過去のつぶやき

2021(7月〜12月)

一日の始まりをどんなふうにスタートさせようか。

 

目覚めた時のインスピレーションを、大いに頼りにしていい。

その日の体調にもよるだろうし、お天気にもよる。

’’絶対こうでなくちゃいけない’’ ということなんか何ひとつない。

 

でも、自分を軌道に乗せやすくするための、いくつかの小さなことを持っておくのは悪くない。

その中の、その時ピンときたものをやっているうちに「今日」という日の彩りが見えてきたらしめたもの。

 

少しずつギアをあげていく中で作務を積極的に進めていくんだ。

 

その日の最初の食事がたとえ日々変化のないものであったとしても、その日に躰に入れる食材は、その時だけの特別なものだ。

だから、心を込めて準備し、丁寧に味わおう。

 

掃除や洗濯も、それをすることで清められ、自分を心地よいエネルギー場に誘(いざな)ってくれる。

だから、笑顔とともに楽しく行おう。

 

どんなことも、健康であるからこそ出来ることだと知っていれば、面倒くさいなどとは思わなくなる。

 

下半期が始まった。

歓びを以って、感謝とともに瞬間瞬間を生きよう!

 

le 6 Juillet 2021


「用事があるから会う」んじゃない。

生身の身体を以って「会う」ことで ’’何か’’ が生まれる。

 

同じ空間に身を置き、その場の空気を一緒に吸ってみて、初めて目の前の相手の扉が開く。

相手にとってもそうだ。

 

見えない ’’ナニカ’’ がその場で行き来する。

 

電流のようなもの?

エネルギー的なもの?

テレパシーのようなもの?

 

そう、多分そういうかんじのもの。

言葉を使って対話する以上の、もっと細かい部分での交流。

 

だからこそ、深いところでの共有、共鳴、共感が起きる。

 

私たちがロボットじゃないからこそ出来るレヴェルのことだ。

 

そしてそれは、画像や音声機器などの便利な通信手段では、残念ながら半減してしまうことを忘れないでいよう。

一番大事なところこそが削(そ)がれてしまう、ということを。

 

これ以上、分断されてなるものか!

 

生身の人間である続ける、そんな生き方をしていこう!

 

le 13 Juillet 2021


肩書きや、 業績や、勲章や、賞賛...。

 

「どうも身のこなしが重くなってきている...」、もしそんなふうに感じるならば、知らず知らずのうちに色んなものがべっとりへばり付いて、自分を重くしている可能性がある。

 

ある賢者が言うには、過去の失敗を手放すばかりでなく、過去の成功をも手放していった方がいいらしいんだな、これが。

 

なるほど。

成功の記憶が、自分の未来に制限をかけてしまうのだな。

そのやり方にしがみつくあまり冒険できなくなってしまうのか。

 

我々 ’’生身の人間’’ はもちろんのこと、周りの全てのものも常に変化し続けている。

 

日常の中で関わるひとりひとり、言うまでもなく家族でさえ、生身の人気であるからには変化しないわけがない。

 

時代の価値観、発想も、じっと一点に留まってなどいない。

 

水は、動かなくなると淀み、濁ってしまう。

常に流れ、動き、ある時には気体、ある時には固体にもなり、この地球上で循環していてこそ「水」本来の力が発揮される。

 

そんなふうに私達も在ろうとするならば、動きやすいように様々なものを手放し、身軽でいることがひとつの秘訣かもしれない。

 

le 17 Juillet 2021


紅葉葵が今年も咲いた。

 

昨年より数十センチも背が伸びて。

 

朝に開き、夕方には萎(しぼ)んでしまう、たった一日の短命な花は、それでも鮮やかな花弁を見事に広げ、その凜とした佇まいからは真っ直ぐな意志が放たれているかのようだ。

 

己の咲いたその日の風を、全身全霊で味わい尽くし、堂々と天命を全うしようとしているかのように。

 

 

* * * * *

 

 

和名:紅葉葵(モミジアオイ)

学名:Hibiscus coccineus

別名:紅蜀葵(コウショッキ)

英語名:Scarlet rose mallow

花言葉:「温和」「穏やかさ」「優しさ」「努力の賜物」

 

le 18 Juillet 2021


それぞれの歴史や文化を持ち

驚くほど多種多様の 異なる価値観を持つ我々が

この星に こうして共に生かされていること

 

それだけでもう 十分すぎるほど有り難く

奇跡そのものだと心から感謝できる時

 

次の大きな一歩を踏み出せているのではないだろうか

 

目の前に見えていることは ひょっとしたらただの幻想で

その向こうにこそ焦点を合わせるものがあるのだろうから

 

Le plus important est invisible.

〔 ''Le Petit Prince''  Antoine de Saint-Exupéry〕

「いちばん大切なものは、目には見えないんだよ。」

〔サン=テグジュペリ作『星の王子さま』より〕

 

le 23 Juillet 2021


「潔さ」は、’’ここぞ!’’ という場面で大きな力となる。

 

環境や状況、条件などが不本意なものである時なら尚更だ。

 

他人の目がどうであれ、当然ながら ''受取拒否’’ していいものもあるし、場合によっちゃぁ静かに距離を置き、くだらない抵抗や反論をするヒマがあればさっさと切り替えて ’’自分にとって本当に大切なこと’’ にエネルギーを注いだ方がいい。

 

いずれにせよ、判断基準は『自分自身』だ。

わからなければ己に聞けばよいのだ。

 

そうやって、自分との信頼関係を丁寧に強化してきた者だけが、’’ここぞ!’’ という土壇場で真の力を発揮できる。

その、目も眩むようなパワーはどこまでも潔い。

 

le 27 Juillet 2021


身体の声を聞き、身体の欲する物をちゃんと摂ろう。

 

暑い時期、外側から身体を冷やしたり冷たい物を直に入れるばかりでなく、身体を冷やしてくれる食材を使ったお料理で食事として摂るのを身体は一番喜んでくれるんだそうだ。

 

どんなことをやっていくにも、いただいたこの身体をどれだけ良い状態に保っていけるかで、大きく道は違ってくる。

 

どうせなら、授かった能力を最高の形で発揮したいじゃないか!

 

そのためにも、「身体」のコンディション、同じだけ大切な「心」のコンディションを、自分のペースで整えながら丁寧に毎日を積み重ねてゆこう!

 

le 29 Juillet 2021


世界中から集い、腕を、技を、競い合うオリンピック。

勝ち進んでいけばいくほど「自己」との戦いになっていく。

 

体力も気力も限界を越え、それでも乗り越えたいと思うものに向かっていく時、戦う相手は「自分自身」となる。

 

否、長い長いトレーニングの時期から、既にそれは始まっているのだ。

 

スポーツ選手に限らない。

結局、形は違えど、誰もが歩んでいるのだ、「自分自身と向き合う」という道を。

それをどれだけ深められるか、楽しめるかが人生なのだ。

 

le 31 Juillet 2021


ほんの数秒の間に勝敗の決まってしまう競技。

人間の目では判別できないタイム差で順位の決まる競技。

延長戦、体力気力の限界を越えた先に明暗を分ける競技。

 

0.1 秒以内のフライングで一発退場となってしまう競技。

接触の末の転倒で、全てが水泡に帰する競技。

 

想定外の気候の中でも戦うしかない競技。

審判の判断に委ねるしかない競技。

 

’’その一瞬’’ のために、気の遠くなるような道のりを、血を吐くような日々を、黙々と歩んできた者たち。

 

魂の込められたそれぞれの ’’一瞬’’。

結果とは全く別次元で、目指すからこそ生まれるかけがえのない尊さがそこに在る。

これ以上ない命の輝きに、心のド真ん中を射抜かれる。

 

やっぱり人間は、こんなにも素晴らしく、そして愛おしい。

 

le 3 Aout 2021


共に高みを目指す仲間 / ライバルがいて、時には大舞台で真剣に競い合うからこそ自分も伸びてゆける。

''対戦’’ の場では「敵」の役目を担ってくれるけれど、実は「鏡」となってくれているのではないだろうか。

己の姿をそこに映し、乗り越えてゆくための。

 

もしその存在がなければ、「どうせ自分なんてこの程度さ」と未知なる可能性を花咲かせることもなく幕を閉じてしまい、ちんまりと ’’井の中の蛙’’ で終わってしまうだろう。

 

実は、誰にとっても、色々な人が周りに存在してくれているという形で、成長に不可欠な「鏡」が用意されている。

 

どんな時も。

ご縁あって出会う、すべての人が「鏡」なのだ。

 

le 6 Aout 2021


結果として目に見えるものは、全体の一部に過ぎない。

嬉しい結果も悔しい結果も、事柄の本質ではないのだから。

 

長い道のりの中身も、殆どを他人に知られることもなく、胸の内も、頭の中も、苦しんできた & 頑張ってきた時間も、自分でさえ全てを覚えてはおらず、覚えている必要もない。

 

出来たこと、出来なかったこと、湧き上がる感情、様々な思い etc.  ’’その瞬間’’ にダイレクトにしっかり受け止めること。

そのままの形で今、胸の奥にしっかり刻み込むこと。

さすればすべては自分の糧となろう。

 

陽を追いかけて咲く『向日葵 ヒマワリ』も、’’その瞬間’’ に、一心に陽に向かって力強く咲こうとする。

今日、今の、頭上に輝く太陽に向かって。

 

le 8 Aout 2021


 『私たちが口にする言葉はすべて祈りです。風に乗って、木々の葉の一枚一枚を揺らし、動物の毛一本一本をなで、あなたのところに還ってきます』

この、ネイティヴ・アメリカンのシャーマンによる教えから、どんな風景があなたの中に広がるだろう。

 

さぁ、窓を開き、良きものを放っていこう。

それは、笑顔だったり、口ずさむ歌、優しく振る手。

そして言葉だ。

 

放ったものがぐるっと地球を一周しやがて自分のもとに還ってくることを想像したら、なんだかとっても気持ちが柔らかくなる。

幸せのハンモックに揺られている心持ちになる。

’’生かされている’’ ということを改めて思い出させてもらえる。

 

さぁ、心を開き、佳きものを放っていこう。

まず自分から。

 

言うまでもなく、それは媚びではなく、なんでも肯定する、ということとも違う。

 

物事は、一見似ていても本質は真逆なことが実に多い。

 

自分のところに還ってくるものにしっかり目を凝らせば、宇宙の摂理がストンと腑に落ちるよ。

 

le 14 Aout 2021


自分のアンテナを健(すこ)やかに保てていると、思わぬ時に思わぬところで、思いもかけない素敵なものに引き寄せられる。

 

そうしようと目論まなくても、まるで磁石に吸い寄せられるみたいに、何故かその場所に、そのものに、呼ばれるのだ。

 

そしてそれは、自分の生き方の信条ととても近い波動を放っていて、だから初めてなのにとても懐かしく、心地よく、見ているだけでずっと笑顔でいられる。

 

知らず知らずのうちに自分の心が柔らかく開いていくのがわかるから、自分が満たされていくことをダイレクトに感じられる。

 

今日という日にそんな出逢いが用意されていたなんて...! と、温かい思いでいっぱいになる。

 

ふと空を見上げると、まるでこの経緯(いきさつ)を全て知っていたかのような慈愛に満ちたエネルギーが、これでもか! と降ってくる。

 

あぁ、きっとそれは気のせいなんかじゃなく、ほんとに ’’そういうこと’’ なんだろうな、って。

言葉でなんか説明できないレヴェルで、逆に一点の曇りもなく確信をもつんだよ。

 

le 18 Aout 2021


’’ちょっとしたこと’’ をやるか、やらないか。

 

その行動じたいは本当に ’’ちょっとしたこと’’ なんだけれど、思いついた時にさっとやってみることで、それ以降の時間が想像以上に Happy になる。

 

例えば・・・

 

洗面台の鏡に飛んだ水しぶきを拭き取るついでに鏡を磨く。

庭の水やりのついでに花を摘んできて食卓に飾ってみる。

掃除の後にお気に入りのアロマオイルを焚いてみる。

夏らしい涼しげな食器を使ってみる。

... とかさ。

 

どんな ’’ちょっとしたこと’’ でもいい。

ふと思った瞬間、行動に移すのがポイントだ。

 

それは、どこかから聞こえてくるサイン。

自分自身を大切にするヒントだからだ。

 

’’ちょっとしたこと’’ だからやらなくてもいい、じゃなく、そんな小さなことが世界を変えてくれる大きなことだと知っているか否かで、一瞬先、そしてその先が大きく変わる。

 

自分自身を心踊るどこかへ連れて行ける、そんな扉を、またひとつ増やせることになるんだ。

 

le 21 Aout 2021


暑い時でも、意外と外に出た方が涼しく感じられる時もある、ってぇもんだ。

 

空は高いし、風も吹く。

 

もちろんお天道さまはギラギラ照りつけてきなさるが、それだって日陰に入りゃぁ体感がぐっと変わる。

 

なんてったって外には、無限のご縁が用意されてるらしいじゃぁねぇか。

 

家ん中じゃぁ OFF にしちまってるスイッチみてぇなもんを、一歩外に出るとなりゃあ、おのずと ON にするもんだろ?

 

それが引き寄せるご縁てぇもんに、ふらっと出会いに行くのも悪かぁない。

 

いや何も、遠くへ出かけろなんて言ってねぇ。

手ぶらでいい、帽子でも被って、ほら気軽に、な!

 

le 26 Aout 2021


今日見たこと、今日耳にしたこと、今日感じたこと。

 

... そう、色んなものを今日も受け取った。

 

その瞬間瞬間にキャッチしたことは、すべて自分への贈り物だ。

 

布団を干しながらふと見上げた空の眩しさ。

市場に並んだ果実の、そのひと粒ひと粒の香りと色合い。

根菜を煮る鍋の灰汁(あく)、その泡、勢い、そして音。

若い弟子の奏でる素直さあふれる木管の響き。

TVから聞こえる応援と喝采、歓喜の嗚咽が重なってゆく様。

 

どれも、「今日」という日にだけ出会えた宝物だ。

日常は、実はこんなにもキラキラしているんだ。

 

忘れないでいよう、すべての瞬間がかけがえのない贈り物だということを。

 

le 28 Auot 2021


再び、新しく出会う誰かのもとで力を発揮できる・・・

どれほど時間が経っていても、もう一度「現役」に戻れる時を待ち遠しく思いながら ’’ご縁’’ に期待している物たち。

 

もともとの使われ方と多少違ってしまっても、それはそれで新しい役割を担う喜びとなる。

例えばもし、出窓のインテリアになるとしても、新たな別の魅力を放っていくことになるのだ。

 

自由な発想は、常識や固定観念などという堅い枠組みを取っ払えた時、思いもよらぬところから降ってくる。

 

それがいつ来てもいいように、常に柔軟な心でいよう。

そのためには、古い記憶や余計なものを手放し、できるだけ身軽に、頭の中も風通しよくしているに限る。

 

何故なら、どんなことでも、「〜であらねばならない」と過去の慣習に倣(なら)う必要など全くないのだから。

 

人様を傷つけたり、迷惑をかけたり、哀しませることにならない限り、大抵のことは「どんなふうであってもいい」。

自分だけの、オリジナリティ溢れる発想で生きていこう!

 

le 31 Aout 2021


本人にしか分かり得ない苦悩。

そこからの気が遠くなるほどの苦労と努力。

 

それらを乗り越えてきた者だけが放つ圧倒的な「自信」、その核となる「強靭な精神」。

更には、TV画面を通してさえ痛いほどに伝わってくる人としての「温かさ」や「優しさ」、そして「気高さ」は、あまりにも眩しすぎて時に直視できなくなるほどだ。

 

試合後、競い合った相手とお互いを讃え合う姿からは、単に競技の健闘を讃え合う以上の、なにかとてつもなく深い思いが行き交っているように感じられてならない。

 

生きていること、生かされていることの歓び。

そのことへの限りなき感謝。

 

彼らが全身全霊で示してくれる『今、ここに在る』ということから、私たちがつい忘れがちな、本当に大切な基本の基本の部分こそを思い出させてもらえる。

 

あぁ、なんと有り難いことなのだろう。

 

魂の大先輩たちが指し示してくれる道は、間違いなくすべての魂が見失いたくないと願っている、光へと向かう光で出来た道ではないだろうか。

 

le 3 Sept. 2021


あれだけの酷暑に辟易させられたにもかかわらず、いざ、その去り際の後ろ姿を見せられると何故か不思議な感情が湧いてくる。

 

それは、誰かに何かを伝えきれなかった時の思いに少し似ている。

 

「ありがとう」だったのか、「ごめんね」だったのか・・・

 

心の荒波が鎮まったあとの緩(ゆる)やかに流れる時間の中で、自分を客観視できた時に浮かんでくる何かだ。

 

見えない何かに追われ、急き立てられているかのような、そんな幻(まぼろし)をしっかり「幻想」だと認識できた時、やっと肩肘張った自分でなくなり、様々な思いが整理されていく。

 

幸いにも、後ろ姿はまだそれほど遠くへは行っていない。

せめてその残り香に身を置いて、己の心と対話するための静かな時を過ごすとしよう。

 

柔らかい陽の光が、また、なにか温かいものを運んできて、大切な ’’気づき’’ を促してくれるかもしれないから。

 

le 9 Sept. 2021


直に浴びる陽の光も、ガラス越しに注ぐ光、柔らかい反射によってもたらされる陽の光も、私たちの身体や心に、その時々のニュアンスで様々なものを与えてくれる。

 

それぞれの季節、いつも自然界からのたくさんの贈り物をいただいていることを忘れてしまいがちな私たち。

 

陽の光だけではない。

空気も、水も、私たちが一から作れるものなどない。

 

豊かな実りをもたらしてくれるこの大地だってそう。

 

にもかかわらず、どこからも、一度も我々ニンゲンに請求書が届いたことはない。

 

何もかも「実は借りてるだけなんだ」という視点で捉えられたら、溜め込んだり奪い合ったり、という思考はなくなる。

 

どう思おうが、いずれにしても全ては循環しているのだから。

物質も、エネルギーも、何もかも。

 

その「循環」こそ、物事が、人間が、 ’’健やかに在る’’ ための主軸なんだと思う。

 

le 11 Sept. 2021


時計に管理され追い立てられるようなギュウギュウ詰めの日常より、可能な限り隙間だらけの日常を目指したい。

 

手帳の空白を埋めてしまうんじゃなく、空白それじたいを「大事な予定」としてそのままキープしておくんだ。

 

空白があれば感覚もしっかり機能してくれるから、素敵なことがいっぱい飛び込んでくる。

受け取るものが多ければおのずと豊かになっていく。

豊かさによって満たされていくから、そうしようと意識しなくたって良きものをどんどん放ってゆける。

 

そのためには・・・

 

予め自分で日常のすべてを埋めてしまわない、ってことかな。

 

よく知った小径でさえ、その日の気温、お天気、自分の体調や心の状態、色んな違いで目に映るものは驚くほど違ってくる。

 

せっかく、四季折々の光が射し、その瞬間にしかない風が吹いているんだ。

 

たくさんたくさん感じとっていこう。

 

そんな中にこそ、親身になってくれる身近な存在からの、一見耳に痛くとも愛に満ちあふれた助言が混じっていたりするものなのだ。

 

le 16 Sept. 2021


日常は、選択の連続だ。

 

八百屋の前で、より鮮度が高く、より美味しそうなものはどれかを見極める時も。

 

空の様子を伺い、今日は大物のシーツがバリッと乾きそうかどうか、洗濯機に放り込む物を選ぶ時も。

 

はたまた、今日の自分はどんな服を着たい気分なのか、今日は何を食べたいのかを自分自身に問う時も。

 

一瞬一瞬、雲の動きのように日常のすべては動いていて、その時々に自分でひとつひとつ選びながら時を刻んでゆく。

 

我を殺し、ただ状況に流され、あくせくと毎日のルーティーンを無感情でこなしていく日々では、どんどん自分が色褪せていってしまう。持って生まれた本来の能力も萎びていってしまう。

 

人生をどれだけ色鮮やかに、自分の色で彩ってゆけるか。

そして、その過程をどれだけ楽しめるか。

 

せっかく生まれてきたんだもの。

 

誰に遠慮することなく、もっと自分本意で生きていい。

 

そもそも「人生」とはそうやって紡いでいくもののことを言う。

 

le 18 Sept. 2021


大切な考え事を抱えているなら、まず頭をカラッポにして開放的なところへ出かけよう。

優しい葉擦れの聞こえるお気に入りの木陰、心地よい風に吹かれながらリラックスできる場所がいい。

 

そして時の過ぎゆくことにも、複雑に絡み合う思考の糸にすら、あたかも波の上に仰向けに寝そべるがごとく自分を委ねてみる。

 

せわしなく「思考せよ!」と指示を出そうとするコントロールレバーから完全に手を離し、己の中心に意識を向け、どこかからやってくる何かを静かに待つだけでいい。

 

もしどうしても頭が働きたがって仕方ないのなら、そのことにまつわる温かな記憶を、ひとつひとつ拾い上げてみることを楽しんでみるのは悪くない。

 

瞼の裏に焼きついている忘れられない風景の中に、そのとき湧き起こった感情をもう一度味わい直せる自分を発見するだろう。

 

あたかも過去にタイムスリップしたかのようでいて、実は同時に「今」起きていることでもあると無条件に理解できた時、探していたパズルのピースが、力むあまり握りしめていた自分の手の中にあったことに気づき、考え事はもはや考え事ではなくなる。

 

物事は、思っている以上にシンプルだ。

 

光の道にそれを再発見するのも、実にシンプルな作業なのだ。

 

le 22 Sept. 2021


この、マレ地区にあるかつての貴族の住まいは、現在では国立古文書博物館としてフランスの歴史を刻む重要文書の数々が保管されている。

 

’’起きたこと’’ が(その信憑性の如何はともかくとして)記録として残っているという事は誰もが普通に理解できることだが、宇宙のどこかに在るとされる『アカシックレコード』の存在を思う時、日常的に当たり前のように使っている理解力や想像力というものの枠をことごとく取っ払ってしまわないとその存在に向き合えないような心持ちになる。

何故ならそこには、元始からの全宇宙の歴史、のみならず未来の情報までもが全て記録されているというのだから!

 

ただしかし、それほどまで遥か彼方にあるもの(あるかどうかも確認の難しそうなもの)でなくとも、もっと身近に、自分のすぐそばにあるものに問うてみることも、根源的にはほぼ同じことを意味するような気もするのだ。

 

それは自分自身の「潜在意識」というもの、ニュアンスとして己の「魂」というものといえばよいだろうか。

 

我々の本質が肉体や脳味噌にあるのではないと分かっている以上、’’それ’’ に出来るだけ意識を向けることを忘れないでいたい。

 

遥か大昔に備わっていた能力や感覚が、いつの頃からか使わずとも生きられてしまう世になっていることで退化の一途を辿っている事実、これを、どこかでいつも意識していたいと思うのだ。

 

le 3 Oct. 2021


日々の労働、雑事に追われ、誰の力も借りようともせずふぅふぅ言いながら一日一日を送ってはいませんか。

向き合わねばならない事柄が山積していく、そのこと自体に押し潰されそうになってはいませんか。

何かをしていないと責められる、ということが妄想だとも気付かず、片時も休まず自分を追い込んではいませんか。

 

足掻けば足掻くほど苦しい状況になっていくことを、昔から「蟻地獄に陥(おちい)る」と言い表されています。

 

苦しみの中で途方にくれる時、人は誰でも焦燥感に駆られます。

こんな自分は本当に情けない、と自分を蔑(さげす)みます。

 

そんな時、唯一できることで、そのうえ一番良い方法が実はあるのですよ。

 

『一旦立ち止まってみる』

 

道に迷った時だって、闇雲に動き回るより、自分が今どこにいるのかを把握してから再び動き出した方がいいでしょう?

 

自分の位置を知る、つまり ’’自分自身を知る’’ べく、まずは一旦立ち止まってみるのです。

 

指針は、己の中にあるのですから。

 

まずは、お気に入りのカフェにでも赴いて、ゆったりと、あなた自身を労ってあげてください。

傷だらけになってまで頑張っているあなた自身を。

 

le 11 Oct. 2021


目的地を決めて動き始めても、何故か、どうしてもそこに繋がる道を見つけられず、逆に、何者かに導かれるかのように全く別の方向に誘(いざな)われることがある。

どこに向かっているのか不安になりながらも、導きのままに進んでみると、不思議なほどスムースにいくことにまず驚く。

 

ボンネットの前をゆく道先案内を買ってでてくれた美しい小鳥についてゆくと、車窓からの風に気温の下がってゆくのを知る。

その先に清流の流れる豊かな自然が待ち受けていて、生命力を湛(たた)えた山々の雄大な曲線に心身が浄化されるのが分かる。

 

予め決めていた場所ではなく、その日その時に相応しい行き先がある。... と分かるのは、不思議な誘いのままに身を委ねて進んで行った先で理屈でなくストンと納得できるものに出会った時だ。

 

すべてはそうなるように出来ている。

その時に必要なことが起きている。

そしてそれらは、すべて光の道へと繋がっているのだ。

 

「サレンダー」という言葉は、本来は「降伏する」という意味だが、さらに踏み込んで「信じて任せる」という意味になる。

 

『人事を尽くして天命を待つ』

読史管見にある故事成語を、いつも自分の懐に感じながら進んでゆければと思う。

 

le 14 Oct. 2021


パリ20区。

ペール・ラ・シェーズ墓地。

 

その人が眠る場所は遠くからでもすぐに分かる。

 

そこだけ、一年を通して絶えることなく、そう、まるで世界的なソリストのコンサート直後の楽屋のように、四季折々の花が所狭しと手向(たむ)けられているからだ。

 

そして、大勢の前で弾くことを嫌った彼が、これでは静かに眠ることも難しいのではないか、と要らぬ心配をしてしまうほど世界中から訪れる人によっていつも賑やかしい空気に包まれている。

 

そして私はいつも感慨に耽るのだ。

この人が、実際にこの地で生きた月日があった、ということに。

 

自然界から音を拾い出してきたかと思うと、そこに彼自身のあらゆる感情をのせ、薫り高きハーモニーで彩り、更に自身の命を削った粉をふりかけ、天賦の才で見事な作品に完成させる...。

 

彼の前後 数百年を見渡しても、誰ひとり、彼のような音楽を残した人はいない。

 

『彼はただひとつの楽器に、無限なるものの言葉を語らせた』

祖国を遠く離れ、決して長くはなかった人生を愛に生きた彼が数々の至宝を生み出すにあたって、強い支えとなったかけがえのない人の言葉だ。

 

’’ピアノの詩人’’ よ、永遠なれ。

 

le 17 Octobre 2021


本当に自分らしくある時、人は誰でも、柔らかく、優しくあれる。

人に対しても、そして自分自身に対しても。

 

水のように、空気のように、いっさいの力みもなく、誇示することもなく、ただ「在る」という状態でいられる。

そのことが、周りとの調和をも生む。

 

反して、頭で考え抜いたことに主導権を握らせて「こうあらねばならない」と人にも自分にも気負う時、接点には火花が飛び、互いに火傷(やけど)を負う。

場合によっては致命傷を負いかねないほどに。

 

頑(かたく)なでいて良いことなどまずない。

主張し続けることでいったい何を得ようとしているのか。

 

言葉は、時にお互いを傷つけ合う武器ともなりうる。

 

ならばいっそのこと、すべてを手放し、ただ感謝だけを胸に静かなる一歩を踏み出そう。

 

本来の自分に立ち戻った時に心に湧き上がる温かいものは、必ずそのままの形で大切な人に伝わると信じて。

 

le 21 Octobre 2021


学生時代なら、中間も学期末も試験の日程は予め分かっている。

試験の範囲も細かく知らされている。

 

でも大人になると、思いもよらぬタイミング、シチュエーションで、今まで解いたこともない ’’問題’’ がいきなり出題される。

 

先ずそのことに戸惑い、混乱し、焦るあまり、闇雲に迷走したり無自覚な暴走を起こしたりしてしまう。

 

そんな「とうてい解けそうな気のしない問題」にブチ当たり、寝ても覚めてもそのことが頭から離れない時、ちょっと目線の角度を変えてみることを勧めたい。

 

問題の解き方をアドヴァイスしてくれる魂の先輩がすぐ横でこちらに微笑みかけてくれていたり、びっくりするようなヒントや、時には答えそのものがすぐ横に転がっていたりするものなのだ。

 

そもそもその問題が出題されたのは、解けるだけの実力が備わってきた頃合を見計らって、天から与えらる場合が多い。

 

いつまでも足し算や九九だけでは、確かに人生つまらない。

 

問題を解くことも大きな目的ではあるけれど、解いていく過程での沢山の気づき、学びは、それ自体かけがえのないものとなる。

 

究極のところ、どんな難題が出てこようが「生きているからこそ」だと思えばなんだって大丈夫な気がしてこないか?

 

le 27 Octobre 2021


生きていく上で ’’何を大切にするか’’ は本当に人それぞれ。

「自分は何をしている時が一番幸せなのか」

「自分は誰といる時が一番幸せなのか」

etc.

 

つまるところ、個々の価値観は個々の生き方に直結していて、どれが正しい / 間違い、というものなんかではない。

 

しかも人間はナマモノで、日々、刻一刻変貌を遂げている、自分でも気づかぬうちに。

 

どこに、誰と(もしくは独りで)どんなふうに暮らし、何を見、何を感じ、それらを人生にどう反映させたいと思っているか。

 

言うまでもなく、人の数だけパターンがある。

一枚の楽譜から奏でられる音楽が奏者の数だけ存在するように。

 

その在り方こそが健全なのだとスッと納得さえできたら、自分を含め、誰のことをも非難する気など起きなくなる。

 

誰もが「個」の本質のままに、魂の願いのままに、ありのままに存在することが、究極の調和を生むのではないだろうか。

 

先ずは「日常」をしっかり整えていこう、おろそかにせず。

自分が呼吸する空間、場を、最高に心地よきものにしていこう。

 

よき ’’氣’’ の廻る場にいてこそ、自分自身が見えてくる。

すべての基盤はそこにある。

 

le 30 Octobre 2021


遠い昔に見た風景が、そこに吹く風や空の様子、聞こえてくる音などを伴ってするりと意識に上がってくる時、大切なメッセージが届けられようとしていることを知っていよう。

 

何者かの誘(いざな)いのままにそのイメージの扉を開け、いま自分の足が踏みしめている場所、身にまとっているものの形状や色などをゆっくり観察してみるのだ。

 

背後に広がる風景はどんな世界を見せてくれるのだろう。

 

自在に移動できる特権を、丁寧に使ってみるといい。

 

広間の大きなアーチ窓を通して、見渡す限りの草原のたなびきの緑を、眩しい陽の光の中に味わうことができる。

 

どっしりとした分厚い木のテーブルに背凭れのある丈夫な椅子。

 

家族たちの温かく柔らかい心の瞬きが、部屋の隅々までをも満たしていくのをまるで目で見るように全身で感じるだろう。

 

幸せの本質は、ひとりひとりの魂の中心から豊かに溢れ出るものによって作られる。

 

愛する人とその思いを交換できることの、どれだけ恵まれた人生であることか。

 

それを許された人生の、どれほど幸(さち)深きことか。

 

le 04 Novembre 2021


すべてのものは巡っている。

 

巡り巡ってここにあり、また巡って彼方へと向かう。

 

自然界のなにもかもが常に循環していて、命あるものすべて、遥か昔からそうあり続けてきた。

 

となれば、自分のところに巡ってきたものも、自分の中でより良きものに変えて次へと巡らせてゆきたい。

 

地球さんはいつもそうしてくれている。

黙って、ずっとそうしてくれている。

 

その最高のお手本を是非とも自分の日常に取り入れていこう。

 

人間のもつ「思い」や「感情」というものも、そういうふうに在らしめることは可能なんじゃないだろうか。

 

受け取ったものが鋭い形をしていても角をとって丸くし、苦い味付けのものは優しい甘さを含ませた味に変え・・・

そうやって自分の中で良きものに変え、そして巡らせていく。

 

そうイメージしてみただけで輝く明日が見えてくるじゃないか。

 

相手に渡したかったのは、本当は「愛」と「感謝」だけだったんだ、と深いところから思い出せるじゃないか。

 

le 9 Novembre 2021


人は往々にして、「被害者意識」を持つのにハードルを高くは設定しないものだ。

 

日常のちょっとした事で、たいした確証もないのに自分を被害者に見立てることをしたがる。

 

つまりそれは、自分以外の誰かを加害者にする、ということだ。

 

自分はこんなにも傷つけられて可哀想。

自分はこんなにも損ばかりしている。

それを、’’誰か’’ や ’’何か’’ のせいにしてしまうことはたやすい。

 

でも、そんなことをして Happy になれるのかい?

そんなにも惨めで可哀想な存在でいることが心地いいのかい?

 

被害者意識を持った者同士がいくら話し合っても、どこまでも非難の並行線がのびてゆくだけ。永遠に交じりあえない。

 

でも、その逆のパターンだったらどうだろう?

 

あの時はごめんなさい。

あなたを傷つけたことをどうかゆるして下さい。

いえいえ、こちらこそ悪かったのです。

とんでもない、私こそ!

 

お互いを赦しあえたら、あとは抱擁しかなくなるじゃないか。

 

本当は、支え合い、愛し合うために出会っているというのに。

 

le 18 Novembre 2021


この季節になると NY セントラルパークのこの景色を思い出す。

なんでもサイズのデカいアメリカだが(笑)、この黄金色(こがねいろ)に輝く木の眩しさは、その高さとともに圧巻だった。

 

迷いなく真っ直ぐ天に向かって立ち、辺(あた)りはばかることなく陽の光を一心に受けてキラキラ輝いている様は、命の在り方を教えてくれているかのようだ。

 

世界でたったひとつの存在である「自分」は、誰と比べる必要もなく、在りのまま、自分で自分を肯定していい。

 

誰かの評価など待たず、ましてや自分を卑下する必要などない。

 

人に迷惑をかけたり、誰かを哀しませ、傷つけたりするような生き方でないなら、堂々と、そのままでいい。

 

上目遣いで、息を殺しながら小さくなる必要なんてないんだよ。

 

誰もが伸び伸びと、’’自分自身として’’ 存在していい。

 

大丈夫。

 

しんどい事があっても、’’誰か’’ や ’’何か’’ のせいにせず、しっかり目を開いてさえいれば、ちゃんと進むべき道は見つかるから。

 

le 21 Novembre 2021


「30年」という月日が、長いのか短いのかは分からない。

 

確かなことは、貴方がこの星で肉体を持って大暴れしていた時間を一番長く共有した人たちにとって、こんな数字はおそらく全く関係なくて、ただただ貴方と過ごした日々の熱量が今もなお、全ての瞬間に濃く在り続けている、ということだ。

 

そんな彼らを通して、そして言うまでもなく貴方の残した数々の傑作 / 名演、そして雄姿を通して、空の向こうのはるか彼方、またある時はすぐ傍に、熱き魂の揺らめきをはっきり感じる。

 

’’ never boring ''。

退屈を嫌った貴方のことだ。

そして、ずっと ’’愛’’ を追い求めた貴方のことだ。

 

上からこっちを眺めながら、沢山のヒントやサインを送ってくれては世界中の人たちを光の道に導いてくれている。

 

日常のそこここに、確かなそれを感じるよ。

 

そのものすごいエネルギーは過去も現在も変わらない。

 

そのことに、いつも心からの ’’ありがとう’’ しかないよ。

 

le 24 Novembre 2021


春に花々が彩り豊かに目を楽しませてくれるのに対し、秋には、その役割の主役を木々たちが担う。

 

どんなものにも役割があるのだろうなぁ。

 

役割とは、もしかしたら生まれ落ちてから自分で選ぶのではなく、もっと前に決まっているものなのかもしれない。

 

生まれる時代も、生まれる国も、両親や家庭環境の何もかもを、自分の魂が「今回の人生で全うしたいこと」の為に自分で選んで生まれて来るのだ、という話を聞いたことがある。

 

そして、それを全うする為に必要な能力を授かって生まれてくるのだそうだ。

 

同じ親から生まれたきょうだいでも、誕生の瞬間からそれぞれの個性ははっきりと違う。

 

誰と比べるのでもなく、自分にはなくて人にあるものを羨ましがるのでもなく、自分に授かったものにしっかり目を向けてみれば、それがどれだけかけがえのないものなのかが分かってくる。

自分がどんな道を進めばよいのかも見えてくる。

 

ひとりひとりにとっての ’’光の道’’ が。

 

le 30 Novembre 2021


毎年毎年、同じ時期に色づいては散ってゆく。

その光景はさも同じことの繰り返しであるかのように錯覚しがちだが、昨年の赤い葉っぱと今秋の葉は同じものではない。

 

人生、思わぬ時に思わぬ事態が起き、想定外の展開となることは別に珍しいことではない。

寝ても覚めても考え続け、苦悩し、出口のないトンネルの中を永遠に彷徨うような不安に飲み込まれ、混迷を極めて闇雲にもがき・・・ その先にようやく導き出した結果がたとえ元の形と同じだとしても、それはもはや全くの別物だ。

 

巡り巡った先に出した答え、そこにはたくさんの栄養素が詰まっている。

 

春に新芽をつけ、夏を過ごした葉が秋には儚(はかな)く散ってゆきながらも、1本の木として確実に成長してゆくことと似ている。

 

le 4 Décembre 2021


冬の空の透明感は、それ自体が諭(さと)しのようだ。

見上げる私たちの瞳に大きな問いかけをくれる。

 

知らず知らずのうちに色眼鏡をかけてはいませんか。

 

その状態で、テレビやネット、その他いろいろな物からの、まるで赤子に与える流動物のような状態にされた情報を、おメデタくも鵜呑みにしてはいませんか。

 

大切な人を透明な眼差しで見つめていますか。

自分自身を曇りのない目でまっすぐに見ていますか。

 

あなたの心は今、どんな状態ですか。

 

le 7 Décembre 2021


「感情」とは、そう簡単に言葉に変換できるものではない。

 

しかし、様々な感情を深く深く掘り下げていった先には、ものすごくシンプルなものに行き着くような気がする。

 

若い頃にはまるで分からなかったことが、ある程度の年月をそれなりの経験を重ねてきたことで核心に近づいていく。

 

結局、人は誰でも独りでは生きられず(例え無人島でも!)、もしそう思ってるとしたらとんでもない勘違いだ、ということも知る。

 

’’生かされている’’ ということをとことん思い知らされる。

 

だからこそ、ちゃんと真心を伝えよう、渡していこう。

ついそれを怠ってしまいがちな身近な存在にこそ。

 

le 10 Décembre 2021


蝶が、たっぷりと蜜を含む花の在り処を知るように、土の下の球根が、芽吹くための最適な日を選ぶように、きっと我々にもそういうセンサーは備わっている。

 

人生を豊かにしてゆきたいと願っているならそのセンサーのスイッチは ON になってはいるだろうけれど、センサーに反応したものに敏感に気づき、一歩を踏み出すか否かは、また別のところを機能させる必要がある。

 

出会うべき人に出会え、与えられたご縁に気づける時、また次のワクワクの扉が開くことで人生は更に彩られてゆく。

 

その、かけがえのない宝物を見逃さずにいよう。

待ち人を、大勢の中に確実に見つけられる自分でいよう。

 

枷を強いられる世界とは別次元の、柔軟な状態であろう。

 

le 16 Décembre 2021


ピリリと冷たい空気に頬が引き締まるこの季節。

感覚のひとつひとつまでも引き締めてくれるような気がする。

 

澄んだ空気が目に映る物の輪郭をはっきりさせ、風に乗って聞こえてくる音も気のせいかくっきりと耳に届く。

 

いや多分それらは気のせいなんかじゃなく、実際この寒い季節の空気感は、目に見えないものまで、そう、文字どおり全てをクリアにする力があるのかもしれない。

 

何気なく覗いてみたアンティークショップで、ひときわ輝きを放って目に飛び込んできた一客のコーヒーカップも、そんな空気の中で私の感覚に触れてきた。

 

「おや、こんなところで私を待っててくれたんだね!」

 

人との出会いと同じように、物との出会いも、物事との出会いも、すべては『感覚』がいいかんじに働いてくれていてこそ。

 

澄んだ空気だったり、温かく満たされた健全な心身だったり、自分自身への絶対的な信頼だったり、生かされていることへの感謝だったり・・・

 

それらは全部つながっていて、ぐるっと回って「今」「ここ」でひとつの結晶を作り出し、素敵な出会いへとつながってゆく。

 

le 21 Décembre 2021


美味しいものは超高速で「笑顔」に直結する。

 

一瞬にして人を幸せにできるもの。

それってすごいことだよね!

 

そして私たちは、笑顔になった時、胸のあたりがポッと温かくなってることに気づく。

 

豊かなもので身体が満たされていくからなんだよね。

 

そうすれば、当然だけど、身体さんは大喜びする。

 

そしたら、心にも身体にも「元気」がみなぎってくるんだよ。

 

素敵なアイディアが浮かんでくるし、大切な人に対してはもちろんのこと、困ってる人を見かけたら手を差し伸べよう、...と思う前に軽やかに行動に移してるよね。

 

だからさ。

毎日の「食」をおろそかにしゃいけない。

自分の肉体も、その中身をも、つまり「わたし」を作ってくれているものなんだから。

 

地球の恵みに感謝し、きちんと作られた作物を、きちんと丁寧に調理していただく。

どんな時も、その、「生きる」基本を忘れちゃダメだよ。

 

le 27 Décembre 2021


親しい人、大切な人と囲むテーブル。

 

その ’’時間’’ こそが、そこに並ぶお料理や飲み物以上に、実はかけがえのないものだという事にどれだけの人が気づいているのだろう。

 

そこに身を置いて一緒にその場所の空気を吸い、言葉を使うだけではない温かなコミュニケーションが行き交うことからの、何にも代用のきかない豊かさ。

 

それが「当たり前ではない」ことをいつも忘れないでいよう。

望んだからといっていつでも簡単に得られるものではないことも、もっともっと意識していよう。

 

「いつでも手に入る」「今じゃなくてもいいや」は、実はものすごく大切なものを取り逃がしてしまう心の有り様な気がする。

 

自分のアンテナにビビッときたことを、「気のせいだよ」と軽く流してしまうことがどれだけ勿体ないことかも知っていよう。

 

たくさんの ’’たまたま’’(に見えるもの)が信じられないレヴェルで折り重なって「今」があるからこそ、パッと頭に浮かんだことを大切にし、迅速に行動に移した方がいい。

 

ふと、「あの人に会いに行こう」と思ったことも。

 

感覚を、五感をしっかり機能させての「今」であろう。

 

le 29 Décembre 2021


いずれは「今」この瞬間も過去となる。

 

かつては「過去」もその時々の「今」であったのに、そのことをすっかり忘れ、振り返ることで何かを取り戻そうと足掻く。

もしくは以前の状態に戻ろうと躍起になる。

 

そんなことよりも、一瞬一瞬過ぎ去ってゆく「今」「この時」にこそエネルギーを注ごうではないか。

目の前に与えられているこの瞬間にこそ、己の生を反映させようではないか。

 

そうすることで、次の瞬間、つまり「未来」が大きく変わるのだから。

 

この、ちょっと考えればわかるシンプルな理(ことわり)をこそ、いつも胸の真ん中に抱いていよう。

 

生かされている「今」だけが、過去でも未来でもない ’’リアル’’ なんだと。

 

 

ありがとう 2021年。

護(まも)られ、誘(いざな)われたことに感謝。

全てのご縁、事柄、起きた事、何もかもに、ただただ感謝。

 

le 31 Décembre 2021