部分こそ、かけがえのない宝物。

最高のプレゼントだ。

 

le 24 Décembre 2020


それでも天体の動きは止まることなく、空は美しく晴れわたる。

まるで何事もなかったかのように。

 

今、地球上に情報として飛び交っているものの実態は、果たして見えているそのままなのだろうか。

’’見せられている’’ ということはないのだろうか。

 

視点を変えれば見えてくるものは全く違ってくるのがわかる。

 

『現実を創造するのはどこまでも自分だ』ということに本当の意味でひとりでも多くの人が目覚めた時、皆で一緒に見る世界はとんでもなく違ってくるのではないだろうか。

 

本当はもう、今すでにあるのだけれど... と今は言うまい。

’’然るべき時’’ は必ず用意されているだろうから。

 

ただ言えるとしたら・・・

 

空に問え。

風を読め。

 

’’人間’’ という生き物に本来備わった能力を全開にしろ!

 

もうその世界は始まっている。

 

そういうメッセージはそこここに在る。

 

le 27 Décembre 2020


いきなり先の見えない想定外の壁が立ちはだかることなどそうそう頻繁にあることじゃない、...そんな特別な年となった2020年。

 

戸惑い、うろたえ、不安の波にのみ込まれないようにするのが精一杯だった春先と比べると、今、物事の奥や側面が朧(おぼろ)げながら見えてきていることで道標を掴みかけている。

 

様々な規制が敷かれたことで結果的に思いがけずたっぷりと時間が手に入り、新しいことにチャレンジしてみたり、生きていく上で本当に大切なものは何だろう、と自分の人生にじっくり向き合うきっかけにもなった。

大きな学びの機会をもらったんだと思う。

 

「人との繋がり方」も大きく変わり、様々な手段が生まれた。

現代機器を使って、離れていても気軽に繋がる手段の精度が、今年のこの状況のなか格段にあがってきたのは凄いことだ。

コミュニケーションに必要なツール、会話と文字は、今も昔も、そしてこれからもずっと不可欠なものであり続ける。

 

けれども、会話でもなく文章のやりとりでもない手段。

そこが在るか無いかでは、頭で理解している何十倍、何百倍も、実は大きな違いが出てくるんじゃないだろうか。

 

もちろん今の状況下でそれを言うべきでないかもしれない。

 

でも忘れないでいよう!

ちゃんと意識していよう!

人間だからこそ味わえる本当に大切なことは、新しく生まれた手段で全てまかなえているわけではない、ということを。

 

le 30 Décembre 2020


窓ガラスがびりびり震えるほどの、手袋をしていないと感覚がなくなってしまうほどの冷たく強い風の中でも、健気に身を寄せ合って咲いている花々はそこだけ柔らかい春の日差しのようだ。

 

じっと風に身を任せ、震えながらも微笑んでいる。

 

そう、どんな季節のどんなお花も、咲いている姿は必ず微笑んでいるように見える。

少なくとも怒っているように咲いてるお花なんて見たことない。

 

静かにそこに佇んでいるだけで、優しさや温かさというプラスのエネルギーを放ち、真摯に生き、種を残し、そして散ってゆく。

 

植物は植物の、動物は動物の、我々は我々の、それぞれの使命を、義務感からではなく、魂からの喜びをもって全うしていくことで、地球が、宇宙が、健やかに循環していくんだと思う。

 

’’魂からの喜びをもって’’。

これからは、ここが大きなポイントとなるだろう。

愛の波動が満ち溢れる素晴らしい時代の到来だ。

 

沢山の気づきを貰えた2020年に心から感謝せずにはいられない。

 

le 31 Décembre 2020