2021(1月〜6月)
大晦日直前の大寒波が2020年のアレやコレやをカチカチに凍らせ、嵐のような強風がそれらを豪快に吹き飛ばして粉々にし、真っ白い雪がすべてを浄化・・・
明けて元旦、風のないピリリと引き締まった澄んだ空気の中を、満面の笑みで初日の出が登場。
なんという粋な天の計らい!
こうして2021年は素晴らしい演出で幕が開けた。
「すべては守られているよ」
「すべては良き方向に進んでいるんだよ」
「なにも心配しなくて大丈夫」
そんなメッセージが天空からこれでもかというほど降り注ぐ。
私たちは、発想の扉も、五感も、心も、すべてオープンにしてプラスのエネルギーを全身全霊で受けとめ、そして放ってゆく。
『願う。誓う。信じる。叶う。』
己の魂が最高にワクワクする道を、己を信じて進んでゆくだけ。
Keep yourself alive!
’’思考が現実を創っていく時代’’ 、いよいよ本格的に始動だ!
le 1 Janvier 2021
「あぁ、あの時のアレは、このためにあったのか!」
「あの時ああだったことで、こんなにも嬉しい今を迎えられているのか!」
そう思える現実に着実に歩みを進められている今。
’’夜明け前が一番暗い’’ といわれるその時期など、もうとうに過ぎていることを潜在意識は察知している。
’’かつての人類’’ に備わっていた能力を思い出し、その封印を解き放ち自在に使い始めることで、細胞の隅々にまで本来のエネルギーが戻ってくる喜び。
肌感覚よりももっと細かいところで、理由など言葉にできずとも揺るぎない ’’ひとすじの光’’ がはっきり見える。
ほら、山々のそのむこう、遠くの空が明るみを増してきた。
眠っていてはそれに気づけない。
目を醒まそう!
戸惑うことなかれ。
魂に舵をとらせれば全てうまくいく。
le 5 Janvier 2021
たとえば私なら、大切に思っている大好きな人から、揺るぎない信頼を寄せられると単純にとても嬉しい。
そして、頼まれなくてもその人が喜ぶことをしたくなったり、期待に最大限に応えようとするだろう。
別に「あなたに〜〜を期待してるよ」と言われなくてもだ。
そんなもんだと思う。
’’身体さん’’ も一緒だと思うんだよなあ。
身体さんにとって誰より大切な ’’その肉体の持ち主’’ から絶大なる信頼を寄せられたら、間違いなく大喜びで力を発揮すると思う。
元来備わっている免疫力、抵抗力、回復力をフルに働かせて。
ところがだ。
そんな身体さんを信頼せず、念のためにコレをしておこう、アレを服(の)んでおこう、やれ消毒だ殺菌だ...。
そんなことを繰り返していたら身体さんはどう思うだろうか。
「そんなに信頼できないんならもう勝手にすれば?」
... そう思われてしまった先に待っているものは ...。
取り返しのつかなくなる前にちゃんと思い出そう!
本来の能力を、本来の素晴らしい在り方を!
le 8 Janvier 2021
お花屋さんでお花を選んでいる時、誰かにお花をプレゼントする時、または自分がいただく時。
知らないうちに心の扉がふわっと開いていることに気づく。
お花のもたらす ’’不思議な何か’’ なんだろう。
これは私が感じるだけなのかもしれないけれど、よく行く何軒かのお花屋さんは皆さんどこか共通の雰囲気がある。
何かひとつお花について訊ねると、そこから延々とそのお花について熱く語って下さるご主人。
奥さんの方は逆にものすごく無口だったりするけれど、さりげなく温かな気遣いをして下さる、そんなご夫婦。
奥さんが気のいい受け応えに長けているお店では、寡黙なご主人がお店の奥で花々を切りそろえたり細かい仕事をしておられる。
他にもそれぞれに味のあるご夫婦が営んでおられるお店が多く、皆さん性格は違うんだけれど、気持ちのいい方々が多い。
思うのだが、一日中 ’’健やかな生命体’’ に囲まれてお仕事をしておられるからではないかなぁ。
間口の狭い決して素敵な設(しつら)えとは言えないお店でも、一歩その空間に入ると何故か清々しい空気に全身が包まれる。
お花の持つ不思議な何か。目には見えない素敵なもののひとつ。
le 10 Janvier 2021
生き物が、窮地を回避してちゃんと生き延びていけるように、「不安」や「危機感」というものは作動するんだと思うんだ。
どんな時でも一切の危機意識もなく能天気にボケ〜っとしていたら、いの一番に敵に食われてしまう。
危険を察知し身を守る能力、それを上手に使えばいいだけの事。
気をつけたいのは、 ’’不安に飲み込まれてしまわないように’’ ってことだな。
四六時中「何かが自分の身に起きるかもしれない... 怖い怖い...」と怯えていると、本来元気な部分までおかしくなっちゃう。
ここ! という時に危機回避できるためには、健全な精神状態でいることじゃないかな。
それは多分、’’楽しいことや嬉しいことから得られる『幸福感』をたくさん持てている状態’’。
そういう自分でいられるように過ごすことじゃないかな。
難しいことじゃない。
必要以上に不安材料を取り込まないこと。
そんなヒマがあったら、楽しくなることに時間を使うこと。
気の合う人と連絡を取り合うこと。
逆に、気の合わない人とはうまく距離をとること。
至ってシンプルで、誰にでも出来ることばかりさ!
le 12 Janvier 2021
たとえ行動に規制をかけられても、心まで縛られるな!
そこんとこ、ゼッタイ混同しちゃぁダメだぜ!
心は、精神は、いつだって、何がどうなろうとも自由なんだ。
何にも、誰にも、決して抑えつけられるもんじゃないのさ。
いいか、冷静に考えろ。
魂の躍動を抑える必要なんてない。
そもそも、心の底から湧きあがってくるものを、自分自身でさえ止めようがないじゃないか。
いいんだ、それで!
それでいいんだよ!
それでこそ「生きてる」ってことなんだから。
この世の何がどうなろうとも、心に規制はかけられない。
みんな、いいか!
そこんとこ、しっかり頼むぜ!
うっかり骨抜きにされるんじゃねぇぞ!
l e 14 Janvier 2021
この世に生まれてきた時にまず一番最初の扉が開いたとすると、その後、いったいどれだけの扉を開けてきただろうか。
もがきながら扉を探したこともあったし、ふと気がついたら、まさに開けたくなる扉が目の前にあったりしたこともある。
どの扉も、私の目に光り輝いて見えたものばかりだ。
片手ですっと押すと簡単に開く扉もあったし、全体重をかけてグッと押さなければ開かない扉もあった。
どれも自分の意思で開いてきた扉だけれど、同時に言えることは、直接的、間接的に、御縁なしには開けてこれなかったのも事実だ。
どれだけ尊く、有り難く、かけがえのない事なのかを思う。
そんな今も、まだまだ気づかぬところに沢山の扉のある気配を感じ、居ても立ってもいられなくなる。
次なる光り輝く扉の向こうには、さて、どんなワクワクする世界が待っているんだろう。
そう思える今日に乾杯!
生かされていることに感謝!
le 16 Janvier 2021
’’私の劇場’’ と密かに呼んでいる私の大好きな劇場。
その正面玄関は、美しい彫刻によって施された乙女たちの、静かな微笑みで飾られている。
なびく髪が柔らかい曲線で表され、肌理(きめ)の細かい頬の艶、凛とした鼻筋、上品な唇や俯(うつむ)きかげんの瞼の様子から、この、まだ若き女性の人となりがほんの少し窺える。
周りには、葉のグリーンや、花びらの鮮やかな色が浮かび上がってきそうな様子で植物があしらわれ、その生命力がこの乙女の存在を賛美しているかのようだ。
硬く冷たい素材で、これほどまでに質感の異なるものを見事に表す創造力。
人間はなんて素敵な能力を持っているのだろう。
私たちには生物としてもともと備わった能力の他に、個々が、生まれる時にもらってきたそれぞれに異なる才能を持っている。
過去生で磨いた能力を再び今回の人生に持ってきている、という話もよく聞くが、あながち絵空事ではないように思う。
ひとりひとり、授かった素敵な能力に気づき、磨き生かしていくことで、自分自身はもちろん周りにも幸せが広がっていく。
つまり「それぞれが得意なことをやり、お互いに提供しあう」。
なんとシンプルで素晴らしい図式!
この豊かな在り方を、魂の記憶の底から思い出す時がきている。
le 18 Janvier 2021
時間の質も、流れ方も、日常とはまったく異なるところ。
劇場とは、そういう「異次元」であり「異空間」だ。
人生を生きるなかで、という大袈裟な物言いをしなくても、日々を過ごすなかで私たちは、自分の意識如何によっては、時空を越えて様々な次元に行くことが本当は出来るんじゃないだろうか。
また突拍子もないことを、と思われてしまうかもしれないけど。
でも、そうだろう?
私たちは誰でも、ホント笑っちゃうぐらい、自分が見たいと思うものしか見えていない。
自分や他人を客観的に観察してみると本当によくわかる。
だとしたら、それをもうちょっと発展させて、「行きたいと思う世界(次元)へ行く」ということも可能なんじゃなかろうか。
いやなにも、この物質世界で実際に肉体を移動させるという話ではなくてさ。
もっともっと頭を柔らかく、常識という括(くく)りを解き、枠を取っ払い、桁違いに発想を広げていこう、というお誘いだよ。
そう、ワクワクした気分で劇場へ足を運ぶようにさ。
le 20 Janvier 2021
塵や埃を吹き飛ばし、本来の姿を露わにしてくれる風。
汚れを洗い流す浄化の雨。
明暗をくっきり際立たせる太陽の光。
そんな素晴らしい力を持つ自然界と比べて、我々人間界はどうだろう。
長年の間に脳にこびりつきカチカチに固まった思い込み。
無意識のうちに肉体と同化してしまった色眼鏡やヘッドギア。
テレビやマスコミの発信を鵜呑みにしては自ら枷をはめていく。
「自分は何も知らない」「何もわからない」「何も出来ない」、真綿で首を絞められるように、知らず知らずのうちに....。
そんな催眠術にかけられた世界にいては、「国の ’’エライひと’’ の言うことに黙って従うのが無難な道だ」なんていう寝惚けた発想から逃れられる日は来ない、永遠にだ!
まずは目を開けて、己の両目で相手の顔を、相手の目の奥をしっかり覗き込んでみろよ。
相手の肩書きや役職なんて一切ナシにしてだ、もちろん!
信用できる相手かどうか、イッパツでわかるじゃないか。
自分自身の感覚で判断することなしに、いったいどうやって生きていこうとしてるんだ?!
思い出そう、我々のもともと持っている限りない能力を!
le 23 Janvier 2021
自分以外の何者かになろうとなんて思わなくていい。
愛されるために何か特別なことをしなければと思わなくていい。
あれこれと頭でだけ考えて言動に移したことは、そう目論(もくろ)んだようには相手には届かない。
結局、心に届くものは、心から発したものだけだ。
それぞれの「本質」のまま素直に、何の駆け引きもなく ’’ただ在りさえすれば’’ 、一緒に心地よい響きを奏でることは可能だ。
そこに「尊敬」と「尊重」、つまり『愛』さえあれば・・・。
見よ、この可憐に咲く白いアリッサムたちを。
ただ静かに佇(たたず)んでいるだけでその場の華やぎが増し、一見すると他を引き立てているようでいて、いつの間にか一緒に、存分に輝いている。
それぞれが違っていて、すべて魅力あふれる存在だ。
違うからこそ素晴らしい。
この在り方は、皆で幸せを分かち合える、皆で幸せになれる、実はとっても素敵なものなんじゃないかと思う。
le 26 Janvier 2021
閉鎖や中止が続いても、自分の心は閉じないでいよう。
むしろ、こんな時にこそ自分を思いっきり解放してみると、思いもよらない素敵な世界への道が目の前に現れるから。
地球が今こんな展開になったからこそ、これまでの人生では縁遠かったものとのビックリするような出会いがあるから。
頭で考えることなんて、しょせん過去の経験や月並みな知識からのものでしかないけれど、頭をストップさせて宇宙に丸投げしてみると、とんでもないところからものすごいものがやってくる。
太陽を浴びながら、風を全身で味わいながら、空を見上げて呑気に散歩するだけでいいんだよ。
鼻歌のひとつでも出てくるようなら尚いいね!
つい忘れがちなことだけど、私たちは基本的に有りのままで完璧な存在なわけでさ、色んなもので自分を武装しなければ、と躍起になる必要なんてないのさ。
無力で非力な存在なんかじゃないんだから、必死に守りに入る必要もないし、ビクビク怯(おび)える必要もない。
こっそりいいこと教えてあげようか。
すべての瞬間、『魂の望み』最優先で生きていたら、知らないうちにハッピーでラッキーな世界にワープしてるから。
これ、ほんとのことだから。
le 28 Janvier 2021
世の中には、白黒はっきりつけられないものは多い。
むしろ、つけない方がよいことも多い。
白と黒の間の、無限のグラデーション部分。
そのすべてに真実はあるし、上下も善悪も優劣もない。
かといって。
影が強いほど、光の部分はくっきりと鮮明に浮かび上がってくるものだ。
そのコントラストの中で見えてくるものがある。
時代ごとに変化する価値観。
パワーバランスが動く中でも、いつも自分軸さえしっかりあれば、決して振り回されることはない。
但し。
それは頑として動かない、ということとは違う。
常に柔軟であれば、自在に変容してゆけ、結果としてやはり自分軸がしっかり保てる状態でいられる。
外側のあれやこれやにピントを合わそうとすると、結果としてブレブレになるのは冷静に考えればわかること。
今までの時代で善しとされてきたことでも、これからは手放していく方がいいと皆んなで気づく時がきたようだ。
le 30 Janvier 2021
自分の身体を色々な場所に運んでくれる「靴」。
だからぞんざいに扱わない方がいいんだよ、って聞いたことがある。
確かにそうだよな。
そう考えると、「私」を健康に保ってくれている私の身体さんだって、絶対にぞんざいに扱っちゃダメだ。
すべての細胞、すべての内臓 ... 身体中のあらゆる機能が片時も休まずに働いてくれているからこそ、今日も健康でいられる。
健康で元気だと、やりたいこともできる。
だから、やっぱり得体の知れないものを身体に入れたくはない。
100%は難しくても、できる限り添加物や化学調味料なんか入っていない自然な食材を身体さんにはあげたい。
ましてや、成分のよくわからない、副作用の危険が伴うものを、「右へ倣(なら)へ」で接種するなんてもってのほかだ。
自分の身体に入れるものは自分でしっかり見極めたい。
そもそも私たちの肉体は、未来の不確定なことのために予め ’’なにか’’ を体内に入れておかなければいけないような、そんなヤワなものじゃないんだから。
元来備わっている「免疫力」に「自己治癒力」、これらの凄い力を、フルに発揮することにこそ焦点を合わせて生きていこうよ!
le 1 Février 2021
立春、立夏、立秋、立冬。
それぞれの四季の始め、「四立(しりゅう)」。
この中でも、春を一年の始まりとする考え方によって、「立春」の前日「節分」は、大晦日にあたる日として厄払いの豆まきなどが行われるようになったのだそうだ。
実際にはまだまだ気温は低く、冬の真っ只中というこの時期。
それでも確実に日は長くなりつつあり、季節に敏感な植物たちは、背伸びして春に手を伸ばすかのように柔らかい新芽を土から覗かせたり、咲き誇る日を待ちわびて小さな蕾を枝いっぱいにつけたりして春がそう遠くないことを知らせてくれる。
世の中がどんなことになっていても、季節は平然と巡る。
その様子はまるで、動転し、恐れ、むやみに怯える人間たちを「大したことじゃないよ」「まぁ、そんなこともあるさ」と諭してくれているようにも感じる。
自然界のサイクルからすると、人間界はまるで箱庭の小さな世界で流れる時間の中、目の前のことに慌てふためく人間たちの言動は檻の中の回し車のハムスターのごときものなのかもしれない。
大自然のスケールで物事をとらえられればどうだろう。
大空に舞う鳶の視点を持てば、全てがきっと違って見えてくる。
le 3 Février 2021
誰より頑張っているあなたのことを、もしかして一番わかっていないのはあなたかもしれない。
もう十分過ぎるほど頑張っているのに、いつも自分を責め、卑下し、自分に厳しい評価を下しているのを、頑張っているあなた自身がとても哀しく思っているのではないかな。
どれだけ多くの周りの人から褒められても、あなた自身があなたの頑張りを認め、評価し、褒めてあげないうちは、いつまでも欠乏感や焦燥感があなたを追い詰める。
反対に、仮にたとえ周りの誰に評価されなかったとしても、あなたがあなた自身に「本当によく頑張ったね。偉かったね。」と心から労(ねぎら)いの気持ちを向けてあげれば、あなたの目に映る風景は驚くほど変わってくるだろう。
実際、人の目ほど気にしなくていいものはないし、人からの評価ほど塵のように消えてなくなるものもないのだよ。
だから、自分をもっとしっかり評価してあげよう。
そのためにも、自分に向き合う時間をたっぷり持とう。
自分を大切に扱い、思いっきり自分を愛そう。
あなたは、宇宙が作ったたったひとりの素晴らしいあなたなのだから。
le 5 Février 2021
数百年を振り返る時、人は無意識に年表のようなものを頭に描き、あたかも、過去というものは現在につながる一本道であるかのように想像してしまうのではないだろうか。
学校で習う歴史の教科書にしても、音楽室に貼られている作曲家の肖像画を使った年表にしても、それがすべて、もしくは本流だと錯覚を起こしてしまいかねないほど、後の時代の人間によって妙にスッキリと整理されてしまっている。
流れてきた膨大な時間の中で、いつの世も、当たり前だが複数の出来事が同時に起きているわけで、まったく別の側面から見た実態は、もしかしたらまったく異なるかもしれないのだ。
我々が知り得る遠い過去のことなど、氷山の一角でしかない。
激動の時代なら尚さら、様々な人間の思惑によって『真実』に近いものほど故意に抹消されてもきただろう。
時の権力者によって都合よく書き換えられたものを『真実』だと認識させられていることは多い、と考える方が自然だ。
そしてそれは、実は「過去」だけの話ではない。
幾世紀にも渡って多くの出来事や思いが濁流のようにうねる、その流れの中の「今」という大きな転換期に生きている私たち。
この真只中にも、見えていること、見させられていること以外に数多くの『真実』がどこかに存在することを意識していよう。
le 7 Février 2021
とかくヒエラルキー構造で考えたがる人間が勝手にそう呼んでいるだけで、当の本人は別に「百獣」の中の「王」の地位に君臨しているなどとは思ってみたこともないだろう。
一生涯のうちでクジラと遭遇することもなさそうだし、自分が全動物の中でどういう位置にいるのか考えたことすらないだろうし、当然ながら食物連鎖のことも知らないだろう。
淡々と「ライオン」という動物の持つ本能のままに正直に生きているにすぎない。
与えらえた命を、ただそのままに、潔(いさぎよ)く。
本来全ての生きとし生けるものは、支配したりされたりなどせず、それぞれの豊かな領域を自覚することで幸せに共存していけるはずだ、自然はもちろん、我々ニンゲンも含めて。
le 9 Février 2021
ホントだったらこういう落書きはパリ市の側からすると困ることなんだろうけど、ふと小径を曲がったとたん、こんなものが目に入ってきたら思わず顔がほころんじゃうよね。
どこの誰だか知らないけれど、ユニークなプレゼントをありがとう、って気持ちになる。
色んな規則や規制はあっても、自分が直接迷惑を被らない事にはいちいち目くじらを立てなくてもいいんじゃないかな。
色んな人がいるんだし、育ってきた時代や環境によって人それぞれ価値観も信条も違って当たり前なんだしさ。
誰もが一人残らず歳をとっていく中で、幾つになっても風のようにしなやかな感性で人に接していければ一番いいよね。
le 11 Février 2021
気持ちを曇らせる報道が日常のすぐ傍に潜んではいても、同じ日常の中に素敵な喜びごとだってたくさん溢れている。
どっちで自分を満たすかは全て自分次第。
自由に選べばいいだけのこと。
そのことを、我々はけっこう忘れていたりするもんだ。
見上げれば、ほら、空は明るく晴れ渡り、宇宙はいつもとてつもない懐の深さで見守ってくれていて、なんの心配もいらないことを思い出させてくれるじゃないか。
さぁ今日も、太陽の下、気の向くままに散歩に出かけよう!
日頃お世話になってる身体を、そして心を、伸び伸び解放してあげよう!
le 13 Février 2021
生かされていること、すべては与えられていること、守られていること、愛されていること... ふいに感謝の気持ちが湧き上がってくる瞬間。
それを両手でしっかり掴み、自分の内側を隅々まで満たす時、思わずこぼれ出る言葉にもう一度自分が包まれる。
そんな波動で過ごしていると、思わぬ時、思わぬところから素敵な御縁が降ってくる。
アレをこうしてコレをああして... まだまだ頑張らなきゃと思わなくても、ただただ ’’感謝いっぱいに機嫌良く笑顔で過ごす’’ ことがどれほどの有り難い御縁へと導かれることか。
この、最強の宇宙の法則。
誰もが知り、それに乗っていくことで皆んなで Happy になっていけるなんて、こんな凄いことはない!
le 15 Février 2021
自分のところに「情報」や「アドバイス」が降ってきた時。
普段から無意識のうちにかけてしまっている「色眼鏡」を外して頭をリセットし、心を真っさらな状態にしてそれに向き合わないと、本質をしっかり受け取ることはできない。
先入観と浅知恵だけでさも分かったつもりになっていることはとても多く、そんな状態のままでは、目の前のせっかくの重要な情報が正しく上書きされることはない。
誰にでも陥りやすいことで、この罠は、日常的にいくらでも自分のすぐ傍にあることを忘れないようにしていたい。
一見同じような扉でも、その先が「生」と「死」を分けるほど真逆に向かっている事が、この社会には少なくないのだ。
(*写真は本文とは関係ありません)
le 17 Février 2021
メトロ(地下鉄)の駅から地上へ出てすぐ。
パリ市内にはこういう立地にカフェのあることが多い。
待ち合わせにも分かりやすかったり、仕事に向かう前にカウンターでさっとエスプレッソを煽るにも便利だったり。
帰宅途中に気の合う同僚と食前酒を一杯ひっかけて、というサラリーマンなどもいる。
お昼どきは日替わりメニュー目当ての常連さんで大賑わい。
ゆったりお茶の時間を味わう、といったロンドンやウィーンのカフェのあり方とはちょっと異なる。
フランスでのそういう空間は専ら「サロン・ドゥ・テ」と呼ばれるお店で、いわゆるカフェとは微妙に空気感も違う。
街のそこここにありパリっ子に不可欠なカフェという存在。
そこが賑わっていた日常を恋しく思う... 。
le 19 Février 2021
好きなこと、得意なこと、時の経つのを忘れてやっていること。
与えられた人生という時間をそういうもので満たしていこう。
意図しなくとも、自分の内側の「泉」から豊かなエネルギーがこんこんと湧いてくる。
眠っていた新たな可能性が目覚め一層積極的に楽しんでいける。
すると更にエネルギーは増え続け、素敵な閃(ひらめ)きまでもがどんどん降ってくる。
アレをしてはいけない、コウでなくてはならない... そういう見えない檻の中、横並びの、型にはめられる時代はもう過ぎ去った。
自分を卑下し、他人の顔色を伺い、皆と歩調を合わせましょう.... 美徳であるかのように錯覚させられた躾ももう過去の遺物だ。
個々が、最高に生き生きとした状態で心躍らせながら過ごしていれば、そこいら中、笑顔で一杯にならない方がおかしい。
「まぁ、あなたはそんな素敵なことを思いついたのね!」
「なんだか閃いて、私はこんなものを作ってみたよ!」
「じゃぁさ、こんなことを一緒にやってみれそうだよね!」
そういう世界への扉はもうとっくに開いている。
同志たちよ、そっちに移行しない手はないと思わないか?
le 21 Février 2021
春の気配をいち早く察知し、まだ肌寒いうちから梅の花と競うように開花する『木瓜 ボケ』の花。
やはり梅同様、葉の芽吹きよりも先に花を咲かせる。
昨秋、思い切ってバッサリ短めに剪定したのが功を発したのか、枝という枝に咲く気満々の蕾が鈴なりに膨らんでいて、庭を朱色に染め上げんとする生命力に圧倒されそうだ。
織田信長は七つもの家紋を持っていたことで知られるが、中でも最も有名なのが『織田木瓜(おだもっこう)』といわれるもの。
誰もが知る信長の肖像画では『五三桐紋』が描かれているが、それ以前は『揚羽蝶』を使用していたようで、『木瓜紋』は更にその前にあたる時期に使っていたようだ、と分析されている。
さてその『木瓜紋』。
図柄は「瓜の断面」や「花の形」など諸説あり、明確には分かっていないが、木瓜紋といっても様々ある中、信長の紋は花弁が五枚の、まさに木瓜の花を模したものではないだろうか。
木瓜の花言葉の中の「先駆者」「指導者」は、’’花から取った図柄’’ という説をとって織田信長をイメージさせる後付けであろうが、中国大陸から日本へ、古く平安時代以前に渡来した植物であることからみても、信長の生まれるずっと前から日本に生息していた、日本との縁深い花のひとつであることは確かだ。
le 23 Février 2021
「食事」がもし、肉体的に生きながらえることだけを目的とする行為なのなら、これだけ科学が進歩した今、サプリメントなどで必要な栄養素を摂取するだけで済ますことは十分可能だろう。
でも「食事」は、味覚はもちろん、視覚や嗅覚から得られる満足、つまりそれは ’’豊かさ’’ と言ってもいいと思うんだけど、やっぱり人間として生まれてきた以上、楽しむことを含めて「食事」にきちんと向き合うことはとても大切なことだ。
たとえそれが、ご飯とお味噌汁だけであっても。
「食べる」という行為もそうだけれど、「料理する」ことだって実にたくさんの感覚を使う行為で、下ごしらえしたりあれこれ工夫したりすることは、創造力を使う刺激的な時間でもある。
そしてまた「食事」は、独りでゆっくり味わうのもいいもんだし、大切な誰か(それはパートナーだったり家族だったり、もちろん友人だったり)と過ごすかけがえのない素敵な時間だ。
一緒にどんなものを食べるかによって話題も違ってくるし、美味しいものを共有することで会話が思いがけない嬉しい展開となってゆく、つまり ’’魔法’’ のようなものでもあると思う。
そもそも、食べ物が体内で吸収され、肉体を健康に保つことや成長の為の栄養になってくれたり、生きるエネルギーになってくれること自体、考えてみればすごい ’’魔法’’ なんじゃないだろうか。
私たちはいつも、ミラクルに囲まれて生きているんだ。
le 25 Février 2021
行きつ戻りつ。
晴れて気温も上がり汗ばむほどの日があるかと思えば、急に態度をひるがえしたかのように肌をさす冷たい風の吹く日もある。
毎年のこととはいえ、今の時期は日々のお天気に翻弄される。
けれど、近視眼的な視点でそう感じても、俯瞰(ふかん)してみるとやっぱり確実に季節は移り変わっていることがわかる。
何事に対してもついそうなってしまいがちなのだが、『俯瞰』することの大切さを常に忘れずにいたいと思う。
例えば、ある事柄に関する報道に何日も何週間も毎日接し続けていると、知らず知らずのうちにとんでもなく近視眼的にそれを捉えてしまっていることは誰にでも起こりうることだ。
実は TV やマスコミというものは、受け取る側をあえて単眼的にすべく巧妙に報道しているということは意外と知られていない。
中でも不安なニュース、深刻なニュースは、頭で考えている以上に我々の無意識下に暗く重いものを溜め込んでいくことになる。
どうも仏人に比べて日本人は従順な国民だから、何の疑問も持たずに鵜呑みにし、信じ込んでしまうことも多いのではないか。
まずは、しっかり ’’自分の感覚’’ のフィルターを通してみよう。
いつも思い出そう、『俯瞰』の視点があることを。
Le 27 Février 2021
モクレンの蕾のふくらむ公園で、柔らかい春先の陽を浴びながらのデートの時間。
数週間ぶりにやっと会えたね。
どうしてた? 元気にしてたかい?
こうやって一緒に過ごせる時間はなんて幸せなんだろう。
キミと会えない時間はとても長く感じて辛かったよ。
そんな愛いっぱいの言葉を雄からかけられてるのかな。
はみかむ雌がまるで頬をポッと染めているかのように見える。
いや、そもそも番(つがい)なんかじゃなくて、兄弟かもしれず親子かもしれず、単なる ’’ダチ同士’’ かもしれないけど、ここはこの際そういう設定でいっていただくとしよう。
というわけで、誰もが「春」に向かって前のめりになる季節。
木々や草花、鳥たち、虫たち、全ての生きとし生けるものの生命エネルギーが一気に勢いづく季節の到来だ。
私たちも生きる歓びにピントを合わせていこう!
この騒ぎのハリボテの裏っ側が笑っちゃうほど丸見えになってきた今、無闇に怖がったり怯えたり... は、そろそろ止めていい。
自然界に問いかければ色んなヒントを教えてくれる。
そして何といっても、「自分自身の感覚を信じる」。
これほど最強の方法はないんだからさ!
le 1 Mars 2021
熱いブラックコーヒーに注ぐミルクがゆっくりと紋様を描いていくように、ふたつのものが融合していくさまは、柔らかい空気感のなかに期待という味が広がる。
例えば、冬の名残りの冷たい風と、春の陽射しが出会うところ。
山頂からの雪解け水が川の水嵩を増す頃、温められた土の養分を吸って、春の太陽に向かう見事な逆算をしながら蕾が日々ふくらみを増す。
暮らしの周りの自然界が様々な気配で教えてくれる、春の足音が込められた嬉しい便り。
家に閉じこもっているのは勿体ない。
せっかく外に出ても、イヤホンで耳を塞ぎ、スマホの画面で目を拘束していては勿体ない。
もうひとつ言えば・・・ 室内でもなく、人混みでもなく、人と顔突き合わせて会話しているわけでもないのに、鼻も口も布で覆い、新鮮な空気をたっぷり吸わないのは勿体ない。
味わおう、色々なことを。
すべての恵み、嬉しい便りを全身で受け取って。
五感を十分に潤わせて生きていこう。
そうすることで、私たちの内面の豊かさは増してゆくのだから。
それが「心身ともに健やかに生きる」ということなのだから。
le 3 Mars 2021
天と地との即興的コラボレーション
無言の佇まいの それでいて雄弁な姿
浮かびあがらせる刹那に
優しさ 心馳せ 包容や恕(ゆる)しを乗せ
なにがあっても本来の自分であることの美しさ 気高さの
あるひとつの例を示してくれているかのごとく
ただただ 凛としてそこに在らしめる...
その揺るぎなき神々しさに 思わず手をあわせたくなる
そんな雨上がりの遅い午後
風 ふたたび冷たき
le 5 Mars 2021
暦の上でも、そして気持ちの上でもとうに春は来ているのだけれど、雲が厚い日は太陽も遠く、クリーニングに出しかけた冬用のコートが再び出番となる日もまだ多い。
浮き足立った自分に軽くブレーキかけながら、挫かれた出鼻をかるく撫で、歩調を落としてみるのもこの時期ならではのこと。
その分、本当に春がやってきた時の飛び上がるような喜びを知っているから、いわば毎年の出来レースみたいなものだ。
温度計の上では同じ数字だったとしても、これから暖かくなっていく時期と、寒くなっていく時期での体感はずいぶん違うことを思えば、人の感覚なんてかなりの幅があるもの。
辛いことや苦しいことにだって言えることで、自分がそれにどうフォーカスするかで、感じ方、見え方は驚くほど変わってくる。
だとしたら、自分が呼吸しやすいように、自分の心が捻くれないように受け取る、ってのはどうだろうか。
そうすることで別に人様に迷惑をかけないのなら、まったく問題ないんじゃないかな。
暦の上では春なのだからと気温は低くても震えながら春用のコートを着るのか、まだまだ寒いんだから冬用のコートを着るのか。
そんな選択に置き換えてみるとなんとなく分かる気がする。
le 7 Mars 2021
どれだけ親密な間柄の人の身に起きたことだとしても、その人の経験したこと全てを丸ごと理解し尽くすことはできない。
どれだけ強く望んでも、その人の感情を寸分違わず体感することもできない。
追体験も疑似体験も、所詮その域を出るものではなく、ひとりひとりの経験はどこまでいってもその人だけのものなのだ。
人間の非力さ、無力さ。
それらをさんざん思い知らされ、とことん打ちのめされる時、先ず自分自身が立ち上がろうとするところからしか始められない。
その先にいったい何ができるのだろう・・・
人間に無限の力が宿っているのだとしたら、その中から、その時に取り出せる、自分の思う最上で最高なものをみつけたい。
様々なことに心を馳せることを忘れないでいたい。
どう頑張っても同化しえず、永遠に触ることができぬ事でも、宇宙の隅からたとえ少しずつでも何かが変わっていくだろうから。
そういう ’’見えないもの’’ にこそ、科学や理屈では説明のつかない不思議なパワーがあるに違いないから。
なによりも、そうであることを信じたいから・・・
le 11 Mars 2021
誰の上にも時間は等しく流れる・・・ のだろうか。
確かに、コチコチと「時計」は同じ速さで時を刻み、その速度は地球上どこでも全く同じだ。
けれどそれは観念的なことに過ぎず、ひとりひとりの上に流れている時間は時に速く、時にゆっくり、そして時には文字どおり ’’時が止まった’’ かのように、様々な速度があるものなのかもしれない。
そう捉える方が納得できるような経験を、実は誰でもしているんじゃないだろうか。
そういえば、’’時間は伸び縮みするもの’’ と聞いたことがある。
とすると、むしろ時の流れ方というものは、本当はものすごく色々あるものなんだ、と分かっていた方がいいのかもしれない。
もしくは、時計の上でコチコチと進む時間と、自分の身の上や心の中に流れる時間とは ’’まったく別物’’ だと。
流れ方だけでなく、濃さも、軽さ(もしくは重さ)も、いろんなことが全部違う。
実は、生まれてからずっと、複数の「時間」の流れの中を、我々は生きているのかもしれない。
ほら... 今のこの瞬間も・・・
le 14 Mars 2021
本来『夢』というものは夢物語で終わってしまうものではない。
’’必ず叶うもの’’ だと教わってこなかっただけで、夢の内容に制限をかけず、自分のとてつもない可能性を本気で信じ、その夢が叶うまでの過程を思い切り楽しんで行動していく — これら大事なことをしっかり踏まえていれば、『夢』はちゃんと叶う。
といったって、ただ「こうなったらいいなぁ〜」程度じゃぁ、そりゃぁ叶いっこないに決まってる。
「いつかそのうち」と思っている間は残念ながら絶対叶わない。
自分を低く見積もり、言い訳ばかり探し、’’もし叶わなかった時’’ の慰めを無意識に用意しているうちはもちろん叶わない。
家庭の中で、義務教育という集団生活の中で、挙げていけばキリがないほど様々な規則に縛られて大きくなってきた私たち。
「〜してはいけません」「〜であらねばなりません」「欲張ってはいけません」「高望みはいけません」etc...
たとえ同じことを前にしても、ほんのちょっと思考の角度を変えれば、「〜したらきっとうまくいく」「〜であれば自分も皆んなも笑顔になる」というふうな考え方ができただろうに。
長年しみついた「考えグセ」や「思いグセ」をとことん手放し、発想のパターンを根底からガラッと変えてみよう!
自分の内側から湧いてくる『夢』のカタチは、きっと、より明確に見えてくるから。
それを現実化させられる手段もはっきり浮かんでくるから。
le 17 Mars 2021
ほんの数年前までは SF の世界でだけあり得た事が、今や日常のあちこちに当然のものとしてすっかり馴染んでいることは多い。
21世紀の今、ノートほどの大きさや手帳ほどの大きさのもの様々あるけれど、総じてそういう形状の薄い電子機器ひとつに驚くほどたくさんの機能がついていて、大人も子供もほとんどの人間がそれを持ち歩いている時代だ。
とんでもない数の書籍さえも入れておけるらしいから、’’電子書籍’’ とやらを便利に活用している人もきっと多いだろう。
けれど私は、今のところはまだ紙で作られた ’’本’’ を手にとり、1ページずつめくりながら読み進めるその動作も含めて、’’読書’’ を味わうのが好きだ。
四〜五冊ほどを同時に読み進めるのが常で、コレクションしているブックカバーや栞(しおり)を、本の内容に合わせて使い分けるのも密かな楽しみのひとつなのだ。
電子機器に全部入ってしまっているとそういう楽しみ方もできなくなるのが残念だし、液晶画面を長時間眺めていたくない、ということもある。
本の厚さから現在読み進めているのがどの辺りなのかを把握できるから、読了に向けてのペースも作りやすく、「あれ? なんだっけ?」とページを戻って目的の個所を見つけるのも早い。
.... とまぁ、諸々含め、この楽しみ方は当分続きそうである。
le 19 Mars 2021
冬の間は素っ裸で寒々しく過ごしていた樹々たちも、仲春の空からの呼びかけにじっと耳を澄ましているのがわかる。
外観からは想像つかないほどの芽吹きのパワーを宿した彼らは、一番いいタイミングで一気に扉を開けるべく、ワクワクしながらその時を推し量っているのだろう。
とはいえ、極寒のさなかに美しい花を咲かせる植物もあり、それぞれにとってベストな時というものは皆違っているのだ。
植物たちは、隣の別の種が花を咲かせたからといって、じゃぁ自分も今すぐ開花しなければ、などとは思わない。
冬には冬の、夏には夏の、自分自身のサイクルをちゃんと分かっている。
私たちもそれを見習わない手はない。
ひとりひとり、持って生まれた資質も、能力も、生まれ育った環境も、なにもかも違うのだから、同じタイミングで同じことをせねば、できなければ、と考える方がそもそも不自然な話だ。
まだ誰もやってないからと、遠慮や足踏みする必要だってない。
個々の多様性そのままを、生き方に直結させる時代となった今、周りを気にする暇があればもっと自分自身を見つめていこう。
好きに生きていい。
己のタイミングは、己が一番よく知っている。
le 21 Mars 2021
今の時期、種苗屋さんの店先で風に儚(はかな)げに揺れている白く可憐な花がある。
花弁の先が尖っている『ローダンテ・アンテモイデス』という覚えにくい学名のこの花には、『ペーパーカスケード』という流通名がつけられている。
紙のようにカサカサと音を立てることからきているらしい。
確かに、花弁に触れてみると薄い紙でできているかのようだ。
とてもよく似ていてお店によっては同じ扱いで売られているのが『花かんざし』という花で、学名は同じだし、パッと見も殆ど同じなのだが、よく見ると蕾の形も花弁の形も少し違う。
丸い蕾が簪(かんざし)のように見えることから、こんな素敵な流通名がついている。
様々な特徴や花弁が紙でできているかのようなところも含め、両者はとてもよく似ているのだが、周りに放っている雰囲気のようなものが言葉にできないレヴェルでちょっとだけ違う。
静かに発している ’’氣’’ の種類... とでも言えばいいだろうか。
風に揺れる様子から「冬の妖精」という、これまた素敵な呼ばれ方をするのは、どうやら『花かんざし』の方のようだ。
相手をより深く知りたいと思うと、見えてくるもの、感じとれるものが断然増えてくるのは、お花も人間も同じなんだなぁ。
le 23 Mars 2021
「復活祭」前のこの時期、欧州ではバッハの受難曲の演奏が集中的に行われる(「行われていた」と過去形で書くべきなのだろうか...)。
プロテスタントとカトリックの国では状況が異なるが、フランスでも随分前(私が 3, 40代の頃か...)のある数年、やたら『マタイ受難曲』や『ヨハネ受難曲』の本番が続いたことがあった。
オーボエ奏者にとってはとにかくハードな曲で、しかも曲中で頻繁にオーボエ・ダモーレやオーボエ・ダカッチャという楽器にも持ち替えて演奏しなければならないので、実を言うと、この演目の時はただでさえ使う神経を更に尖らせることになる。
まだ肌寒いこの季節、それが教会での本番ともなると尚更だ。
なにせ石の床から壁からしんしんと冷える欧州の教会では、本番中、自分の傍に立てておく持ち替えの楽器をいざ吹く時、氷のように冷え切っていることがしばしばだ。
となるとピッチは下がるため微妙に吹き上げねばならず、オーボエパートはソロも多いので本当に神経をすり減らす作業となる。
またこの演目での演奏旅行となると、複数の楽器の持ち運びにも気を使うし、各楽器のリード管理も数倍大変になる。
昨年からの地球規模での大変化、その悪化が続いている為、欧州ではまだ本来の形式でコンサートが行われる状態にはない。
神経をすり減らしながら演奏旅行をしていた頃のことを、こんなふうに胸を傷めながら思い出すことになろうとは...。
様々な「復活」を祈らずにはいられない。
le 26 Mars 2021
日本語とは、深い味わいのある本当に美しい言語だ。
同じことを表現するにも幾通りもの言葉があり、それによってその状況の空気感までをも細やかに立ち上がらせる。
花が枯れる表現にも花それぞれの言葉があるとは、なんと豊かな言語なのだろう。
椿は「落ちる」
桜は「散る」
牡丹は「くずれる」
菊は「舞う」
百合は「しおれる」
朝顔は「しぼむ」
雪柳は「ふぶく」
蓮は「沈む」
梅や沈丁花、萩は「こぼれる」
紫陽花は「しがみつく」
そして・・・
花の状況に対する言葉まである。
春の季語、「落椿(おちつばき)」
いよいよ本格的な春がやってきた。
le 29 Mars 2021
太陽は人間生命の根源だ。
惜しみなく光と熱をふりそそぐこの神聖な核。
われわれは猛烈な祭りによって太陽と交歓し、その燃えるエネルギーにこたえる。
〔岡本太郎 1911-1996〕
1929年に18歳でパリに渡った岡本太郎が、後に世界中に名を轟かせることになる錚々たる芸術家(の卵)たち、文化人たちとの刺激ある時間の中で培ったものは、我々の想像をはるかに越えるとんでもないレヴェルのものだったに違いない。
東京都港区に彼が42年間にわたって生活し作品を創り続けた場所があり、今では岡本太郎記念館として貴重な美術館となっている。
館内の一角、天井の高い広々としたアトリエに、大量のキャンバスや様々な道具類が当時のまま残されている。
本人はお手洗いに立ったか何かでまたすぐここに戻ってくるのだろう、と思わせるほど、制作への情熱や執念、桁違いの発想のエネルギーが驚くほど生々しく立ち籠めており、気づくと私はその空間の前で涙をボロボロ流しながら立ち尽くしていた。
この『太陽の塔』にも、いつ見ても、常に時代の最先端をゆく ’’無限の生命力の塊’’ のようなものを感じる。
絶えることのないエネルギーの循環、その大いなるパワーを。
le 1 Avril 2021
花々の豊かな彩りが加わり始めるといよいよ春本番だ。
すべての生きとし生けるものの、生命力のギアがあがる。
欧州では長い夏休み明けの九月が新年度だが、日本は本格的な春の訪れとともに新年度を迎える。
留学希望者や帰国子女にとっては、この半年のズレは色々支障があったりもするので思うところはあるけれど。
ま、それはともかく。
春は、そこここに生命の息吹が満ち溢れる季節。
木々は新芽を出し、冬眠していた動物たちも目を覚ます。
我々人間もそのエネルギーに乗っかってみよう。
「いつかチャンスがあればやってみたい」と思っていたこと。
その「いつか」は、自分から一歩を踏み出さない限り永遠にその時はこない、ということももういい加減に認めよう。
どこかから何かが運ばれてくるのではない。
親切な誰かが何かを仕掛けてくれるのでもない。
待っていても何も始まらない。
「今日が一番若い日」〔永六輔〕
気負わず、楽しみながら挑戦していけばいいだけのことさ!
le 4 Avril 2021
私たちはそれぞれ、今回の人生でやりたいことの為に必要な「ツール」を携(たずさえ)て生まれてくるのだそうだ。
その ’’やりたいこと’’ の叶えられる環境をも自ら選んで。
「何故だかわからないけれど、ものすごくコレが好き」
「たいして努力もしてないのに、この事が何故か得意」
それは、そういうことなんだという。
とある大学で大勢の生徒を前にこんな授業が行われた。
教授は壺を取り出して教壇に置き、その中に大きな石をひとつひとつ、壺がいっぱいになるまで詰めていく。
そして聞く、「この壺は満杯か?」。
生徒が答える、「はい、満杯です」。
「本当にそうかね?」と教授はバケツいっぱいの小石を取り出し、壺に流し込む。
「さぁ、この壺は今度こそ満杯か?」
ひとりの生徒が答える、「... いえ、多分違うと思います」。
教授は今度は砂を取り出し壺に流し入れて言う、「私が何を言いたいかわかるかね?」。
「どんなに忙しくとも努力をすれば予定は詰めこめる」。
「いや、重要なポイントはそこではない」。
「最初に大きな石を壺に入れなければ、それが入る余地はその後二度とない」。
新環境でスタートをきった若人たちに、この言葉を贈りたい。
le 7 Avril 2021
花々と生活していると、無言の彼らから沢山のことを学ばせてもらう。
否、「無言」とは書いたが、それは違う。
人間の言語を話さないだけで、彼らが無言とはいえない。
それどころか、実は、彼らはとても饒舌だ。
犬や猫のように分かりやすい意思表示をしてくれるわけではないが、確実にはっきりと意思表示をしてくる。
しかも、植物それぞれに異なることが少しずつ分かってくる。
花の種類によって個性が違うのはちょっと考えれば分かることだけれど、同じ花の球根でさえひとつひとつ個体差がはっきりとあり、成長の速度も違えば、1本1本の性格まで違うんだなぁ、ということが毎日見ていると分かってくる。
同じ年に入学した子供たちでも、ひとりひとり学びとる内容も成長の度合いも異なるのとそっくりだ。
植物も、一晩のうちに驚くほどの成長を遂げていたり、ずっとしょんぼりしていたのにある日を境にめきめきと成長し始めたり。
そんな姿に遭遇しては、『いきもの』の持つ神秘性にただただ感動する。
地球上のすべての ’’生きとし生けるもの’’ の素晴らしさに。
le 9 Avril 2021
なぜ外側にばかり答えを求めるのだろう。
なぜ外側にばかり原因を探そうとするのだろう。
なぜ外側の何かに、誰かに、幸せにしてもらいたいと思うのだろう。
そういう思考回路を知らず知らずのうちに埋め込まれてしまったから、なのかもしれないのだよ。
「それが当たり前」だと思っていることの多くは、実は知らない間に脳味噌や心の深い深いところに、さも最初からあったかのようにすまし顔で居座っている。
... ということを考えてみたことはないかい?
真夜中、寝ている間に小人さんたちがやってきて... というのはお伽話によくある光景だけれど、目が覚めている真昼間、学校で、家で、何の気なしにテレビを見ているリビングで、気づかぬうちにナニモノカに呪文をかけられていたのかもしれなくないか?
そんなことなどあり得えない、だなんて誰が言い切れる?
だからこそ。
自分の内側にしっかり向き合うことを怠らないようにしよう。
心の眼を、しっかり見開いている状態をイメージしながら!
le 13 Avril 2021
赤信号は、時がきたら青信号になる。
やがて訪れる「進め」に向けて力を溜める時間でもある。
小学校の時に誰もが経験したことのある陸上の短距離走。
身を屈めてスターティングブロックに両足をセットする時、スタートダッシュの瞬間に力を集結できるよう、更にその先のほんの数秒間に力が発揮できるようイメージする。
競技では当然ながらより速く走ることを競うわけだが、実は人生の様々な局面に於いてさえ、ほんの少し前まではそういうことに価値がおかれ、皆がそうあることを目指して生きていた。
でも、今はもう違う。
自分の持てる力を自分らしく発揮できること、そうすることで自分が豊かに輝けること、そういうことに重点が置かれる時代になってきた。
これ以外にも様々な「価値観の変化」が加速している昨今。
それらに気づけないでいると確実に息苦しくなっていくだろう。
自分の幼少期には「当たり前」だったことでも、時代の移り変わりと共にそうでなくなるのは世の常だ。
当時と今を比べて議論してみても何も始まらない。
変化の中で、人は誰もが人生という時間を紡いでゆくのだから。
水のように、風のように、しなやかでいよう。
信号が青に変わる、その瞬間をワクワク待ちながら。
le 15 Avril 2021
季節の変わり目は、花々の顔ぶれが入れ替わる時期でもある。
寒い時期に植木鉢いっぱいに咲き誇っていたヴィオラというスミレ科の花も、春の陽気が増すにつれ勢いが落ちてきた。
彼らが枯れていく時、先ず花弁が内側に丸まるように萎びてくるのだが、次に萼(がく)の下 1〜2cm あたりの一点が白くなり、そうこうするうちにそこからカクンと首を折るように曲がる。
自らの死期を悟っている花々の姿は、わたしたち人間の胸の深いところに言葉にできない問いかけのようなものを残す。
まだ花弁も生き生きと美しい状態でいきなりポトンと落ちる椿。
その様は、潔い武士の切腹のようだ。
私の好きな花のひとつアルストロメリアは、最期まで美しさを保ち、ほんの少し何かが触れた瞬間はらはらと花弁を散らす。
よく似ている百合は徐々に色あせて茶色くなってくるのだが、元来別の品種だということからも枯れ方の異なることは頷ける。
紫陽花の枯れる状態を「しがみつく」と表現することを知ったばかりの先日、山間でまさにその状態の紫陽花に出会った。
この姿から何を感じるかは人それぞれだろう。
いやそもそも、人間にどう見られようが紫陽花にとっちゃぁ知ったことではなく、自らの「生」をただ全うしているに過ぎない。
その枯れ姿も、人間が勝手にそう表現しているに過ぎない。
le 18 Avril 2021
新しい世界への入り口に、厚い扉が現れる場合もあれば、道なき道であったり、ゆるやかな登り坂が用意されている場合もある。
もしちょっとでも心のアンテナが震えたら、ずっと先まで見通せなくたって怖がらずに一歩踏み出そう。
数歩先が見えているならそれで十分なんだから。
だってそうじゃないか。
先の先まで決まってるなんて、それほどつまらないことはない。
進んでいく道すがら、どんな風景が目に入り、どんな出逢いによって何が起き、自分自身がどう変わっていくかなんて、自分でさえ想像つかないもんだろう?
決めすぎなくていい、そんな先々のことまで。
極論を言えば、人生は毎瞬毎瞬が選択の連続。
「到着地点」じゃなく、「道中」こそがメインなのだから。
ざっくり、大まかに、「いくらでも変更可能」という余裕をもたせてなんとな〜く方向を決めておく、ってぐらいで丁度いい。
多分それは、若い時だけじゃなく幾つになっても。
le 22 Avril 2021
行動に移したことが、自分の思い描いていたような展開にならなかったり、望んでいた結果を得られないことはある。
言ってみれば、よくあること。
自分にとって不本意な展開や結果だった時、自分のした行為をどう位置づけるのか。
実はここが、大きな分かれ道なんじゃないかと思う。
「あんなことをしなきゃよかった」、「やっただけ損をした」。
そう思って何かいいことはあるだろうか?
過ぎ去った時間の中の自分を否定してみても、’’今ここ’’ にいる自分は満たされはしない。
それだけでは済まず、惨めで、情けない、哀しい思いが自分を支配し、つまりは自分を傷つけてしまうだけなのだ。
その事柄で関わった人達を憎んだり恨んだりする感情まで湧いてきて、その人々をも傷つけることになってしまいかねない。
自分が何か行動した時、その選択をしたのは、他の誰でもない、自分自身なのだ。
たとえ状況がそうせざるを得なかったとしてもだ!
けれど、とった行動じたいを否定せず、その時の自分を認め、受け止められた時、展開や結果なんてどうでもよくなってくる。
そして過去のすべてに感謝の思いが湧き上がってくるだろう。
この星に「経験する為に生まれてきた」ことを思い出す瞬間だ。
le 27 Avril 2021
恵みの雨を存分に受けたあと、若々しい葉が春の太陽に見守られながら伸び伸びと呼吸している。
人のいない大自然の中に、こんな時だからこそ出かけよう。
爽やかな風の中、気管や肺を全開にして吸い込む空気は、日頃マスクを通して遠慮がちに吸い込んでいるものとはまるで別物だ。
これこそ ’’ニンゲン’’ という生き物が生きるために必要とする呼吸だと再確認するだろう。
「頭」での確認ではない。
どれだけ誤魔化したとしても、「肉体」が「身体」が、そして「感覚」こそが深いところからそう確信するだろう。
同時に「心」も解放されていくことで、普段どれだけ閉鎖的になってしまっているのかを実感するかもしれない。
植物たちが環境次第でどうとでも育つように、私たちだって生き物としてそこは同じだ。
もっと自分をとりまく環境をしっかり選んでいこう。
お仕着せの、不本意な環境や条件下で黙っておとなしく生きるなんて、自分の命に申し訳ないじゃないか。
生き物として、存分に命を輝かせられる状態に自分を置くことにもっともっと真剣になろう、どんな時でも!
le 30 Avril 2021
漢字で「天道虫」と書くこの小さな昆虫。
その名前は太陽を意味する ’’お天道さま’’ からきている。
日本のみならず、世界各国で『幸せを呼ぶ生き物』『幸運の予兆』としてそれを象徴するような名前がつけられているようだ。
英国では「Ladybird」(丁寧な表現では「Lady Bird Beatle」)、米国では「Ladybug」といい、Ladyはマリア様を意味する。
独語では「Marienkäfer 聖母マリアの甲虫」、伊語では「Gallinella del Sognore 神様の小さな雌鶏」、仏語では「la bâte à bon Dieu 神様の虫」、どれも素敵な呼び名だ。
日本でも、太陽といえば旧くから信仰の厚い太陽神・天照大御神(アマテラスオオミカミ)と直結する。
’’おてんとうさま’’ という言葉を、私の小さい頃は日常的に聞いていたものだ。
「誰が見てなくてもお天道さまが見てらっしゃるんだよ」
「お天道さまに恥じない生き方をしなさい」
おじいちゃんやおばあちゃんから言われたり、映画やドラマの中でもよく聞くセリフだった。
自分自身に正直に、胸を張って生きているか?
そういう意味なんだと今になるとわかる。
そう生きてこそ幸福を手にする、ということなのだと。
le 2 Mai 2021
月曜日から土曜日まで、時間割どおりのたくさんの教科書をランドセルに詰め込んで毎日学校へ通ったあの頃。
たった五分かそこらの休み時間を挟んで、次々といくつもの授業を受ける目まぐるしい日々。
今考えると凄いことをやってたんだなぁと思う。
教科ごと、頭の中をどうやって切り替えていたんだろう?
大人になると、誰かが決めた時間割もなければ、興味のない授業を眠気と戦いながら受けるという苦行もない(基本的には)。
そのかわり頭の中は常に色々なことでパンパンで、もし可視化できるならとんでもなく物で溢れている状態になってはいまいか。
ただでさえそんなところに容赦なく外からの情報も入ってくる。
TVから流れてくるのはたいてい不安を煽られるような内容ばかりだし、でなければ自分とは直接関係のない人たちの不祥事だったり、どうでもいい事への過剰なバッシングだったり。
そういうもので自分をいっぱいにすることが自分を豊かにすることかどうか。自分が心身ともに健康でいられる状態かどうか。
そんなものに心揺さぶられてるヒマがあれば、大自然やお天道さまと対話できる静かな環境に身を置くことを心がけよう!
始業のチャイムも終業のチャイムも、学校に行っていた頃のように自動的には鳴らないのだから。
le 4 Mai 2021
山ほどある情報の中で何を選ぶのか、誰の言葉を信用するかも含め、自分の選択は ’’自分'' でしか決められない。
あっちへこっちへと思考がふらふらするのは、その時々、聞こえてくるものに振り回されているからで、それは「迷う」ということ以前の状態だ。
TVでこう言ってた、お隣の誰々さんがこう言ってた、それで自分を十分納得させられるんならそれでいい。
でも、どこかに不安が残っているから常に心が揺れてしまうのではないのか?
自分で調べることは言うまでもなく大事なんだが、その前に、「調べる」という能力をどれだけ高められているかも大切になってくる。
身の回りに溢れているものの中から、何を、どれを、選ぶのか。
その時に頼りになるのは、究極のところ自分自身のセンサーなのだから。
周りを窺(うかが)っていてもいつまで経っても答えは出ない。
出したつもりの答えにもずっと不安がつきまとう。
『自分自身との信頼関係』をしっかり築いていこう。
’’信頼するに足りる自分’’ こそが何より最強の味方なのだ。
le 7 Mai 2021
扉は、様々なものが通過する所だ。
特に自分の生活空間への出入り口は、「邪気を払い、福を取り込む」、そういう場所にしておきたいと洋の東西を問わず誰しもがそう願う。
悪しきものを寄せ付けないためにガチガチに頑丈なバリケードを張り巡らせておけば、確かに安心安泰だろう。
けれど、得てして人生とは、思わぬ時に思わぬところから福をもたらしてくれる何かがやってくるものなのだ。
人間関係にも言えることで、警戒心という鎧を着て頭から疑ってかかっていると、せっかく何か佳きことをもたらしてくれる相手かもしれないのにそのチャンスを潰してしまうことになる。
この世知辛いご時世、詐欺も悪質ないたずらも少なくはない。
開けっぴろげの扉では確かにリスクもあるだろう。
だが、自分がどちらにフォーカスしているかによって、驚くほど起きる現象が違ってくる。
『思考が現実を創る』、これは決して空想世界の話ではない。
邪気が寄りつかず善きことがもたらされる、そういう状態の自分であるために、波動を高く、いつもしなやかでいたいと思う。
le 9 Mai 2021
自然界にも ’’ざわめき’’ があって、よく耳を澄ましてみるとたくさんのメッセージが飛び交っていることに驚く。
木々同士お互いに情報を交換しあっていることは植物学的にもよく知られていることだけれど、木々と鳥たち、木々と虫たちも日常的に会話をしていることは容易に想像がつく。
雲とだって何かを伝えあっていそうだ。
確かめようもないが、彼らの交信は、相手への余計な詮索や疑心もなければ、卑下や蔑みとも無縁なんだろう。
羨望もないから嫉妬もない。
己が何者かを知っており、不満も抱いてはいない。
お互いを丸ごと認めていること大前提での交流なのだろう。
彼らは私たちにもメッセージを送ってくれている。
当然のことながら我々の使う言語で聞こえてくるわけではないから、五感すべてを解放できている時にしかキャッチできない。
なんといっても、自分をそのまま肯定できている状態でないと、メッセージの全貌、核心は受け取れにくい。
彼らのように在れた時、自在な交信それじたいが、どれほど豊かで尊いものであるかを実感できるんだと思う。
目先の事に惑わされて無闇に不安に陥るのではなく、自分自身との対話の重要さも含め、自然界から教わることは数えきれない。
今日も、穏やかな深い呼吸を心がけよう。
le 12 Mai 2021
静かな住宅街でいきなりこんなものが目に入ってくると、いくらタコを食用とする日本人の私でもギョッとする。
最近でこそ食べる人も増えてきたフランスだが、私が渡仏した80年代は「タコを食べるのか!」と驚かれたほど、彼らにとっては何百年もの間 ’’悪魔’’ 的な存在だった生き物だ。
ところで、タコの名「Octopus オクトパス」は古代ギリシア語の「八本の足」という言葉からきている。
英語で October、仏語で Octobre、独語で Oktober、伊語で Ottobre、すべて暦(こよみ)の「十月」のこと。
ロシア語やノルウェー語、ハンガリー語でも似た言葉だ。
現代では一年を12ヶ月とするグレゴリオ暦(太陽歴)が世界中で使用されているが、それ以前は、ユリウス暦、ユダヤ暦、エジプト暦 etc. 様々な考え方による暦があったようで、国によっても違い、『暦』とひとくちに言ってもかなり複雑な歴史がある。
古代ローマ暦のうち紀元前8世紀頃に使われていたロムルス・レムス暦では一年を10ヶ月、春の訪れを一年の始めとし、現在の三月から十二月にあたる月に名前が付けられていたのだそうだ。
農耕のための暦であったため、農作業ができない月(現在の一月と二月)には呼び名がなかった、ということらしい。
そういうわけで、三月から数えて八つ目にあたる月の名をオクトーバーという。
さてこの壁画のタコの足は、ひぃ、ふぅ、みぃ... あれ? なにやら更なる深いメッセージが込められているのだろうか。
le 14 Mai 2021
たっぷりの雨を受けて、植物が生き生きと枝葉を伸ばす季節がやってきた。
何時間も雨に打たれていると、人間だったら身も心も冷え切ってしまうだろうけれど、華奢な枝に見えていても少々の強い雨風などものともせず、むしろそのシャワーを楽しんでいるかのように雨を受ける植物たち。
『恵みの雨』とは、本当によく言ったものだ。
私たち人間の身体は、成人で6割以上、子供が約7割、新生児が8割、胎児になると9割が水分なんだそう。
水が体内を巡ってくれるお蔭で体温が調整され、栄養が行き渡り、老廃物を排出してくれる。
それも、いちいちこちらが意識して命令を出さずとも、寝ている間でもそれをやってくれている。
すごいシステムだとつくづく思う。
雨後の植物がびっくりするぐらい枝を伸ばしているが、雨の恩恵を受けて私たちも生かされているんだと、この季節だからこその感謝を持ちたい。
le 17 Mai 2021
豆を厳選するのは言うまでもなく。
挽く時の、ハンドルの回し方ひとつさえ味に関係してくる。
そしてもちろんお湯の温度、注ぐ間合い・・・
美味しく飲めた昨日と同じように淹れたつもりでも、今日のはまるで別物みたいな味がするのは何故なんだろう...。
一杯の珈琲が美味しくなるのもならないのも、ほんのちょっとした気配り、心配りが大いに影響する。
いや、それ以前の ’’心の在り方’’ こそが、恐ろしいほど味に映し出されるんじゃないか、と最近では思う。
それは、楽器を奏でることととても似ている。
le 19 Mai 2021
’’見えない部分を慈しめば、その人の醸し出す印象も変わる’’
下着をプロデュースしたある女優さんの言葉にハッとした。
自分のことは後回し、自分を犠牲にしてでも人に尽くせ。
物心つく頃からの大切な成長期をそんな教えで塗り固められてしまうと、なかなかそのブ厚いペンキを剥がすことが難しい。
自分のことを一番大切に出来てこそ、人は身近な人を本当の意味で大切にすることが出来る。
なのに、こんな大事なことを教わらないまま私たちは大人になってしまう...。
フランス人という人種は、とかく個人主義だと批判され、わがままな印象を持たれるものだが、もしかしたらこの真理を本能的にわかっている人たちなのかもしれないと思う時がある、例えばサントノレ通りにこんなお洒落なお店があることからも。
le 22 Mai 2021
買い出しに行く時はもちろんだが、それ以外の外出の際にもエコバックなりビニール袋なり、なんらかの袋を鞄に忍ばせて出かけることが習慣になった。
「もし何か買った場合に備えて」ということだ。
外に出かけるとは、何かに出会う、ということをも含む。
思いがけないものに出会えるのも、’’外’’ に出て行ってこそ。
家の玄関を開けて一歩を踏み出すこと然(しか)り。
自分自身の胸の辺りにある扉のようなものを開くこと然り。
宇宙規模の、とてつもないサイズの袋をいつも用意していたいものだ。
le 25 Mai 2021
何かをやっててサイコーに気分が高揚してる時、絶対それをストップさせないでおこうね。
自分ばかりがこんなに楽しくていいんだろうか、なんて思う必要ないからね。
もちろん、それを続けることで誰かに迷惑がかかったり、誰かを悲しませることなら別だよ。
でもそうじゃなければ、続けてていいんだ、気のすむまで。
これをやってて何になるんだろう、と考える必要もない。
言うまでもないことだけど、到着地点が大切なんじゃなくて、その行為じたいが掛け替えのない貴重なものなんだ。
無心に楽しんでいい、とことんね!
le 27 Mai 2021
『豊かさは、その人のその瞬間に最適な形でもたらされる』と、ある賢者の言葉にある。
’’豊かさ’’ とは、目に見えるもの、手で掴めるものだけに限らないからだ。
そして。
こちらが願いとして意図しているいないにかかわらず、いつも守られている、ということも知っていた方がいい。
見えてくるものが、まっっったく違ってくるから・・・
le 29 Mai 2021
どこかの誰かが決めたことを、何年、何十年、相も変わらず続けている...。
日常のあちこちに、実は驚くほど溢れ返っている。
「そういうことになってるから」「そういうモンだから」
そうやって何の疑問も挟まずただ黙って従うことにいつの間にかすっかり慣らされてしまっている、ということに先ず気づこう。
慣習、規則、それらは本当に ’’どんなことがあっても従う’’ という選択肢しかないものなのか?
そもそもそれは、誰のため、何のためにあるのか。
一歩ひいたところから、すべての先入観を取っ払って静かに観察してみる必要がある。
もし、それに対して「ん?」とクエスチョンマークが浮かんだら、決してそれを無視しないようにしよう。
「いやいや、皆んなそうしてるんだから」「それが決まりなんだから」と、浮かんだクエスチョンマークを慌てて打ち消すなんて、そんなバカなことだけはしないようにしよう。
潜在意識からのメッセージは、たいてい ’’頭’’ からの指令とは真逆のことだったりするものなのだ。
そしてそのメッセージは、何より大切な ’’自分自身’’ の行き先を照らしてくれる貴重な灯り、信じるに値するものなのだ。
le 2 Juin 2021
そうか!
あの時のアレが今のコレに...!
例えば... 寝返りばかりの眠れない夜。
ごそごそとベッドから這い出して何気なく開いたインターネットのとあるページ。
普段なら見ることなどないそのページに導かれ、深く考える前に指先が反応した。
その先に待っていたものは、自分では 1mm も想像できなかった御縁で、まさかあの時のアレが・・・
... というような展開の種は、実は日常のそこここに、誰の身の上にも与えられているのだと思う。
考えてみれば、毎瞬、たとえ深い眠りの中にいる間でも、すべての瞬間はそういうもので構成されているのではないだろうか。
理屈や慣習ではなく、常に感覚を全開に、感性に舵をとらせて生きることで、星の光のように降ってくるたくさんの物事の中から潜在意識に導かれて受け取るもの。
それが後々、’’あの時のアレ’’ となるのだ。
le 4 Juin 2021
ギリシャ語で「5」を意味する「Pente ペンテ」が名前の由来となっている五枚の花弁をもつ『ペンタス』。
英語名が『Star Cluster(星団)』なのは、この星型の小さな花々の咲く様子からきているらしい。
花言葉の「願い事」や「希望が叶う」も推して知るべし、だ。
ところで、本気で叶えたい夢や希望は、細部までできるだけ具体的に思い描き、しっかり心に刻み込む方がいいらしい。
「幸せになりたい」とか「豊かな生活がしたい」などという望みは、例えれば、どこか美味しいレストランに食べに行きたいなぁ、と漠然と思っているだけの状態だというのだ。
そして、たとえレストランに入ったとしても、具体的に自分の食べたい物を注文しない限りいつまで待っても目の前には現れず、永遠に食べることはできない、と賢者たちは分かりやすく説明してくれる。
「何か美味しいものをお願いします」という注文ではお店の方も出しようがない、と。
どうやら星々にお願いする時も同じらしいのだ。
なるほど... 確かにそのとおりなのかもしれない。
le 7 Juin 2021
光と影、明暗は、決して良し悪しではない。
コインの裏表、互いを引き立てあうパートナーみたいなものだ。
映画や小説の中にも、ヒール(悪役)がいてこそ人間関係がくっきりと描かれ、生身の人間の様々な面が浮き彫りになる。
登場人物全員がいわゆる ’’いいひと’’ だったら、物語は平坦で退屈なものになってしまうだろう。
自分の人生にも様々な登場人物がいてくれる。
関わるひと全員が ’’(自分にとって)いいひと’’ ばかりだったら、楽かもしれないが、もしかしたらつまらないかもしれない。
色んなことを経験したくてこの世に生まれてきた我々にとって、味わうどんな感情も「良い / 悪い」ではないんだそうだ。
つまり、全ては「経験できて良かったね!」ということ。
自分の人生にヒールが登場することで、思いがけず辛い月日を過ごすことになるかもしれない。
でも多分、その先の場面にいる自分は、その時期を経験してこその、喜びと自信に満ち溢れた面持ちをしているだろう。
そのことを知っていれば、たいていの事には動じずに済む。
ヒールを演じてくれてありがとう! とさえ思えるだろう。
結局のところ・・・
誰もが生かしあっている。
生かされているのだ、今日も。
le 9 Juin 2021
成績の良し悪しという物差しで人と比べられたり、皆でいっせいに同じように出来る為の訓練を受けたり。
集団からはみ出てしまうことに負い目を感じなければいけないような空気の中で育った子供時代。
そうやって大きくなってきたことで、いつでも自分を罰するためのスイッチが押せるよう、常に無意識がスタンバイしてはいないだろうか。
目に見える形で賞賛されるに値いする生産的な仕事をしないと存在価値を問われる、ということなどないのだ本来は。
自分を犠牲にし、すり減らしてまで人の為に生きたり、まして国や組織の為に生きるなどという価値観は、遥か遠い過去のもの。
何か特別なことを成し遂げなければ、と思う必要などない。
何もしていない、出来ていない、という焦燥感も手放そう。
例えば。
ただ存在するだけで、周りの人に癒しが起きたり、周りの人が「自分らしく生きてみよう!」と思えたり...
それはどれだけ素敵な生き方なんだろう。
「生き方」とは「在り方」だ。
この先の「いつか」の為に生きるのではない。
人生は、「今」「今」「今」の連続でできている。
あぁ、今日も植物たちの生命力がこんなにも眩しい。
le 12 Juin 2021
’’おうち時間’’ という単語を頻繁に耳にするようになって、どれくらいが過ぎただろう。
居心地のよい空間、くつろげる空間、心身を委ねられる空間。
自分の住処(すみか)を整えることは、お客さんの為なんかではなくて自分自身の為なんだよ。
もちろん大切な家族の為でもあるけれど、突き詰めた意味で言うと ’’自分自身の為’’ なんだ。
自分の為に何かをする。
それは自分を甘やかすことや自分のワガママを通すという意味なんかではなく、「自分を大切にする」ということなんだよ。
自分を慈(いつく)しむことが出来るようになると、大切な人のことを本当に大切に出来るようになる。
まずは自分自身に丁寧に接しよう。
独りの食事でも、自分の身体の為に心を込めてお料理しよう。
ティータイムには、丁寧に入れた好きな飲み物を、お気に入りのカップでゆっくり味わおう。
自分自身を心からもてなしてあげたら、きっと「ありがとう」が返ってくる、あなた自身から。
その波動が、外に向かって素敵な循環を生むのだからね。
le 14 Juin 2021
わたしたちは思考を巡らせる時、その内容によってはつい目線を下に向けてしまいがちだ。
’’ぢっと手を見る’’ と書かれた石川啄木の作品からは、辛く困難な状況だけでなく、暗澹たる思いまでもが伝わってくる。
つい下に落としてしまいがちな目線を、ちょっと意識して上へ向けてみよう。
無限に広がる選択肢や可能性が、手を伸ばせば届くところに感じられてくるから。
もしかしたらそれは、宇宙にあるコンセントに自分のプラグを差し込むようなことなのかもしれない。
すべては用意されていて、’’豊かさそのものの宇宙’’ へと自分が繋がれば・・・
ほら、なんだって可能に思えてこないか?
何も困ることなど起きてはおらず、すべては良き方向へ向かっていて、今この瞬間も足りないものなど何ひとつない。
そのことを感覚的にキャッチできればもう怖いものナシだ!
目線をあげればそこには青空が両手を広げて待ってくれている。
その瞬間、きみは笑顔の自分に出会えるだろう。
le 18 Juin 2021
カーテン越しの陽の光が、お気に入りの本のページを柔らかく照らしてくれている。
傍には美味しい珈琲がいい香りを立ちのぼらせていて。
なんの予定もない日の、なんと穏やかな時の流れだろう。
移動中の電車の中や待ち合わせ場所に早く着いた時、または寝る前のゆるやかな時間、その時々に合う本を読むのも最高の贅沢。
シチュエーションだけでなく、お天気によっても、時間帯によっても、そして体調によっても手に取りたくなる本は異なる。
だからいつからか私は、数冊の本を同時進行で読み進めるようになった。
ジャンルは、当然ながら全て異なるものばかり。
近いと混同しちゃうし、相食んでしまうのは勿体ないからね。
本の内容に合わせ、お伴にするブックカバーや栞も選ぶ。
そんな小さなことも心踊る楽しみなんだなぁこれが。
そしてこれらがひとつのバロメーターとなって教えてくれる。
本意ではない時間の使い方をして自分をすり減らしてしまっていないかどうかを。
自分らしく生きているかどうかを。
’’日常’’ という一本の軸から無限の ’’パラレルワールド’’ が繋がっていて、自在に行き来できる状態に自分を置くことの大切さ。
健全なる感覚 / 感性を活かし、毎瞬を丁寧に生きていたいから。
le 21 Juin 2021
命の危険を顧みずに行くしかない断崖絶壁にある小さな洞窟の奥、深い深い海底に沈んだ大昔の豪華客船、人類未踏の地の果て... そんなところへ行かないと「宝物」は手に入れられない、と童話や物語では相場が決まっている。
’’簡単には手に入れられないもの’’ という意味で非常にイメージしやすい。
確かに、たとえ億万長者がありったけのお金を積んだとしても、どこかに売っているものではない。
がむしゃらに頑張りさえすれば手に入れられるというものでもなく、天才が知恵を絞れば作り出せるというものでもない。
「心から信頼を寄せられる人」という人生の宝は、そういうものだ。
もしくは、「お互いを信頼しあえる相手」と言えるだろうか。
’’信頼’’ とは、何か数値で示せるものでもないし、形で表せるものでもない。
目に見えず、触ることもできず、そして... 永遠にその状態が続くという保証さえない。
ある意味とても脆(もろ)いものでもあり、だからこそより確かなものでもある。
今回の人生ではどういう関係性の人とそういう御縁を結ぶことになっているのだろう。
そのサインを見逃さない自分でありたいと思う。
le 25 Juin 2021
古くから、海や川など、近くに清水が流れているところに神様をお祀りするお社(やしろ)は建てられてきた。
水の浄化力によって、お詣りの前に心身の穢(けが)れを取り去る「禊(みそぎ)」、これを行いやすくする為だと聞いたことがある。
現代では、神社や寺院にお詣りする際に手水舍で手と口を清めるが、そこに花々を浮かべて飾るものを「花手水(はなちょうず)」と呼ぶ。
もともとは、野外での神事などで水がない時に花や葉についた露で手を清めたことを指していた言葉らしく、「芝手水」「草手水」「雪手水」という言葉もある。
その、どれもない時に...。
「塵(ちり)ちょうず」というものまであるとは知らなかった。
空中の塵をひねるようにして手を清める動作らしいが、それは大相撲での取り組み前の力士の作法のひとつでもあるのだそうだ。
身を清め、心を清めてからお詣りする行為は、神という存在と向き合うことで究極的には自分自身に向き合い、自分軸を修正しなおす行為でもあるような気がする。
心地よい ’’氣’’ の流れる空間に身をおき、静かに心を正す。
どんな時代でも変わらず行われてきたことのひとつだろう。
le 30 Juin 2021